尾上月子は顔が怖い #パルプアドベントカレンダー2021
尾上月子は顔が怖い。それはもう、半端なく怖い。そんな彼女は僕の恋人だ。いや、恋人だった。あのときのクリスマスまでは。
これはそういうお話だ。
◇
彼女と僕は同じ高校に通っていた。だけど1年生のときはクラスも別、部活も別(彼女はバスケ部、僕は園芸部だ)で、接点は全くなかったのだ。そんな彼女と親しくなったきっかけは、ある2冊の本だった。
梅雨時の静かな、だがひたすらに降り続く雨にも構わず、僕は高校近くの大型ショッピングモールに急いでいた。目当ては、ここの大型書店。ここに今日、僕が発売を心待ちにしていたものが入荷されているはずなのだ。
夕方ということもあり、買い物客は多い。人の波をかき分け、早足で急ぐ。書店にたどり着いた。そのまま目当てのコーナーへ。
そうだ。そこに、尾上月子がいたのだ。怖い怖い顔をした彼女が。
ひと目見た瞬間、彼女が尾上月子だと僕にはわかってしまった。なにせ彼女は、うちの高校では結構な有名人だったからだ。
噂に曰く「今年の一年に、めちゃくちゃ顔が怖い女がいるらしいぞ」。
「顔が怖い」の一点だけで話のネタにするのは、もはやイジメなのではないか。噂を聞いたとき、僕はそう思った。ところが、いざ本人を目の前にしてみると……僕は後々、「なるほど、噂どおりだな」とそのとき思ってしまったことを彼女に告白、謝罪することとなる。
尾上月子は両手に一冊ずつ本を持ち、獣のような顔でそれらを睨んでいた。右手の本を睨み、左手の本を睨み、眉間にシワを寄せ、低く唸った。まるで天敵を威嚇するような、そんな声だった。
親子連れが通りかかった。子供のほうが尾上月子をちらと見て、石のように固まった。母親のほうは、急に立ち止まった娘に怪訝な顔を向け、続けて尾上月子の方を見て、同じように固まった。そのうち親子して小刻みに震えだした。尾上月子の顔は、それほどのものなのだ。
僕も固まっていた。彼女の顔を怖がっていたわけではない。違う理由でショックを受けていたからだ。
彼女が右手に持っていたのは写真集。タイトルを『いぬ』という。そして左手のそれも写真集。タイトルを『ねこ』という。
名は体を表す。シンプルな表題が表す事実は唯一つ。「この写真集にはワンちゃんやニャンちゃんの超カワイイ写真しか収録されていませんよ。それ以外に、なにか必要ですか?」ということだけである。そして何を隠そう、僕のお目当てとはその写真集を指すのであった。
僕は尾上月子に近寄っていった。彼女は僕に全く気がついていないようだ。相変わらず恐ろしい顔で本を睨み、低い声で唸っている。僕は彼女の前の書棚を確認した。『いぬ』も『ねこ』も無い。つまり彼女が持っているのが最後の1冊、いや2冊というわけだ。
僕は盛大にため息をついた。だってそうだろう。お目当ての本を買いに来たら、最後の1冊を先に取られていて、しかもその相手がものすごく怖い顔をした女の子だというのだ。ため息をつく以外、どうしろというのか。
尾上月子は右手の『いぬ』を棚に戻しかけてはやめ、今度は左手の『ねこ』を棚に戻してはやめ……そんな動きを延々と繰り返していた。僕はもう一度ため息を付き、彼女に近づいた。
「尾上さん」
「みゃあ!?」
妙に可愛い悲鳴を上げて、尾上月子は思い切り狼狽した。振り回した『いぬ』が僕の額に直撃した。痛い。
「わあ!? ご、ごめん!」
「別にいいよ。そんなことより」
僕は彼女の持つ『いぬ』を指差す。
「どっちにするか、決まらない?」
「え……?」
彼女は不思議そうな顔で僕を見る。不思議そうな顔も怖い。
「なんで分かるの、あたしが迷ってるって」
……分からないとでも?
聞けば、彼女は1冊分の予算しか用意できなかったらしい。そこで現物を見て決めようとしたところ、どちらも本当に素晴らしすぎて、どうしても一つに決められなかった……のだそうだ。まあ、気持ちはわかる。僕が同じ立場に追い込まれたなら、同じように悩んでしまっていたことだろう。もちろん、ごく普通の顔で。
だから僕は、彼女に提案をした。昔何かで読んだ、「オーオカサバキ」って発想だ。
「あのさ、尾上さん。僕と尾上さんで一冊ずつ買って、それをシェアしあうってのはどうかな」
「え?」
「尾上さんはどちらか一方に決められずに困っている。僕は2冊買える予算はあるけど、両方とも買う気はたった今なくしてしまった。だからシェア」
「ええと……その、正直言って、あたしは助かる、すごく助かる。でも」
「言いたいことはわかるよ。なんでわざわざそんなことを、っていうんでしょ」
「うん……なんで?」
それは、君のことがずっと前から気になっていたからだよ……なんて言えていたら良かったかもしれない。だが残念なことに、この時点の彼女は「やたら顔が怖いと噂の同級生」でしかなかった。
だから僕は正直に言った。
「そんな怖い顔して悩むくらい好きなんでしょ、動物。同じ動物好き……だよね? 動物好きとして、なんというか、そうしたほうがいいのかなあ、って思ったんだ」
それだけだよ。本当にそれだけ。そう付け足した。
それを聞いた尾上月子は……怖い顔のまま、口元に手を当てた。
「……あたし、そんなに、怖い顔、してた?」
真っ赤な顔をしながら、震える声で聞いてくる。
そんな彼女を目の当たりにした僕は、ほんのちょっとだけ、彼女をかわいいな、などと思ってしまった。というか、やっぱり気にしていたのか。
「ええと、じゃあ、そういうことでよろしく。ああ、そうだ。僕は平井。平井由秋」
「あたしは尾上……あれ、そういや平井くん、どうしてあたしの名前知ってたの」
そりゃあ、あなたは有名人ですからね、なんてことは口にしなかった。
こうして僕と尾上月子との交流が始まった。交際、ではなく交流だ。
LINU(動物好きが集まるSNSだ)のアドレスを交換し、時折メッセージを送りあうようになった。かわいい動物の情報を教えあったり、動画や画像をシェアしたり、まあそんなところどまりだ。
ちなみに、結局彼女が『いぬ』、僕が『ねこ』を買うことにした。選択に意味はない。じゃんけんの結果だ。
◇
交流開始から3か月ほどたった、ある日の放課後、僕らは二人で書店に向かった。このころには、僕たち二人だけでいろいろなところに行くことも多くなっていた。そうなると、まあ、我ながらすごく単純な気もするけれど、要するに、僕の中の尾上さんへの好意はどんどん膨れ上がっていっていたわけだ……正直に言うと、僕の方はもう「どのタイミングで告白しようか」ぐらいには出来上がってしまっていた(尾上さんがどうだったかはわからない)。
15分後、目当ての品を手に入れた僕らは、フードコートでたこ焼きをシェアしながら戦利品を堪能しあっていた。
「そういえば」
僕はふと、そのとき心に浮かんだ疑問を彼女にぶつけてみた。
「尾上さんは、なんで動物好きになったの」
尾上さんは一瞬、軽く驚くような顔を見せた。そしてすぐさま、例の怖い怖い顔で僕の顔を睨んで……いや、じっと見つめてきた。
「なんでそんなこと聞くの」
「え? いや、なんとなくだけど。言いたくないなら別にいいよ」
尾上さんの顔がますます険しさを増していく。隣のテーブルに座っていたカップルが、短い悲鳴をあげるのが聞こえた。
長い長い時間がたった。そう感じただけで、実際には大した時間じゃなかったかもしれない。時計を見て確かめたわけじゃないし。
「……逃げられるの」
ようやくそう言った尾上さんは、怖い顔のまま真っ赤になっていく。
「え?」
「小さい頃から、私が動物に近づくとみんな逃げていくの。犬も、猫も、小鳥も」
「え……」
「ふれあいコーナーのウサギも、モルモットも逃げる。トラにも背を向けられたことがある」
ええ……。
「そんなことが数え切れないほどあって、それで」
ああ、なるほど。
人は自分には手の届かないものに、強い憧れを抱くものだもんな。
「だから今は写真でがまんしてる。だけど、いつかあたしは心ゆくまでモフモフを抱きしめてやるんだ。モフモフに顔をうずめて、胸いっぱいモフモフを吸うんだ」
吸うんだ。
「うーん……夢、叶うといいね」
僕が何気なくそう言うと、彼女は意外そうな顔をした。そしてすぐさま怖い顔で僕をにら……見つめてくる。ちょっと恥ずかしい。
「な、なに?」
「……笑わないの?」
「え? 笑う? なんで」
尾上さんの顔が、ますます凶悪さを増していく。
「……あたしみたいな顔の女が『カワイイものが好きなんです~』とか言ってたら、普通は笑うもんじゃないの?」
「いや、笑わないよ。だって動物好きに顔は関係ないし」
僕がすぐにそう答えると、尾上さんは大きく口を開けた。牙のような八重歯が顔をのぞかせていた。
「……そう、なのかな」
「そうだよ」
尾上さんの境遇に同情こそすれ、人の真剣な悩みを笑い飛ばすなんてできない。尾上さんにそう伝えると、彼女は例の怖い顔で、僕の目をじっと覗き込んできた。
たっぷりとそうしたあとで、彼女は視線をそらし、小さな声で「ありがとう」と言った。なんのお礼かはいまいちわからなかったが、とりあえず僕も「どういたしまして」と答えておいた。
なんだか、居心地が微妙に悪い時間が生まれていた。
僕は救いを求めてフードコートを見回す。ちょうどそのとき、店内に設置されていたモニターにはワイドショーが映し出されていた。その日のスポーツ新聞の記事を紹介するコーナーのようだった。キャスターが、記事の見出しを読み上げる。
『犯人は狼男?』
「おおかみおとこ」
僕がそうつぶやくと、尾上さんが大げさなほどビクリと反応した。
その記事は、最近この街で起きている連続通り魔事件を扱ったものだった。ニュースでは被害者は五人。かなり多い。だけど嘘か本当か、表沙汰になっていない数まで含めるとさらに数は増えるのだという。犯人は手がかりも残さず逃走中。学校でも先日、注意喚起のプリントが配られていた。
キャスターが記事を紹介していた。なんでも、最後の被害者が襲われている瞬間を、ある店の監視カメラが偶然とらえていたらしい。店員がその動画を動画サイトにアップし、ネットの片隅でほんの少し話題になり、それを胡散臭い記事で有名な新聞がネタにした……という流れなのだそうだ。
半笑いのキャスターの合図で、動画が流れ始めた。画質はかなり悪い。画面の中央を人が歩いているが、男か女かすらはっきりしない。
その人を、背後から黒い影が襲った。
それは「黒い影」としか言いようのない何かだった。影は風のように画面を横切り、消え去った後には地面に倒れる人だけが残されていた。
……何なんだ、今のは。
「ねえ尾上さん、今の見た?」
僕は尾上さんに話しかけた。返事はない。尾上さんは食い入るように画面を見つめていた。今まで見せたことのないような顔で。僕はなにかの本に出てきた、『凶相』という言葉を思い出していた。
ニュースでは動画が繰り返し、スローで再生されていた。黒い影はかなりのスピードで動いているんだろう。スローでもブレブレで、姿はよくわからない。一時停止した画像でも、正直何が映っているのかさっぱりわからなかった。
キャスターが、静止画の黒い画像を指して言う。ほら、ここ。多分頭なんですけど、なんだか動物の耳のようなものがついているように見えませんか? それからほら、見てくださいよ、これどう見ても尻尾ですよ尻尾。だから、犯人の正体は現代に蘇った狼男ではないんか、なんてネットで噂になってるんですよ~。
……見えるかな? 僕は目を凝らすが、正直「そう言われれば見えないこともなくはないかもしれない」程度でしかなかった。テレビでもあんのじょう、コメンテーター役のお笑い芸人から思い切りツッコまれていた。
笑い事じゃないような気がするけど。そう思いつつ僕は尾上さんを見た。尾上さんは相変わらずすごい顔で、画面を見つめ続けている。
なんだと言うんだろう。狼男に興味でもあるとか。そう考えた僕の脳裏に、先程見えた彼女の八重歯が浮かんだ。鋭い、まるで牙のような。
牙。動物から逃げられる体質。怖い顔。
えーと、つまり?
「……今の、もしかして尾上さんだったりするのかな」
「え?」
僕の言葉を聞いた尾上さんは、いつもの怖い顔で僕のほうを見た。
「そそそそそんなわけないあんなのがあたしなんてなんてこと言うの平井くんちがうちがうちがうちがうからあ!」
尾上さんは両手をブンブン振り回しながらそう返してきた。
今でも思う。僕はどう反応するのが正解だったのだろうか。とりあえず「そう」と言って笑っておいた。尾上さんも笑い返してきた。怖い顔のままで。
◇
その帰り道のことだ。
僕と尾上さんは二人並んで歩いていた。狼男の話は無かったことになっていた。どこかの家から、夕飯の匂いが漂ってくる。お醤油のいい香りだ。それをきっかけに、好きなおかずの話で盛り上がる。僕が肉じゃがの素晴らしさを熱く語り出そうとしたときのことだ。
僕たちの後ろから、唸り声のような声が聞こえた。体に衝撃。尾上さんが僕を突き飛ばしたのだ。直後、僕らの間を黒い影が通り過ぎる。黒い、影?
影は、僕らのはるか前方に着地した。全身黒ずくめ。頭を鬱陶しそうに振り回す。長い黒髪が、獣の尾のようだ。荒い息と共に、こちらを振り向いた。恐ろしい顔の女性だった。恐ろしい顔。
尾上さんと同じような顔だ。
僕は尾上さんを見た。尾上さんも僕を見ていた。
尾上さんは今まで見たことのない顔をしていた。
彼女は、黒い影のほうを見た。怖い顔。とてもとても、怖い顔。
「平井くん」
静かな声。
「あたしがアレを食い止める。だからそのスキに逃げて」
彼女の周囲の空気が、ざわついている気がする。
重い音。黒い影が飛びかかって来たのを、尾上さんが受け止めたのだ。
「とにかく、急いで逃げて。それでできれば、こっからのあたしはあまり見ないでいてほしい」
尾上さんの姿が変わっていく。
爪が伸び、口元から牙が。髪の毛が伸び、全身が大きく膨らんで――。
「オオカミ……」
狼男、いや狼女と言うべきか。この世に存在するはずのないものが、目の前にいた。
黒い影と尾上さんは、もみ合ったまま格闘を始めた。牙を剥き、爪を振るい、血が流れ……。
尾上さんが影――いや、きっとあれも尾上さんと同じ狼女なのだろう――を蹴り飛ばした。サッカーボールのように飛ばされた女は、だが華麗に体をひねると四足で地面に降り立った。女も尾上さんも、短い間に随分と血まみれになっていた。
僕はこのとき、やっぱり逃げるべきだったのだろう。でも逃げるなんてこと、その時の僕の頭にはほんの少しも浮かんでこなかった。血だらけの尾上さんを見て、どうにかしなければという考えで頭がいっぱいになっていた。
だけど、どうすればいいんだ。
――できることは、あるだろう?
僕の内側から、誰かが語りかけてきた。
できることは確かにあった。でもそれは。
突然の咆哮に、考えが中断された。
女が長々と吠えている。僕にもわかる。あれは怒りの叫びだ。よく見ると、女の右手が半分ちぎれかけていた。尾上さんがやったのだろうか。
女は雄叫びをやめ、憎々しげに尾上さんを睨みつけた。そしてそのまま、再び黒い影となって逃げ去っていった。
僕はその場にへたり込んでしまう。だけど尾上さんが倒れ込むのを見て、すぐに立ち上がり、尾上さんの側に駆け寄る。どうしよう、ひどい傷だ。とりあえず病院だろうか。
一番近い病院を検索しようとスマホを取り出した僕の手を、尾上さんが強く握りしめてきた。一瞬、どきりとする。
「心配しないで。すぐに治るから」
僕の目の前で、尾上さんの言葉が実証されていく。尾上さんの頬にざっくりと刻まれていた三本線の傷が、少しずつだが消えていく。
「すごいでしょ。すごく体力つかうんだけどね」
尾上さんは、青い顔で笑う。まるで僕を安心させるかのように。
僕は、手を握る力を強めた。尾上さんを安心させるために。
◇
歩けなくなった尾上さんを背負いながら、薄暗い通りを歩く。
「お父さんのせいなの」
彼女は僕の背でそう言って、力なく笑う。
彼女の父親は、その世界ではかなり名の知れた科学者だったそうだ。細かいところはわからないが、なんでも、人の可能性の限界を追求するような研究に取り組んでいたらしい。そうでなければ、人類に未来は無いと。
素晴らしい研究だと思う。やり方さえ間違っていなければ。
尾上さんの父親は、限界を超える手段として人以外の力を借りる方法を選んだ。つまり、様々な生き物の能力を人に移植する、という手段をとったらしい。
漫画みたいで、ちょっと信じがたい話だ。
「だからお父さんは、かなり強引な手段をとっていたみたいなの」
尾上さんは苦笑まじりにそう言った。
投薬、手術、遺伝子操作……それは非道な人体実験、といっておかしくないレベルの代物だったらしい。当然そんな物が認められるはずもなく、その研究結果は闇に葬られてしまった。葬られた、はずだった。
「さっきの彼女は多分、その……犠牲者」
犠牲者。尾上さんの父親によって人体改造を施された人たちは、ほぼ全員精神に何らかの異常をきたしてしまったらしい。文字どおり、獣と化してしまったのだ。ただ一人を除いて。
「いろいろなことがあって、お父さんに協力してくれる人はいなくなった。だからごく身近な人を使って実験を続けたの」
つまり、娘と自分自身。
「どうなったと思う?」
僕の首に回していた尾上さんの両手に、ぐっと力が込められた。
「……ごめん、わからない」
「……お父さんは結局、他のみんなと同じように正気を失ってしまった。そしてたった一人、正気を失わなかった成功例によって止められた……殺されたの」
尾上さんは僕の背中で、力無く笑っていた。
「いや、違うかな。成功例ってあたしのこと。だからお父さんは殺されたってのは噓。あたしが殺したの」
もう日も落ち、通りには明かりがつき始めていた。
僕も尾上さんも、しばらく無言でいた。尾上さんを背負っているおかげで、彼女の顔を見ずにいられたのがありがたかった。どんな顔をしていいかわからなかったからだ。だけどもしかしたら彼女も、僕に顔を見られたくなかったからこのタイミングで話してくれたのかもしれない。
沈黙が続くのも、それはそれできついものがある。だから僕は思い切って彼女に話しかける。
「さっきの人みたいなのって、他にもたくさんいるのかな」
「わからない。そもそも、さっきの人が本当にお父さんの実験のせいでああなったのかも、本当はわからないの」
「そうなんだ」
「でも、信じたくはないんだけど……お父さんの実験自体は、お父さんが死んだあとも引き継がれている、って噂も聞いた」
「なにそれ」
それが本当だとしたら、ひどすぎる話だ。非道な実験と言って追い詰めておきながら、その成果自体は手に入れたかったということなのだろう。
っていうか、なんでそんなやつが街をウロウロしているんだ。
「もしかしてさっきの人って、復讐のために尾上さんを狙っている、とかなのかな」
「わからない。そうは思いたくない」
そりゃそうだ。
それにしても、人造狼女だなんて。そんなもの存在するとは思ってもみなかった。今日この目で見なければ、絶対に信じられなかっただろう。見た今でも、正直半信半疑だけど。
「今日みたいなことって、また起きるのかなあ」
僕が何気なくつぶやいたその言葉に、尾上さんが強く反応した。首に回された両手に、さらに力がこもる。ちょっと苦しいぞ。
「……だいぶひどい目に合わせちゃったから、怒って仕返しに来る可能性はあると思う」
「そうかあ」
僕はちらりと腕時計を見た。日付は12月2日。
「……じゃあ、クリスマスにデートしようか」
「……!?」
尾上さんの両手に、この上ない力がこもった。ちょ、チョークチョーク!
「な、ななな、なななななんで!? なんでこの話の流れでそうなるの?」
「……!」
僕は何も言えず、尾上さんの腕をぺしぺしと叩く。気づいた尾上さんがようやく腕の力を抜いてくれた。
「……し、死ぬかと思った」
「ご、ごめん! でも!」
うん、それはそうだよね。いくらなんでも唐突すぎるよね。
「こっちこそ、いきなりごめん。さり気なくと思いすぎて、かえって不自然になっちゃった」
「ええ……」
僕は、わざとらしく咳払いをして話し出す。
「僕はね、尾上さん。尾上さんと話したり一緒に出かけたりすること、めちゃめちゃ楽しいと思ってるんだ。それはもう、これ以上楽しいことは無いってくらい」
「え、え?」
「尾上さんは自分の顔の怖さを気にしているみたいだけど、僕は全然平気だ。っていうか、尾上さんが怖い顔をしているときって、ようするにめちゃめちゃ真剣なとき、必死なときだよね。それがわかったから、怖がる必要なくなっちゃった。まあ、もともとそこまで怖いとは思っていなかったけど」
緊張のあまり早口になりかけるのを、必死で抑える。
「え、えっと」
「ええと、つまり、僕が言いたいのはね……尾上さんのことが好きってことだ!」
「!?」
一瞬で首がしまる。光り輝く草原と、川が見える。あれはそう、きっと渡っちゃいけない川だ。僕は必死で彼女の腕を叩いた。
「な、なに? 急に何なの平井くん!?」
さあ、正念場だ。気合を入れろ平井由秋。
「……尾上さんは多分、僕を気づかって、もう僕と一緒に行動するのはやめたほうがいい、なんて考えてるんじゃない? だけど僕はね尾上さん、あんなヤツを気にして好きで好きでたまらない子と一緒にいられなくなるなんて、冗談じゃないって思ってるんだ。本気だよ。だから今度のクリスマス、ぜひ僕とデートしてくれませんか。その、か、彼女として」
……言ってしまった。
沈黙。
心臓の鼓動がうるさい。背中を通して、尾上さんにも伝わっていやしないか心配になる。僕は耳を澄ます。背中の尾上さんの息遣いだけが聞こえてくる。
長い長い沈黙。
「……平井くん。耳まで真っ赤だね」
耳元でそう囁かれ、僕は尾上さんを振り落としそうになってしまった。
「あたしみたいなの、どこがいいの」
「全部」
照れ隠しに、ぶっきらぼうに答えてしまった。背中から尾上さんの、くすくすと笑う声が聞こえる。
「うそ。だってあたし、化け物だよ」
「ちがう。僕を助けようとしてくれた、命の恩人だ」
「んー。じゃあ、感謝の気持ちを好意と勘違いしてるとか?」
「それも違う。別に今日、急に好きになったわけじゃない」
尾上さんの両手に、また力がこもった。だけどそれは、あくまで柔らかく、まるで僕を抱きしめてくれるかのような感じだった。
「ありがとう平井くん。嬉しいよ。本当に嬉しい。クリスマスデート、ぜひよろしくおねがいします」
僕は嬉しさのあまり、彼女を振り落とさないようにするのに必死だった。あと、ニヤける口元を押さえるのにも。
こうして僕と尾上さんとの交際が始まった。結局、続いたのはクリスマスまでのたった3週間足らずだったが。
◇
「お、なんだか今日は気合入ってるじゃない。もしかしてデート?」
クリスマス当日。母さんが、出かけようとする僕に声をかけてきた。
僕はさり気なく「まあね」と返した……つもりだったが、あまりうまくいかなかったかもしれない。
母さんは目を丸くした。そしてポケットからハンカチを取り出すと、わざとらしく目元に当てる。
「お父さん……由秋が、由秋が……なんとクリスマスにデートですってよ……息子の成長、遠い国から喜んであげてください……」
芝居がかった言い方に、僕は苦笑するしかなかった。
僕の父親は、僕が物心ついたときにはすでにいなかった。写真も残っていないので、僕は父さんの顔すら知らない。
幼い頃、父親について母さんに尋ねたら「遠い遠い国にいる」と答えが帰ってきた。それがどういう意味なのかは、今はさすがにわかっている。
僕はもう一度、持ち物を確かめる。いちばん大事なもの、この日のために考えに考え抜いた、尾上さんへのクリスマスプレゼントもばっちりだ。
父さん。僕に力を、勇気を貸してください。僕は今日こそ、やってやるつもりなんです。
具体的に言うと、尾上さんと……手をつないで歩く! そして、できれば……そう、もしできるならば、尾上さんのことを「月子」と呼んでみたい! 呼べるといいなあ。高望みかもしれないが、頑張るよ父さん!
◇
「おまたせ」
待ち合わせ場所に30分前に到着してしまった僕だったが、その2分後に尾上さんが現れた。二人、顔を見合わせて笑う。もうこの時点で僕は、このクリスマスデートはうまくいくことをほとんど確信していた。
「変じゃ、ないかな」
え、なにが、と言いかけて、彼女が自分の装いを気にしていることに気づく。そういえば、私服の彼女を見るのは今日が初めてだった。
「ええと、ごめん。女の子の格好には全然詳しくないから、うまくいえないかもだけど……なんというか、その、すごく、かわいいと、思う。うん、似合ってるよ。かわいい。すごく。かわいいよ」
うわあ。キモくなかっただろうか今の。恐る恐る彼女の顔を見ると、例によってものすごく怖い顔になっていた。多分何一つ事情を知らない他人が見たら、無神経な男が相手の女性を怒らせてしまっている姿にしか見えなかっただろう。だけどよく見ればわかる、頬がかすかに赤くなっている。これは照れているだけだ。とりあえず一安心。
「そ、それじゃあいこうか。まずは映画だね」
「……うん」
雪こそ降っていなかったが、街はクリスマス一色だった。そこら中にツリーが、サンタが、トナカイがあふれ、道行く人たちは皆幸せそうに見えた。もしかしたら、自分がそうだったから周りも同じに見えただけかもしれないが。
映画館でチケットを買う。ここは僕のおごりだよ、なんて言えたらかっこよかったのだろう。だが悲しいことに、高校生の財力ではそんなに高価でもないプレゼントを買うので精一杯だった。
映画は先日封切られた、捨て犬を通じて出会った二人の恋物語だ。我ながらベタだと思うが、これでも考えに考え抜いて選んだのだ。
上映が始まった。結構引き込まれるストーリーだった。悲しいシーンが始まると、館内のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。僕も恥ずかしながら、少しうるうるとしてしまっていた。
ちらりと横の尾上さんを見た。尾上さんは今までにないほどの怖い顔で泣いていた。僕はなんだかおかしくなって、そっと尾上さんの手に触れた。尾上さんはビクリとしたが、そのまま僕の手を握ってきた。
感動のラストシーン。手を握り合ったまま、僕たちは二人して号泣していた。
そのままハンバーガー屋に入り、映画の内容を熱く語りあった。たくさん笑いあった。思ったより長居してしまい、そのことに気づいて二人してまた笑った。全てが夢のようだった。
さあ、あとはプレゼントを渡すだけだ。あと、できればうまいこと彼女を名前で呼べればいいな。でも、どうすれば自然な流れでできるのだろうか。
僕の手を握る尾上さんの手に、力がこもった。
「痛」
僕は驚いて、尾上さんの顔を見る。尾上さんはいつもの、いつも以上の怖い顔をしていた。その鋭い視線が向けられる先には……。
「うそだろ」
黒い影、だ。
まさか、こんな人通りの多いところで?
影の女は、静かに立ってこちらを睨んでいた。恐ろしいことに、尾上さんにやられた腕もすっかり元通りになっていた。考えてみれば当然のことだ。尾上さんができることは、あいつにもできるはずだから。
そのとき、周囲で悲鳴が上がった。驚いて見回す。
「いや、いやいや……うそだろ」
僕たちの周りに、次々と黒い影が現れた。
男、女、大人、子ども……十数人はいるだろうか。どいつもこいつも、鋭い牙と、何でも引き裂きそうな爪を備えていた。そして明らかに僕たちを、いや、尾上さんを見ていた。
「オマエ」
影の女が尾上さんを指差す。僕の手を握る尾上さんの手から、彼女の緊張が伝わってくる気がした。
「オマエの血の味、あの男と同じだった」
女が、一歩こちらに踏み出す。
「私達をこんなにした、あの男の血と、同じ味」
「……平井くん、今度こそ逃げて」
尾上さんが僕の方を向きもせずつぶやく。
「許さない」
「逃げて!」
尾上さんが僕を突き飛ばすのと、影たちが襲いかかって来たのがほぼ同時だった。僕は初めて影に襲われたときのことを思い出していた。
尾上さんに影が殺到する。尾上さんは変身しようとしたが、影たちのほうが一歩早かった。あっという間に爪を、牙を突き立てられていく。彼女の服が、引き裂かれていく。赤い血が舞う。
畜生、冗談じゃないぞ。クリスマスの赤は血の色なんかじゃないんだぞ。
僕はそんなことを考えるくらいには冷静さを欠いていたのだろう。逃げろという彼女の言葉を無視して、僕にできることを必死で探していた。
ケーキ屋の看板が目に入った。迷わず掴む。そして影の一体に向けて振り下ろした。看板が粉々に砕け散る。影がこちらを睨む。構わず、手に残った看板の破片を振り下ろす。手を掴まれた。ぶん、という音。自分が投げ飛ばされたことに気づいた瞬間には、ショーウインドーに頭から突っ込んでいた。飾られていたマネキン、ガラスの破片、いろいろなものの下敷きになる。すぐさま、頭を振って立ち上がる。尾上さんを、尾上さんを助けなきゃ。僕は上半身だけのマネキンを手にして駆け出す。思い切りぶん投げる。影の一体の後頭部に命中。軽い音がした。つまりダメージはない。だけどいい。こちらに注意が向いてくれれば。3体ほどの影が、こちらに向き直った。よし、いいぞ。少しでも彼女から奴らを――。
でも、それからはどうする?
尾上さんから奴らを引き離して、そしてその後は?
――できることは、あるだろう?
僕の内側から、声がする。
――だめよ由秋。それだけはだめ。お父さんの話を思い出しなさい。
母さんの声。散々言って聞かされた、「大切な決まり」。
悲鳴が聞こえた。通りは逃げ惑う人で大騒ぎだ。スマホで撮影を試みる人もいる。それらに気を取られ、襲いかかってきた影たちへの反応が遅れた。僕の体に首筋に、鋭い物が突き刺さる。熱さを感じた。ブチブチと、気分が悪くなる音がする。痛い。とんでもなく痛い。痛みか熱か、その両方だろうか、とにかく全身がひどいことに、ひどいことになって。
僕は貪られていた。貪られながら、尾上さんを見た。尾上さんも僕を見ていた。尾上さんは怖い顔をしていなかった。ただただ、泣きそうな血まみれの顔で、僕に向かって手を伸ばしていた。
覚悟が決まった。
ごめん、母さん。僕は大事な大事な言いつけを守らない大馬鹿だ。だけど無理だ。好きな女の子にあんな顔させたままではいられない。いて、たまるか。
僕は力任せに影たちを振り払った。そしてそのまま、千切れかけた足で立ち上がる。影たちが僕を睨みつける。僕も睨み返す。目を逸らしてなんかやるもんか。お前たち全員、絶対に、絶対に許さないからな。
脳裏に、三つの鍵を思い浮かべる。銀色に光る鍵を。そして僕は、母さんから教わった「魔法の呪文」を口にする。
「一つの鍵にて、檻よ開け」
全身の傷が、不快な痒みと共に消えていく感触があった。
「二つの鍵にて、鎖よ朽ちよ」
力がみなぎっていく。人外の力が。
「三つの鍵にて、枷よ解けよ」
全身を銀の毛が覆っていく。月の光の銀色だ。
「銀の獣、地を踏みしめよ。顎を開き――月に吠えよ!」
骨が、筋が、肉が、ぎちぎちと作り替えられていく。不快な音、不快な感覚。だけどそれは不快なだけではなかった。あるべき姿を取り戻す高揚感に、僕は体を震わす。あるべき姿――すなわち、銀色の狼男。
そうだ。狼男なんて化け物、今やこの世にいるわけがないのだ。この僕以外には。
僕は咆哮した。上空に輝く、少しだけ欠けた月に向かって、長く長く。そうするのが正しいと感じたからだ。大気を震わす雄たけびに合わせ、僕の全身を覆う銀の毛並みが揺れる。
僕は影たちに向けて、一歩踏み出す。ひるむ気配が伝わってくる。その様子を見ずとも、僕にはもうわかっていた。こんなやつら、僕の敵ではない。偽物どもめ。
影の男が一人、僕にとびかかってきた。いかにも破れかぶれといった動きだった。やはりこいつらは偽物だ。本物の獣なら、勝てないとわかっている相手に挑みかかるなんてことはしない。
振りかぶられる爪。僕はその一撃をかわさない。その必要はない。相手の爪が僕の顔に届く寸前、僕は右手を振る。銀の光が奔る。それだけで男の顔が半分吹き飛んだ。男の爪は空を切る。無様に落ちていく男の首に僕は嚙みつき、嚙み砕く。吐き出す。ひどい味だ。
男の体が地面に落ちる。僕はそれを無視して、残りの連中に顔を向ける。さあ、次は? 次はどいつだ?
なんだ、誰も来ないのか?
だったら。
僕は跳んだ。前方の影めがけて。
突き出した右足が、一人の腹に突き刺さり、貫いた。貫かれた男が、粘ついた血を吐き出した。僕の上半身が血まみれになる。構うもんか。足を引っこ抜く。背中に衝撃。顔だけ振り向く。僕の背後、驚いた表情の女が一人。そうだよ、お前たちの爪も牙も、僕の毛皮一つ傷つけることなんてできやしないんだ。
おまえたちにできることは、たった一つだけ。
僕は振り向きざま、右手をフルスイングした。女の首が弾け飛んだ。
おまえたちにできることは、僕の爪にかかって死ぬことだけだ。
続けてもうひとり。顔面を掴み、地面に叩きつける。ぐじゃり、と汚らしい音が響く。右の気配に向けて蹴り上げる。ぞぶり、と肉の削げる音がする。一人、また一人と、僕は偽物どもを血祭りにあげていく。どいつも、こいつも弱い、なんでこんなに弱々しいんだ。それなのに、尾上さんをあんな目に合わせたっていうのか? そんなことが許されるとでも思っていたのか? また一人の首が飛び、また一人の腕が千切れ、ぐじゃり、ぞぶり。
気がついたときには、その場には僕と尾上さん、そして最初の黒い影の女、その三人だけが残っていた。あとの連中は全て、血と肉と骨に成り果てていた。
女は荒い呼吸で、僕を睨みつけていた。時折歯を剥き出し、唸り声を上げる。威嚇でもしているつもりなのだろうか。馬鹿みたいだ。
「何なんだ、お前! 何なんだ!」
「何って、見ればわかるだろ。狼男だよ。本物のね」
悲痛な叫びと共に、女が襲いかかってくる。爪。強烈な一撃だ。人を一瞬で挽肉に変えてしまうほどの。人ならば。
僕は紙一重で爪をかわす。そしてそのまま、空を切る女の腕に噛み付いた。女が悲鳴をあげる。構わず、顎の力だけで女の体を強引に振り回す。口を開く。慣性の法則に従い、女の体は吹き飛んでいく。ショーウィンドウのガラスに、頭から突っ込んでいく。
僕は口に残る肉片を吐き出し、女へ近づいていく。這いつくばるような格好の女を、静かに見下ろした。
「何で……」
女が僕を見上げた。その眼には相も変わらずの敵意。
「何で邪魔するんだ……どうして……」
「あんたたちの事情は知ってるよ」
「だったら! なんで!」
「あんたたちが恨むべきは尾上さんの父親であって、尾上さんじゃあないからだ」
女が目を見開いた。
「そもそも、最初に尾上さんを襲ったときに気づかなかったのか? 尾上さんはあんたたちと同じなんだって」
「……」
「そして、あんたたちが憎むべき相手は、とっくの昔に死んでいる。いや、殺されているんだ。誰がやったか知ってるか? そこで倒れている尾上さんだ」
僕は精一杯の怒りを込めて、言葉を叩きつけてやる。
「いいか、よく聞けよ。お前たちをこんな目に合わせた男を止めるために、お前たちと同じ実験の被害者で、しかも、いいか、しかもだ! しかも実の娘でもある尾上さんが、父親を自らの手にかけたんだ。娘が、自分の父親を、殺したんだぞ!」
「う、うるさい! うるさいうるさい! 黙れ!」
「お前たちは、そんな尾上さんをこんな風にしやがったんだ。お前たちと同じ苦しみだけじゃない、もっともっと重い苦しみまで背負い込んだ尾上さんを、お前たちはこんな目に合わせた! 許せるわけ――ないだろうが!」
影の女がみっともない叫びとともに、僕に襲いかかってきた。いや、それはもう、襲いかかるなんてもんじゃなかった。自分の欲求が通らないことがわかった幼児が、床に寝転んで泣きわめく、そういうたぐいの行動だった。
僕は右手を、まっすぐに突き出した。女の体を貫く。
女の背中に現れた僕の右手は、赤黒い心臓をえぐり取っていた。
僕は力を、そして色々な思いを込めて、未だ脈打つ心臓を握りつぶした。
◇
「尾上さん、大丈夫?」
僕は尾上さんのそばにしゃがみ込む。尾上さんの傷はすでにふさがりかけていた。だが傷を治すのに体力を消耗しすぎたのだろう。尾上さんは怖さのかけらもないような弱々しい顔で、僕を見上げていた。
そっと、僕の頬に手がかけられた。僕はその手を優しく握ってやる。
「平井くん……なんだよね?」
「そうだよ。これが僕。本当の僕だ。黙っていてごめん」
そう。僕は魔狼の父と人間の母との間に生まれた、本物の幻想種である人狼、その最後の生き残りだ。
世界にまだ「魔力」なる力が満ちていた頃、世界は魔の眷属のものだった。人類とは魔物に隷属するしかない、無力な存在でしかなかった。
だけど、決まってそういうのは永遠には続かない。世に満ち満ちていた魔力は、気づいたときには枯渇しかけており、それに頼り切った文明を築き上げていた魔族たちに大打撃を与えたのだった。
その結果、魔族と人類の力関係は一気に逆転した。魔族は人に追われ狩られる存在となってしまった。僕ら一家もそうだった。
狩人たちに追い詰められた父さんと母さんは、まだ生まれたばかりの僕の命を守るため、そいつらとある取引をしたそうだ。
僕の人狼としての力を全て封印したうえで、遠い異国で人間として生きていかせる。力は決して使わせない。だからそうしている間は、決して手を出してくれるな。そんな取引だったそうだ。
どんな交渉の末かは知らないが、結局狩人たちはその提案を飲んだ。父さんは僕の力を封じ、母さんと一緒にこの国へ――日本へと向かわせた。だけど、相手を完全には信じられなかったんだろう。いざというときのために、僕の力の封印を解くための手段、「魔法の呪文」を用意しておいたというわけだ。
僕はそんな感じのことを、尾上さんに話して聞かせた。尾上さんは静かに聞いてくれていたが、不意に不安げな表情になった。
「ねえ平井くん、その、封印?を解いちゃったんだよね……それって」
「うん。多分そろそろだと思う」
「そろそろって……なにが」
そのときだ。突然地面から生えてきた鎖が、僕の手足を拘束した。くそ。思ったよりも早い。っていうか早すぎるだろ。僕のこと、監視でもしてたのか?
「平井くん!」
「尾上さん。最後だから言っておきたいことがあるんだ」
「最後って? 最後って何!」
「僕はね、尾上さん。尾上さんのこと、本当に大好きだったんだ」
僕を縛る鎖は、今度はゆっくりと地面の中へと潜り込んでいく。それに合わせて、僕の体もゆっくりと地面に沈み込み始める。
「平井くん! ねえ、ちょっと待って!」
「ごめんね、尾上さん。ご覧のとおり、魔族に戻った僕を連中は見逃さない。だからこれでお別れだ」
「お別れって……ねえ! 本当に待って! 待ってったら!」
下半身、上半身、そして首まで地面に飲み込まれるその寸前、僕は尾上さんの顔を目に焼き付けようとした。尾上さんの、怖い怖い顔を。
とぷん。僕の全身は地面に飲み込まれ、僕の意識は失われた。
◇
それからは、こうだ。
捕らえた僕の処遇をどうするか、狩人たちの間ではひと悶着あったらしい。今すぐ殺せという過激派、研究に活用したいという学究派、完全に魔力を奪い取り、今度こそただの人間にしてしまえという去勢派などなど。
それで結局、僕は彼らの「所有物」「装備品」となった。
魔力の枯渇によりほぼ滅び去ってしまった魔の眷属たちだが、未だ生き延びている連中もいるらしい。
魔力がほぼ枯渇し、逆に科学の力が地上を覆う現代の世界。にもかかわらず生き残った連中は、ほぼ例外なく強大な存在である。そんな相手に有効な手段とはなにか。
そう、化け物には化け物をぶつければいい。
以来十年以上もの間、僕は戦い続けた。世界中、ありとあらゆる地域で。極地の氷河で。熱砂の砂漠で。山で、海で、森で、洞窟で、ネオンサインの陰で。獣の姿で。
中東。某国砂漠地帯。
銀狼と化した僕は地竜の喉元、そこの鱗を引っ剥がすと、むき出しとなった部分に腕を突き入れた。強酸性の血液がほとばしる。構わずえぐりこむ。地竜は2度3度痙攣するように体を震わせると、地響きを立てて地に倒れ込んだ。
酸で焼かれた全身が癒えていく感触を味わいながら、僕は地竜の体に腰掛けた。ポケットをごそごそと漁り、目当てのものを取り出した。
それは、小さな犬を形どったキーホルダーである。手垢にまみれ、ペイントもほぼ剥げ落ちているせいで、ぱっと見、犬だとはわからなくなってしまっているが。
僕は目を閉じ、キーホルダーを握りしめる。そして一人の女の子を、その怖い怖い顔を思い出す。あの日のクリスマス、渡せなかったプレゼントに向かって祈りを捧げるのが、ひと仕事終えたときの僕の習慣となっていた。
尾上さん。尾上さん。尾上さん。怖い顔の尾上さん。
そう言えば。僕は数年前に見た、とある日本のテレビ番組を思い出す(個人の自由などほとんどない生活をしている僕だが、さすがに好きなテレビを見るぐらいの権利は持たされていた)。「海外で活躍する日本人」というテーマで、様々なジャンルのトップランナーが紹介されていた。その中に、なんと尾上さんがいたのだ。
尾上さんは世界を股にかける写真家になっていた。主な被写体は野生動物。世界中を飛び回り、幻と呼ばれるような珍しい生き物を何度もカメラに収めることに成功しているらしい。彼女の撮った写真は何度も雑誌の表紙を飾り、著名な賞もたくさん受賞している、まさに新進気鋭のカリスマカメラマン、という感じの紹介をされていた。
僕はテレビ画面を食い入るように見つめた。画面の中の彼女は、あの日とほとんど変わらない、怖い怖い顔のままだった(あとでスタジオのゲストから顔の怖さでいじられていた)。
番組が次の人物の紹介に移る。僕はテレビを消し、呆けたように真っ黒な画面を見つめつづけていた。
僕は軽く首を振り、思考を今へと引き戻す。同時に大きなため息をついてしまう。
あの日、あんな形で別れて以来、彼女のことを考えなかった日などなかった。もっともっと話したかった。もっともっと笑い合いたかった。
彼女も、僕を思って寂しがっているだろうか。それとも案外、新しい恋人と出会って幸せに暮らしていたりするのだろうか。そんなことを考えるたび、僕はなんとも言い難い気分に襲われる。
っていうか。僕は時計に表示された日付を確認する。今日は12月25日、あの因縁のクリスマスじゃないか。やれやれ、折角の聖なる一日に、デートどころか馬鹿でかいトカゲと取っ組み合いとはね。
苦笑いしながら目を開く。
「……え?」
目の前に広がるのは、果ての見えない一面の砂漠。その先、地平線に揺らめく蜃気楼。そのただ中に立つ、怖い怖い顔の女性。
僕は目を強く閉じ、そっと開いた。
女性はそこに、まだ立っていた。と思ったら、こちらに向けて全力疾走を始めた。何台ものカメラを首と肩から下げ、それらをガチャガチャ揺らしながら、僕のほうへと真っ直ぐに、ただただ真っ直ぐに。
僕は立ち上がり、ふらついた足取りで歩き出した。走ってくる彼女に向かって、真っ直ぐに。そんな、嘘だろ。信じられないよ。こんなことって。
僕は両手を広げた。
僕の胸の中に、尾上さんが飛び込んできた。そのまま、押し倒されるように後ろへ倒れ込む。
尾上さんは僕を強く強く抱きしめながら、僕の胸、銀色の毛の中に顔をうずめていた。
「お、尾上さん」
尾上さんは答えない。僕の毛に顔をうずめたまま黙っている。
「え、えーと。お、尾上さん……だよね?」
尾上さんは答えない。
やがて、深呼吸のような音が聞こえてくる。
あ。あー。
吸われているな、僕。
そういや夢だったっけ、モフモフに顔を埋めて吸うのが。でもまさか、それを僕で叶えようとするとは。
「ねえ、尾上さん。くすぐったいよ」
「うるさい」
……なんとまあ。やっと答えてくれた第一声が「うるさい」だとは。
「うるさい、うるさい、うるさい。いいから黙って吸われていなさい」
「ええ……」
尾上さんが顔を上げた。相変わらずの怖い顔は涙でぐしょぐしょだった。
「十年以上も探したんだよ」
「うん」
「世界中、あちこち、隅から隅まで」
「うん」
ふと、手に持っていた物の存在を思い出す。僕はそれを、彼女の目の前に差し出した。
「これって」
「あ。えーと、あのとき渡せなかったクリスマスプレゼントなんだ、これ。その、ごめん。ずっと自分で使ってたから、汚れて、色なんかも落ちちゃって。でも、ずっとずっと渡したかったんだ……ずっと……ずっと……」
途中から涙声になっていた。そのことに気づいて、思わず笑ってしまった。
尾上さんも笑った。ひとかけらも怖くない、最高の笑顔で。
【完】
そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ