音楽における死生観について 〜bookman の「虐光のワルツ」に際して〜
我らが友人、bookmanの新曲「虐光のワルツ」が7/20にリリースされました。
淡々とした自己肯定感の希薄さと、土砂降りのような音で背中を押される、bookmanならではの演舞曲です。
詩人・木囃子という人間の"Auld Lang Syne"だと思ってもいいのかもしれません。
前回初めて文章を寄稿した際、この曲について書くことはリリースされてからにしよう、と綴りましたが、他人の曲を解釈としてどう受け取ったかなどわざわざ語ることもナンセンスかと思ったので、単純に宣伝するだけに留めておきます。
bookmanは今年まだまだ動きがあるので、今後のリリース、LIVEの情報もお見逃しのないよう注視していただけると幸いです。
さて、この流れで行くとbookmanがとなり兼ねませんので、もっと視野角の拡い話として捉えていただきたいのですが、昨今のアーティストに多々見られる歌詞の「死生観」について、少し思うところがあります。
あくまで作り手ではなく、聴く側の私の感覚の話です。
※そしてこれは宗教的な発信ではなく個人の考えだということもご理解いただきたい
「死生観」
それは哲学であり倫理であり、人生の悩みや受け入れられない葛藤、それこそ排他的な分類に自分が落とし込まれていることへの反抗という意味でのRockだったりします。
2000年代後半からのボカロの文化や、もっと前からのインディー・オルタナティブな音楽でも特に、生と死について、またそれに付随する性について取りあげられることが増えました。
「民衆を導く自由の女神」よろしく、政治的思惑を含有する大多数の社会への反抗とは少し捉え方の違う、よりミニマルで個人に追及した"反抗"であると同時に、少数として視界に入らない自分を理解して欲しいというある種の願いが込められている表現でもあると思います。
時にそれは大多数の側からすれば、哀れみをもって見られる女々しい表現でもあるでしょう。それを陰と陽という表し方をする現代で言い換えれば、陰の音楽であることに間違いはありません。陽の側はテンションの上がるパーリーでFooo!な音楽を聴いていれば良いのです。
死生観と文字にすると、「死」と「生」とをどう捉えるかの倫理的・哲学的な考え方となります。それを音楽にしたとき、表現として個人のレベルで起きた事象に結びつけて詩にすることがほとんどです。bookmanはその最たるものでしょう。
我々は(ほとんどの場合、と注釈しておきますが)、「生きるとは何なのか」がわかっていないのと同様に、いやそれ以上に、「死とは何か」を理解していません。
例えば自殺未遂や病気からの快復、他殺未遂からの生還など、臨死体験をした人間は幾許か存在します。
しかし、それは「死を経験した」のではなく、あくまで「死に臨んだ」だけであり、「生きている状態で「死」というものに近づいた経験」しか表現することはできません。
「死生観」とは、死と生を比較したり、二つを天秤に掛けたり、「生という状態」から「死という未知の領域」に希望や絶望を抱くことなのだと、そう思います。
そうした音楽や、文章などに表現されている「死生観」というものが、果たして真実であるのか。それがわかるのは、生を全うした時だけでしょう。どんなに死に近づいた思考であっても、それを肯定するにも否定するにもまずは生ききらなければなりません。希死観念は生きているからこそ抱く感情だと身に刻まなければなりません。
最期にどうだったかを振り返るときの反省材料として。
何より、個人が発信する「共感」や「反抗」として、表現を自分の生活の一部にして今自分が土台として立っている「生きること」への、少しばかりの補助となるようにすること。
bookmanの「虐光のワルツ」がリリースされたことに因みまして、「死生観」とは基準が「生」であることをちゃんと認識した上で、誰かの助けとなり共感となる音楽といういち表現となることを願っています。
Invisible Forest Record
大将
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