白磁のアイアンメイデン 第1部 終章(前) #白アメ
「……“忌み野”だと?」
「ええ」
空になったカップを皿に戻すと、ベアトリスはいかにも悲しげに微笑んでみせた。
「だが……だが、しかし」
「“忌み野”と呼ばれるようになった理由はそうではない……と仰りたいのでしょう?」
「……その通りだ」
アルフレッドにおかわりを頼むと、ベアトリスは両手の指をそっと組んだ。
「“竜”の一体がこの地に至り、悪疫を撒き散らした……以来、邪悪が蔓延るようになったこの地が、“忌み野”と呼び習わされることとなった……そうではないのです。真実は逆。理由もなく、たった一夜にして滅んだが故に、“忌み野”――そう呼ばれるようになったこの地に、傷ついた“竜”が逃れてきたのですわ」
「だが、歴史書には違うことが書いてある。人々に語り継がれた伝承もある。この地が”忌み野”と呼ばれるようになった、文字通りの忌まわしい出来事――王都から派遣された討伐隊が、どんな運命をたどったかに関しては、信頼できる記録も存在する。それら全てが……間違っているとでも?」
「間違っているというより、書き換えられているというほうが正しいですわね」
ヘリヤは、思わず息を呑んだ。
「ええ、そうです」
ベアトリスは悲しげな表情のまま、ヘリヤの顔を正面から見つめて告げた。
「奴らは、成功したのです」
ヘリヤは大きな溜息をつき、天を見上げた。“忌み野”の太陽は傾きかけ、薄赤い月がぼんやりと顔を出していた。
「……歴史とは、そこに残されなかった膨大なものまでも全て含んだ、人の歩みそのものだ。それに手を加えるなど、人類全体に対する冒涜と言っても良い……とんでもないことをしでかしたものだ……」
ヘリヤは視線をベアトリスに戻す。彼女の目を見る。
「だが信じられんな。本当にできるのか、そんなことが」
「ええ、範囲はこの大陸のみに留まるようですが、確実に歴史は書き換えられていますわ――そもそも、奴らが我が身を”竜”と成したのは、二百年ほど前のことでしかありません」
「そうなのか」
「ええ、にもかかわらず、魔術師殿も含めた多くの人々が、奴らを神話の時代から生きる稀有の存在だと思っていらっしゃる――思わされているのですわ」
事実そのとおりであったので、ヘリヤは何も言い返せなかった。ヘリヤは再び天を仰ぎ見る。
「まして、”忌み野の竜”がこの地で眠りについたのは、ほんの三十年前のことなのです。ですが、誰もがそれをご存じない。記録も、記憶も、全てが奴らの意のままに蹂躙されているのです」
柔らかく組まれていた両の指に、力がこもっていく。
「なぜ、この地が”忌み野”と呼ばれるようになったのか、そもそもここには、かつて何があったのか……何もかもが、無かったことになってしまっているのですわ。わたくしとしましては、その事実一つとってみても、奴らを踏みにじるに余りあるのです」
「……だろうな」
ヘリヤは想像してみた。全てを奪われた挙げ句、その事実すら捻じ曲げられてしまうということが一体どういうことなのか。
そして心中に生まれた言葉に、思わず苦笑した――「踏んでやる」という言葉に。
「それにしても、それだけのことを為すのにどれ程の魔力が必要なのか、見当もつかないな。『奇跡の石』だったか? その力を借りているとしても、生半可なものではないだろうに」
「ええ。奴らは最終的に、途方も無い大きさの『石』を産み出すことに成功しました。そこから汲み出せる魔力の量は、無尽蔵と言って差し支えないものだったのです。奴らの成したことのほぼ全てが、その『石』のおかげと言っても過言ではないのですわ」
「とんでもない大きさなんだろうな。邪魔そうだ」
「それに加えて、あまりにも膨大な魔力量は奴らの手にすら余り始めました。ですので、『石』をしかるべき場所に収めた上で、普段は別の『石』を用いる……そのような方式を取っているそうですわ」
「しかるべき場所? 穴掘って埋めでもしたのか」
ベアトリスは苦笑した。そして“忌み野”の空を指差した。
ヘリヤはつられて、三度天を仰ぎ見た。そこには、赤紫に染まりつつある空、そして。
まさか。
ヘリヤは慌ててベアトリスを見た。
「ご存知ですか、魔術師殿。あのようなもの、そもそも空に浮かんでなどいなかったのですよ」
ベアトリスの指差す先には、薄赤い月がぼんやりと浮かんでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
「……これからどうするんだ」
落ち着きを取り戻したヘリヤが、疲れ果てた顔で尋ねる。そんなヘリヤが可笑しかったのか、ベアトリスはこっそりと笑い、すぐに真剣な顔に戻って話し始めた。
「そうですわね。すぐにでも次を……と言いたいところですが」
「流石に無理か」
「一番の問題は、『ホワイト・ライオット』ですわね。”竜”の暴威に抗うには、機神の力が是非とも必要なのですが……」
ヘリヤの脳裏に、白磁の機神の勇姿が浮かぶ。確かに、容易く繰り出せる切り札ではないのだろう。
「今、『ホワイト・ライオット』は斯界の彼方で眠りについています。彼女の眠りを覚まし、此方に召喚するのに必要な魔力……それを蓄積するのに、ざっと七十年ほどかかりましたわ」
「七十年……か!」
「ええ、ですが……」
ベアトリスが、胸のあたりに手をやった。ヘリヤは慌てて目を逸らす。
「今度は『石』の魔力を当てにできますので、もう少し早く済むと思いますわ……とはいえ、十日やそこらでどうにかなるとは思いませんが」
「五年か……十年か……」
「分かりませんわね。まあどちらにせよ、彼女の空腹が満たされるまで大人しく待つしかございません。しばらくは身を隠し、策を、そして技を練り直しておきますわ」
「……しばらくはお別れ、か」
「……そういうことですわね」
『お嬢様』
それまで黙って給仕をしていたアルフレッドが、二人の会話が途切れたのを見計らって話しかけてきた。
『紅茶も切れましたことですし、そろそろかと』
「分かりましたわ」
遠くから、激しい蹄の音が響いてくる。二頭のオートマタ馬に引かれた白塗りの馬車の駆ける音だ。馬車は、土煙を巻き上げつつヘリヤ達の目の前で急停止した。
「魔術師殿」
「……ああ」
ヘリヤは、努めて無表情を装いながら返事をした。上手くいっただろうか。
「わたくしどもは、これより一時姿を隠します。そして、時が再び満ちましたならば――ああ、魔術師殿、そんな顔をなさらないで」
……上手くいかなかったようだ。我ながら、何というか。
「魔術師殿、本当に我儘なお願いであることは承知の上で、敢えて申します。時が満ち、私どもが再び帰り来たその時には――また、わたくしどもと共に戦っていただけませんか?」
さて、どうするかな。
ヘリヤは目を瞑り、考えた。思えば、彼女らと出会ってからこっち、ろくな目に会わなかったものだ。争いに巻き込まれ、紅茶に薬を盛られ、死にそうになる程魔力を吸い出され、馬車酔いに襲われ、失望し、血を吐き――。
やれやれ、考えるまでもないな。
「――そのときは、喜んでエスコートさせていただくよ。美しいお嬢様。まあできれば、私が老いさらばえてしまう前にご一緒したいものだがね」
そのとき、白磁の令嬢が自分に向けてきた笑顔を、ヘリヤは一生忘れないだろうと思った。
事実、彼は死ぬまで忘れなかったのである。
◇ ◇ ◇ ◇
蒼い光が輝いて、消えた。主従を乗せた馬車も合わせて消えていた。
”忌み野”の荒野に一人たたずみ、ヘリヤは改めて考えを巡らす。
さて、これからどうするか。
アカデミーに戻る……という訳にはいかなくなったな。大口叩いて飛び出してきたにもかかわらず、結局何も得られなかった。いや、無論得たものはある。うまく言えないが、かけがえのないものを手に入れることができたと思う。
ヘリヤは手に握るハンカチーフを見つめた。彼らが去る際に、オートマタメイドのフローレンスから手渡されたものだ。
【チチ、チチチチ、チチ】
顔の六つの光点を静かに明滅させながら、彼女はこれを手渡してきた。そのとき、ヘリヤは思わず彼女に語りかけた――そんな悲しい顔をするな。必ずまた会えるさ。
光点を激しく明滅させながら馬車に駆け込むオートマタメイドを見つつ、ヘリヤは心のなかで感謝の言葉を投げかけていた。彼女には、危ないところを何度救ってもらったことか。
そうだ。
例えば、私がくだらないこだわりなど持たず、防御結界の一つでも会得していたなら。手品などと蔑むことなく、火炎や雷撃を操れたなら。彼女らの戦いも、私自身の戦いも、もっと違ったものになったのではないか。
これまでの自分の考えが、全て間違っていたとは思わない。だが、やりようというものはあったのではないか。
“忌み野”の陽が落ちる。辺りが少しづつ、闇に呑まれ始める。
ヘリヤは小声で詠唱し、一つの術を行使した。上に向けた手のひらに、小さな光の球が浮かぶ。『灯火』の術。魔術としては初歩の初歩である。だがそれは、深い暗闇を照らす、確かな灯りであった。
光をじっと見つめるヘリヤの心にも、灯火のような輝きが生まれていた。
磨こう。魔術を、自分自身を。彼女らと再び共に戦うその日まで。その時までに、折れぬ曲がらぬ強さを手に入れるのだ。
なあに、お前ならできるさヘリヤ。何せお前は、百年に一人の天才だからな。
ヘリヤは光球を自らの上に浮かべると、敢然と顔を上げ歩き出した。“忌み野”の闇の中、確かな足取りで歩む彼の周囲だけが、明るく照らし出されていたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
それから、二十年の歳月が流れた。
【後編へ続く】