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人間を舞う。

生きてるだけで舞。好きな映画の言葉をそのまま使ったこの言葉からこの感覚ははじまった。
渡辺泰司 単独路上公演。
人間を踊る。自己実存確認運動だ。

何をしていても人には踊りが宿る。これはある種の暗示的発言になってきた。
踊りと踊りの間、存在と存在の間、人と人、人間これをジンカンと読む。

ヨーロッパの主君と家臣との関係、主君に対して隷従して奉仕する。昭和の家族構成が特に分かりやすく、亭主と嫁。
女が家事をし、育児をし、亭主の帰りを待つものだと。
平成だとスクールカーストの様な、歳が同じだと、違うなどというのはまるで関係なく人間的関係性に置いて勝手ながらに生まれる封建的関係。

どの時代においてもどの年齢においても退廃しているかの様なつまらない人間性が存在し続ける。
封建的、、、『封建的人間性』
家族、友人、団体、同僚、すれ違う人間達、
どこからみても単位で表せるものなのなら封建的なものにも感じざる負えない。

狭い。自分は目の前に置いている人間達以外にも外にある人間的関係を持ち、それを別の人間で語る。
その様な人間的関係が複数自身の中に存在していようとも自分自身は1人で描いてきた関係性はその全てが封建的なものなんじゃないかと。

外から見てモノを言っても外の線を描いているのは自分自身でしかない。
知らぬ事がある自覚が在ろうが、無かろうが、関係がない。

人によって自身の描く世界の形と姿は全く異なり、或いはかなり近しい感覚と想像を持っている他者も中にはいるだろう。

一番外の線が人によっては直線ではなく白いモヤの様な霧の様なモノで形成されているかもしれない。
ある人はとてつもなく分厚い何かで覆っている人がいるのと同様に。

自分の中に何人か自分がいて俯瞰して日頃物事をかんがえる人がいる。では、俯瞰する一番外というものは何処なのだろうか。果たしてそれは枠外なのかそれとも中心から一番離れたと感じている何かに背をつけて真ん中を見つめる様な行為なのか。

今で言う宇宙に対する人類の感覚と似たものが常に人の中には存在している。

計り知れないほどに遠くて狭く、極小の広大な目に見えない世界が交差し今日も街を賑わせている様な気がする。

パフォーマンスではない。
剥き出した承認欲求はいわば路のノイズになり得るのか。
提供すべきは勝手ながらの感動。
見せずして、魅せる踊り。
見せようとせずとも魅入られる踊り。
バンクシーの様な、溶け込んではいるが異物としてその場になる。

ただひたすらに路端に花が咲いて枯れていくだけ。
誰かの視界には確かに在る。認知はしない、心で触りもしない。西田幾太郎の言う純粋経験の様なものが、ここには在るかもしれない。言葉に落とすその前のものが。
福原先生の提示し続けたspace dance。
spaceという言葉、宇宙とも空間ともなる。
宇宙ダンス、空間ダンス。

僕の精神が死ぬその時まで。
私は1人ただ舞う。
これはただの自己実存確認運動。

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