【第一章 マネージャー原大一志、生まれる。】
こんにちは。原大一志(はらたいし)です。
今日からここへ僕が実際に経験してきた『高校野球でチームを甲子園へ導いたマネージャーをしていたこと』を書き綴っていこうと思います。
何章になるかわかりませんが、この投稿が多くの方の夢や希望となり、人生が輝くきっかけになってくれたら嬉しいと思っています。
僕のルーツは野球です。
小さい頃からの夢はもちろんプロ野球選手になることでした。
なぜ僕が野球を始めたか。その理由は母です。
小学校1年生の時からシングルマザーだった母を
「楽にしたい。将来自分がプロ野球選手になってお金を稼いで、有名になる。そして母の自慢の息子になる。」
そんな想いから僕は野球を始めました。
プロ野球選手になるための「条件」として考えたのが「甲子園」に出場し全国優勝すること。そして憧れを持った広島の広陵高校に進学しました。
プロ野球界へ多くの選手を送り出し、甲子園の常連校でもある広陵での生活は想像以上に厳しいものでした。
そんな高校生活の中で僕の人生のターニングポイントになる出来事が起こります。
広陵高校野球部には女子マネージャーを募集しない伝統があります。(現在は女子マネージャーも在籍しているそうです)その理由は、
「どの部員にも一人ひとり役割がある。その役割をチームが勝つ為に全部員が全うすること。そしてどんなことがあっても一番偉いのはレギュラーではなく、チームを陰で支えサポートをしているマネージャーを含む控えの選手だ。」
という考えがあるからです。
入学し、そこから暑い夏を過ごし、過酷な冬の体力トレーニング期間を乗り越えた高校1年生の年明け、毎年恒例のある行事が行われます。
それが、1年生の部員約40名の中から1名代表でマネージャーを決めるというものでした。
マネージャーになるということは、実質の引退宣告となります。
①夢であるプロ野球選手になることを諦めること。
②選手として甲子園の土を踏めなくなるということ。
そのことを理解した上で、1年生の部員が全員教室に入り話し合いが始まりました。
始まって3分も経たないうちに結果は決まりました。全部員の満場一致で僕が推薦されました。
周りの仲間たちに認められているという喜びと、マネージャーになるという現実。
その時のことは今でも鮮明に覚えています。僕はその日、答えを出すことができませんでした。
今日まで野球をやってきた自分がここで夢を諦めるのか。
小学校からやってきた野球。関わってきた僕に期待をしてくれている今まで指導をして下さった関係者や地元の仲間。
そして何よりも家族。特に母への想い。
15歳には過酷な選択でした。
数日、真剣に考え、悩み、葛藤していた数日後。ある出来事が起こりました。
同級生で入学から当初からレギュラーになり1年生のキャプテンとしてチームをまとめていた上本博紀(元阪神タイガース)に呼び出されたのです。
その時が僕の人生を大きく動かした瞬間でした。
「入学してすぐ試合に出してもらってる俺が言えることじゃないかもしれないけど。俺は大志にマネージャーになってほしいと思ってる。お前がマネージャーのチームで絶対に甲子園に行くから。野球は俺に任せてくれないか?」
その時の彼の言葉に心が動きました。人生15年、自分の人生でまさかこんな出来事が起こるなんて予想もしてなかった。ただこの時気付いたんです。
「人にはその人にしかできない役割がある」
僕はこの日小学生から続けてきた、野球選手としての人生に終止符を打つ覚悟を決めました。自分の役割はマネージャーになり、このチームを強くすることだと。
僕の第二の野球人生が始まりました。マネージャーとしての人生です。
その時に学んだ成功哲学があります。
①感謝できるから成功する
②自主性を持つ
③自分たちの時間を大切にする
(細かいエピソードはのちの章で詳しく書き綴ります)
全てのことに感謝し、自主性を持つ。そして、監督やコーチ、先生が見ていない時間こそ大切にしていく。
その中心で毎日真剣に監督たちと選手たちとのパイプ役として、練習の管理、寮生活の管理、私生活の管理、選手のケア、全てに全力を尽くしました。
広陵高校に入学してからの夏、2年生の春、夏。3年生の春。
僕は高校時代に4度の甲子園を経験させていただき、2年生の春には全国制覇という経験もさせて頂きました。
自分が陰で支えマネイジメントしてきたチームが全国優勝をするという経験はかけがいのない経験となりました。
そんな高校2年生の秋。
僕たちは県予選、中国大会、明治神宮大会で勝ち進み、春の甲子園出場を確定させました。
前年全国制覇をしているチームともあって、日本中から2連覇の期待と注目を集めました。各選手が厳しい冬の練習を乗り越え、甲子園のベンチ入りを競います。
そして、ベンチ入りメンバーの発表。
18人の名前が順番に呼ばれる中、背番号18番として、なんと僕の名前が呼ばれました。
マネージャーである僕が選手で背番号18番を背負い、ベンチ入りしなさいという発表でした。
嬉しさとは逆に、今日まで必死にベンチ入りを目指してやってきた選手への申し訳なさ。複雑な気持ちでした。
僕は素直に受け入れることができませんでした。その時に監督から一言。
「18人は全員の推薦で決めたけえのう。チームが勝つ為の18人を選んだけえのう、選ばれた選手も選ばれなかった選手も全員に役割がある。試合に出るのはせいぜい12人くらいじゃけ。それ以外はチームが勝つ為の選手を選んだ。だから大一志をマネージャーじゃなくて選手としてベンチに入れる。」
後からの話ですが、この時一番最後まで僕をマネージャーではなく選手でベンチへ入れて欲しいとお願いしていたのは上本博紀だったそうです。
「チームや仲間に対しての想いの強さ」が一番強いのが大志だと。役割を全うし一番努力してきたのは大志だと話していたと後から聞きました。
僕は憧れだった甲子園の舞台に選手として立ちました。その経験は僕の人生の中での大きな財産となっています。
これが、僕のマネージャーとしてのマイストーリー。
そして卒業して16年の月日が経った今(2021年5月)、僕はこの高校時代の経験をここに書き綴ることを決めました。
時代は大きく変化し、コロナという混乱を招き、今リーダーが求められる時だからこそ、このストーリーが多くの方の勇気や希望になれたらと思っています。
この経験から得た、今の僕にしか伝えることができないこと。
マネージャーを通じて何を感じ、何を得て、何を伝えてきたか。
実際のリーダーシップやマネイジメント論、コミュニケーションやモチベーション、そしてこれからの時代の生き方など。
具体的に次章よりお伝えしていきたいと思います。
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