死に、飢えるは……
夕刻、焦土ヶ原に陽が沈んでいく。
水平線の彼方まで視線を遮るもの一つない不毛の荒野が、その名の通り炎の赤に――いや、夕焼けの赤に染まっていく。帝都の絵師や唄い手の奴らなら、この光景に底知れぬ”美”を感じ、身を震わすこともあるんだろうな、なんてことを思う。
美か。
俺にはてんで分からない。俺がこの赤から思い描くのは、血、臓物、そして全てを焼き尽くす炎。それだけだからだ。
……我ながら酷いな。荒んでやがる。まあ、師匠が師匠だからな! 仕方ない仕方ない。
「……何を笑うておるのだ」
「師匠が最悪だ、って思ってたのさ」
「思ったことをそのまま口にするではない。結局、最期までそれは治らなんだか。いやはや」
それは何気ないやり取り、軽口の叩き合い。師匠と、数えられないほど繰り返してきた日常――そのはずだった。
「師匠」
「なんだ」
「今あんた、『最期』って言ったか。そりゃどういう意味だ」
「そんなもの、決まっておるではないか。明朝、夜明けとともに拙僧と死合い、それを以って、お主の修業の仕上げとしようではないか、ということだ!」
そう言って俺の目を覗き込む師匠の目には、いつもの狂的真摯さと、あからさまな喜悦の色が浮かんでいた。
「……マジかよ師匠」
「本気も本気、大真面目よ。拙僧は今日をもって確信したのだ」
「何を」
「それも決まっておる――お主がもはや拙僧と並び立つ程までに至ったことを、だ! それはつまるところ、出会ったときの約定を果たすときが遂に来たということだ。ふむ、あれから数えて十年ほどか? いやはや、人の身でありながら遂に変化者の高みまで至るとは! 良くぞ、良くぞここまで練り上げた! 流石は誉れ高き、我が一番弟子よ!」
一番弟子って、俺以外の弟子なんていないだろうが。
それにしても……全くなんなんだこの糞坊主は。はしゃぎすぎだろ。弟子と本気の殺し合いするのが、そんなに嬉しいってのか?
ほんと狂人そのものだね。嫌だ嫌だ。
俺は俺自身のにやける口元を無視して、大袈裟な溜息をついてみせた。
◇ ◇ ◇ ◇
明朝、焦土ヶ原。朝焼けの太陽は、夕日とはまた違った色合いを見せる。同じ陽の光のはずなのに、全く違って見えるのは何故なんだろうな。
――似つかわしくないことを考えている自分がいることに気づき、思わず苦笑を漏らす。やれやれ、どうやら相応に緊張しているみたいだ。
「おお、笑うておるのか。いや結構結構。敵を前にしてなお不敵な笑みを浮かべる、その気概や良し」
的外れなことを言う師匠に向けて、俺はまた大袈裟な溜息をついてみせる。本当にこの糞坊主は。戦うことしか頭にないのか。
そうだ。
十年連れ添って心底分かった。この坊主の頭には戦うことしかないのだ。本当に、嘘偽りなく。
言葉通りの「闘争の化身」。行住坐臥、全てにおいて常在戦場という化物だ。そんな奴、狂人と言わずしてなんと言えば良いんだ。
では俺は? そんな狂人に十年付き合った、この俺は?
俺はそんな益体もない思考を、意識して頭から追い出した。そうだ。お前がこれから相手する男は、そういう化け物だ。頭の先から爪先まで闘争で染まり上がった――『鬼』だ。
それに抗うには、俺も自身を染め上げなくてはならない――純粋な闘志に。純真な狂気に。闘争に必要のない不純物を、身から削ぎ落とさねば。
そうしなければ、人は鬼には勝てない。
合掌し、呼気を整える。右足を引き、軽く腰を落とす。掌を相手に向けた両手を、顔の高さまで持ち上げる。
その頃には最早、俺の心は一点の曇りなき闘争心に満たされていた。構えた俺を見た師匠が、満足げに頷く。「良し」
同じ構えを取る師匠。ゆるりとした、だが一部の隙もない所作。我が敵を討ち倒す――唯一つの目的のために、途方も無い歳月と膨大な労力を注ぎ込まれて磨き上げられた構えは、陽の光なんぞよりよっぽど俺に”美”を感じさせた。
俺と師匠は鏡合わせのように向かい合ったまま、薄皮を剥ぐように、少しずつ、少しずつ、互いに間合いを詰めていく。
殺気と緊張感が、縮む間合いに反して膨れ上がり、密度を増し。
「しからば、まずは拙僧から一献」
一拳一足の、間合いに至り。
「馳走、つかまつろうぞ!」
――弾ける!
初撃は師匠、空を貫く正拳が顔面へ。躱して、踏み込む。拳を交差させ顔面へ。入った――いや、師匠の二撃目がより速い!
この糞坊主! 反撃に反撃を、合わせんじゃねえ!
肝臓に迫る拳。肘で受ける。体がきしむ音がする。衝撃に逆らわず跳ぶ。同時に体の芯を捻り、独楽のごとく回転。衝撃を逃がす。柔らかく着地。間合いが離れた――仕切り直しだ。
あぶねえ。危うく最初の差し合いでケリがついちまうところだった。つまり、あの間合いじゃヤバいってことだ。師匠より一回り体の小さい俺だ。その分手足の長さにも差があるってわけだ。下手な間合いの取り方だと、一方的に殴られるだけだ。だったら――!
再び構え、ゆるりと足を踏み出す。流れるように。地の底へ真っ直ぐ沈もうとする己の自重を、ほんの僅か、前方へずらしてやる。するとどうなるか? 答えはこうだ。「並の使い手では反応すら出来ない速度で、相手の懐へ飛び込める」。
ただし俺の相手は並どころじゃあない。電光石火の踏み込みに、完璧な正拳を合わせてきた。
――完璧。そうだ。長年に渡る修練の日々で、数限りなく見て、喰らって、そうして俺の身に刻み込まれた正拳。人も、人ならざるものも、分け隔てなく粉砕する至高の一撃。
だが、だからこそ、俺も完璧に――読むことが出来る。
拳をくぐり抜ける。ここまでは最初と同じ。だが今度は俺は打たない。打たずに、さらにもう一歩、臆せず踏み込む――超、接近戦!
お互いに出来ることが限られる――だが間違いなく、俺より師匠の方に不利がつくだろう。さあ師匠、どうする?
目の前に、師匠の顔。
「やるではないか!」
おいおい、なんだその顔は。
「……まったく」
あんた今、俺に一本取られた感じなんだぜ。何でそんな嬉しそうなんだよ。全く、そりゃあれか? 「愛弟子の成長っぷりに、ついつい笑みがこぼれてしまいました」って感じか? あのなあ、こいつは殺し合いなんだろう? ったく、そんな顔されたらさあ! こっちも嬉しくなっちまうだろうが!
丹田に力を込め、短打を一息に六発。すべて受けられ、いなされた。お返しとばかりに打ち返してくる。四発。上体を振り、躱す。
やっぱりだ。この間合いでなら、回転力で師匠を上回れる。ならば――!
撃つ。撃つ。撃つ。今度は六発と言わず撃つ。横殴りの雨、岩砕く波濤。時には虚撃を混ぜ、軌道を自在に変化させ、ひたすらに、無心に、撃って、撃って、撃ちまくる。無論、師匠も打たれっぱなしって訳じゃあない。俺の乱撃の隙間を縫って、必滅の一撃がたびたび飛んでくる。そのうちの一発が、俺の頬をえぐった。皮が破れ、肉が裂ける感触。だが止まらない。止まれない。ここは勝機だ。正念場だ。俺はもう一段階回転を上げた。ここで押し切る、押し切ってみせる。
でないと――。
「ふ、ふふ」
師匠の漏らした笑い声。聞こえた瞬間、全身を電流と寒気が走る。俺は、バッタのように後ろに飛び退いていた。
飛び退いてから気づく。何をやっているんだ俺は。何故掴んだ勝機を自分から捨てた?
何故って……決まってるだろ。あのままやってたら、俺、死んでたぜ。
師匠は全身を真っ赤に染めていた。俺の連撃で流血している――だけじゃなかった。
師匠の額から、二本の角が左右に伸びる。全身に圧倒的な力がみなぎっていくのがわかる。なんてこった。『変化』には時間がかかるもんだと思っていた。だからその前に、無理やり捻じ伏せてやろうと思っていたのに。
だがそれは叶わず、俺の目の前には今、一体の『鬼』が立っていた。
「ふふ、ふふふふ、ふふふふふふ!」
溢れ、零れ落ちるような『鬼』の――師匠の笑い声。
「いやはや、まいった。恐るべきは我が弟子よ。正直、あのまま捻じ伏せられてもおかしくない勢いであったぞ」
だったら捻じ伏せられてろよ。畜生。
「そして誇りたまえ、我が一番弟子よ。拙僧がこの姿を、変化者でもないただの人間に晒すなど、かつて一度もなかったことだ。やはり拙僧の見立ては、間違っておらなんだ」
そんなこと言われて、俺が喜ぶとでも思ってんのか畜生。
ああそうだよ、喜んでるよ畜生。
「さあ、続きをやろうぞ愛弟子よ。お主が磨き続けた技の数々、この『鬼』めに如何ほど通じるか……何一つ通じなければ、死ぬぞ」
だろうね。俺は乾いた唇をひと舐めする。
「だがお主ならば! お主ならばこの『鬼』めを超えること、能<あた>うかもしれぬ! いや、必ず能うぞ! そうさな、そのときは堂々と名乗るが良い――『鬼殺し』の二つ名を!」
「なんだそれ、ダッセえ」
「なんと!」
「古臭いぜ師匠。それじゃ萎えちまうよ。なんかこう、もっとビビッと来るような二つ名無いの?」
「むう……」
『鬼』は、腰に手を当て思案する。やがてわざとらしく、上に向けた手のひらに右の拳を打ち付ける。
「『さつき』では、どうだ?」
「『さつき』?」
「然り。『殺鬼<さつき>の麦香<ばっか>。良い二つ名だと思うが――それにな」
師匠は鬼面に凄まじい笑みを浮かべて言った。
「『さつき』という言葉には遠い遠い昔、我が名『死渇』――「しがつ」を越えてその先に進む、との意味があったということだぞ。どうだ、拙僧を打ち倒した暁に名乗るべき二つ名として、まことふさわしいとは思わぬか」
それを聞いた俺の全身に、電流が走る。だがそれは、さっきのとは全く違う種類の、真逆のものだった。
「……良いね、そりゃあ良い。俄然やる気が出てきたぜ師匠。あんたをぶっ倒して、堂々とそう名乗らせてもらうとするよ」
「そうだろうそうだろう。だが心せよ我が弟子よ。お主も散々目にしてきたであろうが――この姿の拙僧は、強いぞ」
「知ってるよ」
「とんでもなく、だぞ」
「知ってる」
『鬼』は、師匠は両手を大きく広げ、構えを取る。
ああ、その姿。その構え。
俺は師匠と出会った時のことを、俺の目の前で糞豚野郎をぶち殺してみせたあのときのことを、一瞬の閃光のように思い出していた。
あのとき俺は、情けなく小便漏らして地面に這いつくばることしか出来なかった。弟を奪い、己に振るわれる暴力を、甘んじて受けるしか無かった。目の前に迫っていた自分の死を、震えながら待つだけだった。
俺は再び構えを取る。あれから十年。無力な糞餓鬼だった俺は、あんたに出会って、血反吐吐くほど鍛え抜かれて、そうして今、一人の拳士としてここに立っている。死と暴力の化身たる『鬼』を前にして、堂々とここに立っている。
ありがとうよ、師匠。本当にありがとう。
いくら礼を言っても足らないだろうし、なによりそんなもんじゃあんたは喜ばないだろう。だから俺は必ずあんたを倒す。あんたを超える。あんたが切望し渇望した、『鬼』に並び、『鬼』を受け止め、『鬼』を超えるモノになってやる――。
そいつが俺の、恩返しだ。
俺は笑った。それが合図だった。
いつ果てるともしれない死闘、その再びの始まりの。
【つづかない】