白磁のアイアンメイデン 第4話〈7〉 #白アメ
もう何度目だろう。彼女にこうやって驚かされるのは。
出会ってまだたったの二日。そのたった二日の間に、これまでの人生で対面したものとは比較にならない量と質の驚きに翻弄されてきた。だからもう驚かないと、誓いさえした。
だが今、目の前で起こっていること――これはその中でも、とびきりだ。
ベアトリスの顔を走る線は、蒼い光を放ちながら不規則に動き回る。否、不規則かと思われたその動きはやがて、顔の中央を走る一本の線として収束しつつあった。
へリヤの見ている前でその線が輝きを増す。ヘリヤは蒼い光に見入りながら、我知らず唾を飲み込んだ。
やがてその線に沿って、彼女の美しい顔が――
ばちん。
派手な音とともに、ベアトリスの顔を押さえる手。他ならぬ、彼女自身の両の手だ。
事情を知らぬものが見れば、恥じらう表情をひた隠す乙女の初々しい行動かと見紛うかも知れない――今、彼女が隠そうとしているものは、断じてそのようなものではなかった。
沈黙が、球体の空間を鈍く染めていく。身じろぎすら許さない重さに、絡め取られていく。一瞬、永遠、どちらにせよ、命のやり取りの場にあってはならぬ時間が過ぎ去った頃。
「魔術師殿」
沈黙の帳を破ったのは、ベアトリスの方だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「魔術師殿、お願いがあります」
ベアトリスの声色は淡々としていた――まるで、一切何もなかったかのように。
違う。
何故かはわからない。だがヘリヤには違うとわかる。
彼女はただ、何事もなかったように装っているだけだ。
「色々とお尋ねになりたいこともおありでしょう。ですが」
口元にはいつもの笑み。彼女の揺るがぬ自信と、変わらぬ優雅さの表れ。
揺るがぬ? 変わらぬ? 違う、そうではない。
「今は何もお尋ねにならず、このまま共に闘ってはいただけませんか?」
ヘリヤは唐突に気づく。この笑みは彼女の「表情」ではない。これは彼女の「無表情」だ。感情を表に出さない――もしくは、どのように表情を作っていいかわからない――ときの、素顔。素の顔。そういう顔に作られているのだ。まるで――人形のように。
「オートマタ……なのか?」
思わず口からこぼれたその単語に、口にしたヘリヤが一番に驚く。オートマタ。魔術で動く自動人形。それならば、白磁の美貌と人知を超えた戦闘力、その二つを兼ね備え得た奇跡的存在にも、すべて納得がいく。如何なる存在であれ、その様に作り上げればいいだけの話だからだ。
いや……待て。ちょっと待つんだへリヤ。何かおかしい。
「……違いますわ、魔術師殿」
気怠げに上体を起こしたベアトリスがぼそりと、だが力のこもった口調で言った。
「オートマタとは、違うのです。信じていただけないかもしれませんが」
その声にヘリヤが答えようとした、そのとき。
”竜”が、微動だにしなくなったホワイト・ライオットを尾で薙ぎ払った。
◇ ◇ ◇ ◇
一瞬の浮遊感、次いで強烈な衝撃。ヘリヤとベアトリスの二人は、あらゆる方向に叩きつけられ、叩きつけられ、叩きつけられた。
声も出せぬ苦痛によって気を失いそうになり、しかし激痛によって気絶することも許されず、ヘリヤは盛大に喀血する。
血反吐に塗れながら、ヘリヤは正面に映し出される映像を見た。一面に映し出されていたのは、”竜”が不快な笑みとともにこちらに腕を伸ばしている姿であった。
<<どうした? もう終いか? ん? んん?>>
”竜”はホワイト・ライオットの顔を鷲掴みにすると、ゆらゆらと揺らしてみせた。まるで幼子が、捕らえた虫を弄ぶかのように。
その様が、口調が、ヘリヤに思い出させる――舐められるのは、我慢ならない。
ふう。溜息を一つつくと、ヘリヤはベアトリスの顔を正面から見据えた。改めて見ると、ほんとうに美しいな。それはそうだろう。そう創られたのだろうから。いかに整った顔でも、所詮は作り物、命宿らぬ紛い物だ……。
命――宿らぬ?
ヘリヤは、自分の中に小さく灯されていた違和感の正体に気づいた。そうだ、オートマタとは、魔力で動く命無き自動人形。だが自分は彼女の、ベアトリスの命に、その熱に触れていたのではなかったか。赤い赤い、命の光。機神に仮初めの命を与えさえした、燃え盛る紅の炎。
何が正しいか、分からなくなってきた。
だが、だとしたら。おそらく今やるべきことは――結論の出ない悩みにいつまでも拘っていることでは、ない。
「……魔術師殿?」
自分を見つめながら微動だにしないヘリヤに、ベアトリスはおずおずと話しかけた。
「……そうだな」
「え?」
「正直、何が何やら分からん。だったら、今やるべきことは悩んだまま足を止めることではない」
「……」
「考えても仕方ないことは、考えないようにしようと思うんだ。それとも、これはただの逃避だろうか?」
「!」
ベアトリスの記憶が――柔らかく微笑む男の姿が――閃光のように浮かび、目の前の魔術師の苦笑めいた笑みと重なった。
「……いえ、決して、決して逃避などではありませんわ。前を向き、足を止めない……それは、誰にでもできることではない、ヘリヤ様自身の強さなのです」
なんだ、えらく大げさだな。まあいい。
「決着をつけよう。その後でいろいろと聞かせてもらうぞ。約束しろ」
「……はい。必ず、必ずお話しますわ」
「よし」
真正面。”竜”の下卑た顔を、二人で睨みつける。
「勝つぞ」
「ええ!」
◇ ◇ ◇ ◇
”竜”は愉快だった。
偉大なる”五色の竜”の一角である自分に無謀にも牙を向いた痴れ者が、今や成すすべもなく蹂躙されている。ああ、なんと愉快な。愉快すぎて嗤いたくなるほどだ。弱者を己の思うがままに嬲る瞬間は、幾度味わっても飽きぬ至上の甘露なり。
くふふふふ。さあて、名残惜しいがそろそろ終いにしてやろう。捩じ切るか、磨り潰すか、それとも――
”竜”は機神の顔面を掴んだまま、腕を勢いよく真上に振り上げた。”竜”の頭上に逆さまに持ち上げられる。ホワイト・ライオット。
<<決めたぞ! 貴様は盛大に、叩き潰してや――>>
頭上より、何かの動く気配。
”竜”の6つの目が、頭上のホワイト・ライオットを――先程まで微動だにしなかったはずなのに、いつの間にか己に向けて右腕を差し出している白磁の巨神を――見た。
<<しまっ……>>「冥府魔槍、『ストレイ=ヘル』!」
逆しまに放たれた魔槍は、頭上より”竜”の障壁を貫き通し、そのまま”竜”の脳天に突き刺さった。
汚らしい体液を脳天から撒き散らし、喚き声を上げる”竜”の側面にひらりと降り立つホワイト・ライオット。
「逃すな! あと一撃!」
「無論ですわ!」
狙うは右腕、4つの刻印の最後の一つ!
「『ストレイ――』」
「放て!」
「『ヘル』!」
蒼く光る魔槍は、狙いあやまたず刻印を貫き、”竜”の右腕を破壊せしめた。
否。それだけではない。
4つの刻印とは、”竜”の防御術式を解析した魔術師、百年に一度の天才たるヘリヤがその術式に記したものだ。それを全て貫くとは、即ち――
”竜”の全身が、光と音に包まれ始めた。かつて見た光景、だが今度はその規模を数十倍にして再び、弾け飛んでいく防御術式。
”竜”は驚愕し、狼狽し、混乱し。
徐々に収まる光の向こう、目の前で拳を構える白磁の機神を目の当たりにした瞬間。
”竜”となって初めて、心底恐怖した。
――その隙を逃すベアトリスたちではない。
ベアトリスとへリヤ、二人の叫びとともにホワイト・ライオットから放たれた必殺の拳は、実に4発同時に”竜”に叩き込まれた。上下左右、十字を描くように着弾した拳とともに打ち込まれた”気”は、”竜”の体内で反響しあい、増幅され、嵐の如く荒れ狂う。
これぞ薫風(クン・フー)奥義、「四神」なり――そして。
己の体内で暴虐の限りを尽くす”気”に耐えきれず、”竜”は天を仰ぐ。
その六つの目に映ったのは――”忌み野”の蒼穹を切り裂かんばかりに高く振り上げられた、ホワイト・ライオットの右足であった。
”竜”の恐怖が、畏怖へと変わる。
「踏んでさしあげますわ、”忌み野の竜”殿」
戦斧の如く振り下ろされた踵は、”竜”の巨体をその畏怖ごと両断し――
「では、ごきげんよう」
遂には、”忌み野の竜”を爆散せしめた。
◇ ◇ ◇ ◇
戦は終わった。
光りに包まれながら解けていくホワイト・ライオット。その光の中より二対の文字蛇が顕現し、螺旋を描きながら”忌み野”の大地に降り立つ。人の形を象り始めた文字蛇に、オートマタ執事とメイドが駆け寄っていった。
『ご無事ですか、お嬢様』【チチチ、チ、チチ】
「……ええ、仔細無くてよアルフレッド、ああ泣かないでフローレンス」
泣いているのか。
そう心のなかで独りごちた瞬間に、へリヤの膝が崩れ落ちた。
「魔術師殿!」
「ああ、問題ない。ちょっと疲れただけだ。そんなことより……」
アルフレッドの肩を借りて立ち上がったヘリヤは、弱々しい笑みを向けてみせた。
「終わった、のか」
「……『ほぼ終わり』ですわ、残念ながら。最後の一仕事が残っておりますの。それに」
ベアトリスは花のような笑みを返す。
「魔術師殿とのお約束も、守らねばなりませんわ」
そう言うと、踵を返し歩みだした。向かう先は――爆心地(グラウンド・ゼロ)。
◇ ◇ ◇ ◇
丸くえぐり取られた”忌み野”の大地、その中心で”忌み野の竜”たる少女は目を覚ました。
まず目に入ったのは空の青、そして暗闇の黒。目を灼くような陽の光に、思わず顔をしかめ――視界が半分しかないことに、そこでようやく気づいた。右目が機能していないのだ。
いや、右目だけではない。四肢は全く意のままにならず、音は片方しか聞こえてこない。
なぜだ。
なぜだ。なぜだ。なぜ、こんなことに。一体なぜ、何の因果で、妾が斯様な羽目に――
足音が、聞こえる。
首をそちらに向けた。
半分の視界に飛び込んできたのは。
紫のドレスを身にまとい、華麗な足取りで歩んでくる。
黒い髪の、おんな。
ひっ。
”忌み野の竜”は、人知れず短い悲鳴を上げた。
◇ ◇ ◇ ◇
「またお会いいたしましたわね。ご機嫌はいかが? ”忌み野の竜”殿」
いつもの微笑みを浮かべながら、ベアトリスは無感情に語りかけた。
「……く」
「『く』?」
「来るな……来るでない……妾に……近寄るでないぞ……!」
「あら、まあ」
”竜”の訴えを一切酌量せず、ベアトリスは無造作に近寄っていく。
「そういうわけには参りませんの。ああそれにしても」
”竜”の直ぐ側まで近づいたベアトリスは、ヒールの踵でゆっくりと”竜”の胸の辺りを踏みしめる。
「げぇ……ぐ!」
「今度は吹き飛ばしてしまわずに済みましたわ。さすがは”忌み野の竜”。手下の三下共とは違いますのね。素晴らしいですわ」
足元の”竜”を冷徹に見下ろしながら、ベアトリスは淡々と”竜”を踏みにじった。
「ぐ……ぐうう……! や、やめ、やめろ」
「ふふ――さて、と」
”竜”の体からあっさりと足を外したベアトリスは、くるりと体の向きを変えると、後ろに控えていた魔術師に――アルフレッドの肩を借りてかろうじて立っているヘリヤに向き直った。
「……どうした」
「お待たせいたしましたわ、魔術師殿」
そう言ってベアトリスは、薄く微笑んでみせた。
「お約束どおり、全てお見せいたしますわ。とくとご覧遊ばせ」
ベアトリスがそう口にした瞬間、彼女の全身を蒼い光の線が走り始める。
『お嬢様!』
【チチ、チチチ、チチチチチ】
「良いのです、二人共。魔術師殿と約束したのです。”竜”を打ち倒した暁には、全てをお話しすると」
光は全身を走り、やがて一本の線に収束していく。
「まあ細々と語るより、実際にご覧いただいたほうが早いでしょう……わたくしが、『何』であるか」
体の中心を走る光。その光に沿って。
「ああそうでした、一つお願いが……どうか悲鳴などあげないでくださいまし。わたくし、傷ついてしまいますもの」
ベアトリスの顔が、体が。
扉のように、左右に開き。
「中身」が、したたる琥珀色の液体とともに這いずりだしてきた。
◇ ◇ ◇ ◇
――もう何が来ても驚かない。そう心していたのでなければ、ヘリヤは情けなく悲鳴を上げていたかもしれない。いや、もしかしたらあまりの疲労感に脳が麻痺していただけかもしれない。ヘリヤは自分でも意外なほど、あっさりその光景を受け入れていた。
目の前のそれは、「肉塊」であった。
何色とも言い表せない、おぞましき、肉の、塊。
それがみっちりと、「ベアトリス」の中に満ちていたのだ。
「ベアトリス」の内側に無数に生えた針状の物体にその身を貫かれながら、肉塊はその身を蠢かせていた。
<驚かれましたか?>
ごぼごぼと泡立つような、不快な声。それが目の前の肉塊から放たれたことを理解するのに、数瞬の間が必要であった。
「……ああ、驚いた」
<まあ、あまりそうとはお見受けできませんが>
「それが、あんたなのか」
<ええ、これがわたくしですわ>
肉塊は無数の触手を蠢かせながら、こころなしか嬉しそうに語る。
<これがわたくし。はじめまして魔術師殿。わたくし、”シャーロット・スノーホワイト”と申します>
「……ああ、はじめまして」
間の抜けたやり取りだ。
「その、それ、痛くはないのか?」
おいおい、他に聞くことはいくらでもあるだろうに、口をついて出た質問がまずそれか?
<まあ、ご心配くださるのですね。ですがそれには及びませんわ>
肉塊は短い触手をその身から伸ばすと、針の一本に触れてみせた。
<もう、慣れましたもの。それにこうしていないと、わたくしは「ベアトリス」を上手く操れないのですわ>
「そうか」
なにが「そうか」だ。もっと他に、気の利いた返しようはなかったのか? やはり頭が上手く働いていないようだ……働いていたとして、うまいこと返せていたかどうかはわからんが。
いや、頭はちゃんと働いている。だからわかったこともある。
「それは……その姿は、”忌み野の竜”の仕業なんだな」
<ええ……と言いたいところですが、正確には彼女のお仲間ですわね>
「お仲間……では、なぜ」
<”五色の竜”どもは、いずれ全てを打ち倒します>
ベアトリスの……否、「シャーロット」の耳障りな声色に、隠しきれない感情の色がにじみでる。
「”五色の”……”竜”……」
<”五色の竜”どもは人の姿を借りて――この言い方も本来おかしなものなのですが――人間(じんかん)に潜み、自らの欲望を満たさんと暗躍しているのですわ。あるものは一国の女王として、あるものは大宗教の教主として、そしてあるものは……魔術アカデミーの、大師匠階(グランドマスタークラス)として>
「な」
それは。いくらなんでもそれは。
それは流石に、驚いたぞ。
大師匠階(グランドマスタークラス)。魔術アカデミーの、頂点に立つ者のみが与えられる称号だ。いずれ自分が手に入れる予定であったそれを、よりによって別の”竜”が名乗っているのだと、彼女は言うのだ。
否定したい。だが。
へリヤの中にある理性が冷静に告げてくる。おそらく真実だ、目を背けるな、と。
<そういうことですので、打ち倒すと言ってもなかなか容易くはいかぬのです。ですので、自らの眷属以外に後ろ盾のない”忌み野の竜”をまず手始めに、と考えたのですわ>
そう言うと「ベアトリス」は再びくるりと身を翻し、”忌み野の竜”に向き直った。
<さて、それでは奪われたものを返していただきましょう……よろしいですわね? ”忌み野の竜”殿……いえ、”五色の竜”――”翠のグリンフェルノ”>
「……な!? 貴様……なぜ、なぜ貴様如きが妾の真名を知っておるのだ!」
“竜”の問いには答えず、「シャーロット」は触手を伸ばし”竜”の体を絡め取っていく。四肢を拘束されたまま、”竜”の小柄な体が宙に浮いていく。
「やめろ……! はな、離せ!」
<はなしませんわ>
シャーロットの体から、新たな触手が伸び行く。“忌み野の竜”の首に巻きついたそれは、慈悲なく“竜”を締め上げていく。
遂に耐えきれなくなった“竜”が苦悶の叫びを上げたとき、触手はその口内に滑り込んだ。
「ごえ……っ! ぐ……ぐぶっ」
<おしずかに>
口から体内に入り込んだ肉の触手が、”竜”の中を蹂躙していく。柔らかいものが掻き回される音が響き、”竜”の左目が「ぐりん」と上を向く。
<ああ、みつけましたわ>
肉の裂ける耳障りな音を立てながら、”竜”の口内から触手が引き出された。血と粘液に塗れた触手が掴み取っていたのは、血よりもなお赤い、脈動する輝石であった。
ヘリヤはすぐに気づく。あれは魔力の塊だ。赤子の握りこぶしのような大きさだが、秘めた魔力量は途方も無さそうだ。
<確かに返していただきましたわ。”忌み野の竜”殿>
シャーロットは触手を自らのもとに引き戻すと、ばっくりと開けた口――のような器官に輝石を放り込んだ。ごくり、という音が聞こえた気がした。
<さて>
”竜”の体を無造作に大地に落とすと、「ベアトリス」の体が蒼く光り始める。シャーロットは自らの体を縮こませ、「ベアトリス」の体内に収まっていった。
「ベアトリス」の顔が、体が、青い光とともに閉じていく。
やがて光が収まる。にこやかな笑顔をへリヤのほうに向けてみせたときには、最早彼女はいつものベアトリスであった。
「では、今度こそ、本当に」
ベアトリスは、右足を優雅に持ち上げると――
「ごきげんよう、”忌み野の竜”殿」
――優雅に振り下ろし、”竜”の頭を踏み砕いた。
【続く】