
遠山キナコの太く短い伝説
S県立斎賀東高校2年A組に在籍する女子高生である遠山キナコは、それはもう、ごくごく普通の女子高生であった。学力も「ふつう」、運動能力も「ふつう」、容姿も「ふつう」、性格も「ふつう」。どの指標でもおよそ平均値(これが「完璧な平均値」であれば、それはそれで彼女の「特別な」個性と言えたかもしれないが)の、どこにでもいる女の子。それが遠山キナコである。
そんな彼女が生まれて始めて金槌を手にしたのは、高校1年生の夏、部室棟(キナコは陸上部に所属していた。記録はもちろん「ふつう」だ)の隅にある倉庫でのことであった。
彼女はもちろん、知識として金槌というものを知ってはいた。だから目にしたときも特段驚くようなことはなかったし、手にとってみたのも何か深い考えがあってのことではない。
――なんか、妙にしっくりくるな、コレ。
キナコは金槌をまじまじと見つめ、何度か振り回してみた。羽のように軽い。腕力もいたって「ふつう」のキナコだったが、この金槌は自分の意のままに扱えているような気がした。
「あぶないよー」
笑いながらそう声をかけてきたのは、キナコの友人の天城祥子である。
祥子とキナコは親友と言って良い間柄であったが、二人はまるで正反対の存在であった。祥子は、一言で言えば「完璧」であった。頭脳、運動神経、容姿、性格、全てがハイスペック。キナコは、祥子と自分は本当に同じ人類なのだろうか、と真剣に悩んだことさえあった。二人が親友になったのは高校入学直後の些細な偶然からであったが、それがなければ一生関わり合いのない相手だったのではないか……キナコはいつでもそう思っている。
キナコは祥子を見た。セミロングの輝く髪。傷一つない肌。長いまつげ。すらりと伸びた手足。可愛いな。
キナコはなんとなく、本当になんとなく、祥子の頭に金槌を振り下ろした。
小気味良い音が響く。小さな悲鳴を上げ、祥子は床に崩れ落ちた。びくびくと痙攣し、やがて動かなくなった。死んだのだ。
キナコは驚いた。
――うそ。人間って、こんなにかんたんに死ぬんだ。知らなかった。いや、いやいや。そんなはずない。いくらなんでもあっけなさすぎる。
目の前で起こったことに整合性をつけるために、キナコは必死になって頭を回転させた。そうして考えて考えて、ようやく一つの結論にたどり着いた。
――そうか。きっと私には殺しの才能があったに違いない。それも、とびっきりの才能が。そうじゃなければ、初めての人殺しがこんなに上手くいくはずがないもんね。
遠山キナコは「ふつう」の女子高生である。だから彼女は祥子のような「特別」に、常に憧れていた。そんな彼女が自らの「特別な」才能を自覚すれば、どうなるか。
――これはもう、なるしかないな……殺し屋。
十代女子の魂に一度火がついたら最後、何人たりともそれを止めることなどできないのである。
「よし、やるぞ! 目指せ殺し屋!」
金槌を握りしめた手を高く掲げ、キナコは高らかに宣言した。その拍子に、足元の祥子につまづいてしまう。
「うわっと。あー、そうだ。死体はどこかに隠さないとだった」
殺し屋ならそうするよね、そうつぶやきながらキナコは祥子の死体を片付けようとし……そもそもどうやって隠せばいいのか、全くわからないことに気がついた。
――ど、どうしよう。ゴミ箱には入らないだろうし。どこか人目につかないところに運ぶとか……うーん、たぶん運んでいる最中、思いっきり人目についちゃうなあ。
(あー、あー、あー。キナコちゃん、キナコちゃん、聞こえる?)
キナコの頭の中に聞き覚えのある声が響いてきたのは、そのときである。
「え? ええ? うそ、祥子ちゃん?」
(うん、そうだよ)
「で、でも」
キナコは足元の死体を見下ろした。うん、確かに死んでいる。でも、だったら。
(私も良くわからないんだけど……死んだ拍子に、キナコちゃんの頭の中に生まれ変わっちゃったみたいなの)
「そ、そうなんだ……」
(それでキナコちゃん、私の死体なんだけど)
「そ、そうなんだよ祥子ちゃん! これ、どうしたらいいと思う? あ、その前に……突然殺しちゃってごめん!」
キナコは両手をあわせ、拝む動作をした。
(あー、いいよいいよ。キナコちゃん、わざとじゃなかったんでしょ)
「もちろんだよ。わざと友達を殺すなんてできないよ」
(じゃあ仕方ないよ。済んだことだし、何より……キナコちゃん、やっと自分の才能に気づけたんでしょ? ずっと欲しがってたもんね、『自分だけのなにか』。それを見つけるお手伝いができたわけだし、殺され甲斐があったってとこかな)
「祥子ちゃん……」
――やばい。嬉しい。泣いちゃいそう。
キナコは必死に涙をこらえる。頭の中の祥子が苦笑していた。
(ほらほら、キナコちゃん急がなきゃ。誰か来ちゃうよ)
――そうだ。初めての殺しなんだから、最後まできちんとやりきらないとね。
周りを見回すと、無造作に折りたたまれて放置されているブルーシートが目についた。
「あれでくるんで、隅の暗いところに隠しておこう」
(いいと思うよ。さあ急いで)
◇
1時間後。キナコは学校を出て、駅前の商店街を歩いていた。平日の昼間だというのに、通り沿いの店のほとんどはシャッターを閉じている。今や日本中のどこででも目にする、「ふつう」の光景だ。
うだるような夏の日差しが、歩くキナコの肌を焼いていた。不愉快極まりない気候であったが、キナコは全く気にしている様子を見せなかった。
なぜならば、今キナコの脳内では、キナコと祥子による『殺し屋会議』が大々的に開催されていたからだ。その記念すべき第1回目の議題は「そもそも殺し屋になるためには、どうすれば良いのか」である。
「やっぱり、ピストルだよ」
(そうかなあ)
キナコが断言すると、祥子は半信半疑の表情を浮かべた。
「そうだよ! 殺し屋といえば、ピストル……映画でもドラマでも、大体そうじゃん。だからどこかでピストルをゲットできれば、殺し屋に一歩近づけると思うんだ」
熱弁するキナコ。
「ほら、こういうときのことわざあったじゃん。ええと、確か『何事も形から入るのがベスト』だっけ」
(それたぶん、ことわざじゃないよ)
祥子に笑いながら否定され、キナコは下を向いてしまった。
「うううー」
(ふふ。まあ、でも……まずは、キナコちゃんのやりたいようにやってみていいんじゃないかなあ。正直、私も殺し屋のなりかたなんてよく知らないし)
「……うん、私やる。がんばってみるよ」
(応援するよ)
「ありがとう祥子ちゃん!」
勢いよく顔を上げたキナコは、スマホを取り出すと何やら調べ始めた。
「へへ、実はピストル持ってそうな人たち、心当たりがあるんだ」
(えー、誰だろう。お巡りさん?)
「え? あ、そうか。お巡りさんか。お巡りさんも持ってるよね……いや、ダメダメ。お巡りさんから手に入れようとしたら、たぶん私捕まっちゃうよ。だから……」
キナコは検索画面をスクロールさせていく。
「……見つけた!」
◇
「ええと、ここで合ってるよね?」
しばらく歩いた後、キナコは古めかしいビルの前にたどり着いていた。スマホに表示された写真と、目の前の3階建てのビルを何度も見比べる。ビルの1階はコンビニ、2階には「テナント募集中」の張り紙、そして3階、そこに目当ての場所があるはずなのだが。
(たぶん、あってると思う。看板とか何もないから、わかんないけど)
「あ」
コンビニの横の階段から、一人の男が降りてきた。この暑さの中、スーツ姿である。青々と剃られた頭、口元にヒゲ。
男は道路に出るなり、地面につばを吐いた。
「見て祥子ちゃん。あの人、絶対そうだよ」
(ホントだ。いかにもって感じ)
「よーし、それじゃあ、やるぞ」
(がんばってキナコちゃん)
キナコは小走りで近づき、不審な表情を浮かべた男に話しかけた。
「こんにちは。オジさんって、ヤクザですか? ヤクザですよね? だったら持ってますよね、ピストル」
「……あ?」
戸惑う男に構わず、キナコは話し続ける。
「ドラマなんかでもよくピストル撃ってるし、警察にたくさん取り上げられてるのもニュースで見たことあります」
「は? 何だお前、何言ってん」
「だからピストル、手に入れに来ました。でもごめんなさい、お金は払えません。持ってないんで。でも私、こう見えて殺し屋志望なんで、オジさんを殺してから奪うことにしますね」
言い終えた瞬間、後ろ手に隠していた金槌を振り抜いた。
小気味良い音が響いた。こめかみを強打された男は、白目をむいて崩れ落ちる。一撃だった。
「よーし」
死体のそばにしゃがみ込むと、キナコは男の懐を探り始めた。しばらくゴソゴソと弄っていたキナコだったが、やがてしおしおな表情とともに立ち上がった。
(なかったんだね)
「なかった」
しおしおの顔のまま、キナコはビルを見上げる。視線の先には3階の窓。ネットの情報が正しければ、そこには広域指定暴力団『仁加会』系列『羽白田組』の事務所があるはずである。
「しかたないなあ」
右手に持った金槌をくるくると振り回しながら、キナコはコンビニ横の薄暗い階段に足を向けた。その足取りは、こころなしか楽しげであった。
◇
『羽白田組』組長である羽白田勉は、暴対法施行後の日本社会においては絶滅危惧種と言ってもいい存在――すなわち、武闘派ヤクザである。
ヤクザは暴力を駆使してナンボ、の精神の下、数々の武勇伝を打ち立ててきた彼だったが、そこに今日、また新たな1ページが加わろうとしていた。
ここは『羽白田組』事務所。羽白田は、両足を頑丈そうな机の上に投げ出した姿勢で椅子に座り、目の前の物体に冷ややかな視線を投げかけていた。歳はまだ三十を少し過ぎたばかりの彼であったが、鍛え上げられた肉体と傷だらけの強面が、本当の年齢をわかりにくくしていた。
彼が見ているもの――安物のソファーの上に転がされたそれは、人であった。正確には、制服姿の女子高生である。ただし、その手足は結束バンドで拘束され、目と口は粘着テープでふさがれていた。少女は声にならない声を出しながら、苦しげに身をよじっている。その様子を、七人の組員が下種な表情を浮かべて眺めていた。
拉致たてほやほやの彼女の名は、笠井陽菜。とある大企業の有力者の娘である。羽白田組とその企業はある案件をめぐって「話し合い」を進めていたが、折り合わず決裂。そしてその結果、彼女は事務所に「ご招待」されたのであった。
「お嬢ちゃん」
羽白田が陽菜に語りかける。決して大きくはないが、力強い――逆らったら命がないと嫌でも思わされるような声だ。
「一つ、言っておきたいことがあるんだよ。聞いてくれるか?」
陽菜は、顔を激しく上下に動かした。粘着テープの隙間から、息と唾液が漏れていく。
「素直なのは助かるぜ。素直じゃないやつの相手するのは嫌いだ」
羽白田は煙草をくわえる。すかさず、一人の組員が煙草に火をつける。
ゆっくりと吸う。
ゆっくりと吐き出す。
「さてと」
たっぷりと間を取って、羽白田は話を続けた。
「お嬢ちゃんがこんなことになっちまったのはな、あんたの親父さんのせいなんだよ。親父さんがな、俺たちに恥かかせてくれちゃったから、あんたこんな目に合ってるってわけ。わかるよな?」
陽菜は、またもや頭を上下に振った。実際は全くわからなかったが、ここで首を横に振ることなどできるはずもなかった。
「俺たちヤクザにはな、お嬢ちゃん。ひどい目にあわされた相手には、ちゃあんとそのお返しをするっていう決まりがあるんだ」
羽白田はうんうんとうなずくと立ち上がり、陽菜の口をふさぐ粘着テープに手をかけた。陽菜が、びくりと反応する。
「さて、今から俺は、このテープを外す。あんたに聞きたいことがあるからだ。けどなお嬢ちゃん、ここで一つ約束だ。あんたは俺の質問に答えるとき以外、絶対に声を出すんじゃねえ。いいか、絶対にだ。どうだ、守れるか」
陽菜はわずかに戸惑うようすを見せていたが、やがてこくりとうなずいた。
「そうか、大人の言うことをよく聞くいい子だな」
羽白田はそう言うと、粘着テープをゆっくりとはがしていった。陽菜の口が自由になる。荒い息が、口からこぼれ出た。
「さて、それじゃ聞きたいんだが」
羽白田は陽菜の耳元に口を寄せると、ささやくように言った。
「どの指がいい?」
「え」
「ん? どうだ? どれがいいんだ、言ってみろよ」
「……ご、ごめんなさい。質問の意味が」
羽白田の拳が、陽菜の脇腹にめり込んだ。
陽菜の口が大きく開き、そこから声とも息ともつかない何かがこぼれ出た。全身をじたばたと動かし悶える陽菜を、羽白田は冷ややかな目で見つめていた。
「約束、だろ。質問に答える以外はしゃべらないって」
「で、でも」
再び拳。
「ったく。あんた斎賀女子の生徒なんだろ? 斎女っつったら、ここいらでも有数のお嬢さま学校じゃねえか。なのに、なんで簡単に約束破っちまうんだよ」
陽菜は答えず、荒い息を吐くだけだ。目を覆う粘着テープの隙間から、涙らしき液体がしみだしていた。
「仕方ねえ。物分かりの悪いお嬢さんに分かりやすく言ってやるから、よーく聞けよ。いいか、さっきの質問はな、『あんたの家の郵便受けに放り込んどくためにチョン切られるのは、どの指がいい?』って意味だ」
陽菜は、ひゅっと息を吸い込んだ。口の中が乾いていくのがわかった。
「おすすめは左の小指だ。無くなったってなんとかなるからな。もちろん、他の指が良いってんなら言ってみな。相談には乗るぜ。なんせホラ、俺らはそういうのの専門家だから」
小刻みに震えだした陽菜の口から、かすかな、声と言えない声が漏れる。それを聞いた羽白田が、もう一度陽菜に拳を打ち込もうとした、そのとき。
ピン、ポーン。
羽白田と組員たちの視線が、一斉に事務所のドアへと集まる。
ピン、ポーン。
「おい、柴」
「はい」
羽白田に柴と呼ばれた男が、すっと羽白田のそばに近づく。羽白田組の若頭であり、羽白田組が力を伸ばした理由の半分は、この男の手腕だと言われていた。
「俺さあ、言ったよな。誰も事務所に近づけんな。きちんと見張り出しとけよ、って」
空腹の獣の唸り――そう錯覚させるような羽白田の声。柴は眉一つ動かさない。
「はい。ですんで、権堂と日垣を」
「じゃあ、今のは何なんだよ」
ピン、ポーン。三たびのチャイム。
「田代」
「ウス」
田代と呼ばれた組員が、事務所のドアに近づく。中から施錠されているのを確かめると、ドア横の来客用モニターのボタンを押した。
モニターに映し出されたのは、見知った肥満体の男。日垣だ。
「何だお前。見張りサボって遊んでんのか?」
『田代さん……開け、開けてくれよ』
ほんのわずか、上ずる声。羽白田がピクリと眉を動かす。
「あ? ああ、ちょっと待ってろ」
「おい、待て! 鍵開けるんじゃねえ!」
「え」
鍵を開け終えた田代が、呆けた顔で羽白田を見た。
ドアが開き、日垣の巨体がゆっくりと事務所に入ってきた。モニタ越しではわからなかったが、日垣の青ざめた顔には多量の汗が流れていた。
「日垣……?」
「田代さん……すんません、すんません、俺」
「おい、日垣。お前、それ、右手」
日垣の右手、五本の指が全てぐちゃぐちゃにひん曲がっていた。まるでなにか硬いもので勢いよく殴られたかのように。
「おお、さすが祥子ちゃん。作戦成功だよ」
日垣の後ろに、人影が現れた。制服姿の少女。少女はなぜか、右手に金槌を握りしめていた。
「ありがとうございます。おかげで助かりました。それじゃあ」
少女は金槌を高く振り上げ、日垣の後頭部に振り下ろした。
小気味良い音がした。
「……ん?」
膝から崩れ落ちた日垣を見下ろしながら、キナコは首をかしげていた。膝を抱える格好でしゃがみ込み、床に倒れて痙攣する日垣の後頭部をじっと見つめる。
「殺しそこなっちゃったみたい。いい手ごたえだったのに」
なんでかな、などとつぶやきながら、キナコは日垣の後頭部に二、三度金槌を振り下ろす。
小気味よい音が立て続けに響く。日垣の体が、こんどこそ完全に動きを止めた。
「うーん……よくわかんないな。祥子ちゃんはどう思う?」
キナコはしゃがんだ体勢のまま、数回金槌を振る。何度か首をひねった後、すっくと立ちあがった。
(これだけ体が大きな人だと、ちょっと勝手が違うのかもしれないね)
「そんなもんかなあ。まあいいや、今後の課題ってことにしよう。それよりも」
キナコは周囲を見回した。
「へー、これが事務所の中なんだ。テレビで見るのとほとんど同じだ。額も飾ってあるし、大きなソファーもある。あ! ガラスの灰皿! あれって人を殴る用のやつだよね」
(痛そう)
「なんだテメェ! 何処のモンだコラァ!」
ヤクザの一人――梶田と言った――がキナコに凄む。
「どこの……モン……?」
キナコは首を捻る。
(多分、キナコちゃんの所属を聞いてるんじゃないかな)
「しょ、所属!? あ……そうか」
キナコの後頭部に電球(※イメージ)が浮かび上がった。
「そう言えば殺し屋って、大体なにかの『組織』に属してるもんだよね」
「ブツブツ呟いてねえで答えろやコラァ!」
「え、ええっと。斎賀東高校2年A組、遠山キナコです」
「……は?」
「おう、そいつぶち殺しちまえ」
聞いたものをすくみ上がらせる声が響く。羽白田だ。
「組長……?」
「いいからやれ。日垣やられてんだぞ」
じゃあ俺が、と言いながらキナコに近寄ってきた一人のヤクザは、名を佐原といった。元格闘家にして生粋のサディストである彼は、同棲していた女をささいなことから瀕死になるまで殴り収監。出所後、羽白田組に拾われて極道の道を歩むことになったという経歴の男である。
「組長、コイツ俺の好きにしていいスか」
「犯すなりなんなり、好きにすりゃいい。とにかく――生かして帰すな」
それを聞いた佐原は、下卑た笑みをキナコに向けた。
「だ、そうだぜお嬢ちゃん。怖いか?」
「オジさん。ピストル持ってます?」
キナコから帰ってきた返事は、佐原の想定外のものだった。
「あ? ピストル? 持ってねえよ」
「あー、やっぱりそうなんですね。私わかっちゃったんですけど、オジさんたちみたいなフツーのヤクザの人って、ピストル持たせてもらえないんでしょ?」
「……んだとコラ」
キナコは金槌で頭を掻いた。
「きっとそこの組長さんみたいな、偉い人しか持てないんですよね。ヤクザの世界も結構、上下関係厳しかったりするんですか? ちょっと意外」
「……ピストルなんぞ、必要ねえんだよ!」
言うなり佐原は右ストレートを放つ。キナコの顔面へ。現役時代は「世界を狙えるかも」と言われた右。凄まじい速さだ。だが。
小気味良い音がした。
佐原の口から苦痛の叫びが上がった。右の拳を抑え、たたらを踏む。
「くそ、糞が!」
踏ん張った佐原は、左のハイキックを放つ。まともに当たれば首から上が無くなる、それほどの蹴りがキナコに襲い掛かった。
まともに当たれば、の話だったが。
キナコは金槌を振るった。
いつのまにか左手に持ち替えられていた金槌が、佐原の左膝を砕く。完璧なタイミングのカウンターだった。
キナコが一歩踏み込んだ。再び右手に持ち替えられた金槌を振り上げて、振り下ろす。小気味良い音がする。
佐原が床に転がる。数度痙攣し、やがて動かなくなる。
「こ、殺すぞコラア!」
ナイフを振りかざす田代が、それを振るうより早く放たれたキナコの金槌に鼻を砕かれる。派手に血が吹き出した。田代はナイフを持つ手を振り回す。その手を金槌が撃ち落とした。田代の指がぐちゃぐちゃにひん曲がる。吹き飛んだナイフが、別のヤクザの眼球に飛んでいく。ブルズアイ。
顔をかきむしりながら倒れるヤクザが、いきなりの騒動に困惑する陽菜に向かって倒れ込んだ。生暖かい血が陽菜に降り注ぐ。陽菜の口から悲鳴が上がる。その陽菜の上に、さらに倒れ込んでくる男がいた。田代だ。陽菜より情けない悲鳴を上げている。小気味良い音がする。田代の悲鳴が止まる。視界を奪われたままの陽菜は、一連の出来事を音と感触で推測するしかない。陽菜の神経は決壊寸前であった。
梶田が、どこからか取り出した木刀でキナコに襲いかかった。キナコは金槌を真横に振るった。木刀が半ばから折れる。梶田は目を見開き、日本語になっていない叫びとともに半分残った木刀を突き出した。キナコは金槌を真横に振るった。木刀がさらに半分になった。金槌を真横に振るった。木刀が半分になった。金槌を真横に振るった。木刀が半分になった。金槌を真横に振るった。木刀が半分になった。金槌を真横に振るった。木刀が半分になった。金槌を真横に振るった。木刀が半分になった。
キナコがテンポよく金槌を振るうたびに、小気味良い音とともに木刀が半分に減っていく。
木刀が握り手を残して消滅したとき、キナコは梶田の懐に入り込んでいた。下から覗き込むキナコと梶田の目があう。
梶田は唾を飲み込んだ。
「オジさんも、持ってないんですよね? ピストル」
キナコは金槌を振りかざし、振り下ろした。小気味良い音がした。
◇
羽白田は怒っていた。額の内側で毛細血管が数十本切れたのが感触でわかった。それはいきなり乗り込んで来て組員を皆殺しにしようとしている、訳のわからないクソガキに対しての怒りであった。同時に、そのクソガキに手も足も出ない組員たちの不甲斐なさに対してでもあった。
「柴、柴よお。何なんだありゃあ。カチコミってわけじゃあねえよなあ? ヤク中か? にしちゃあ、目がマトモだけどよお」
「わかりません、ただ」
小気味良い音が事務所に響いた。組員がまた一人、痙攣しながら床に倒れ込んだ。
「ただ?」
羽白田はちらと柴の顔を見る。わずかに強張っている。冷静沈着なこの男にしては珍しい。
「笠井のことを調べたとき、ヤツがある『組織』とつながっているって話が浮かんできたことがありました」
「はあ? 『組織』だあ?」
「ええ。殺し屋の『組織』です」
柴は中指で眼鏡を持ち上げた。
「正直、与太話に近いと思ったんで、ほっときましたが」
「その『組織』だかなんだかが、あのガキを送り込んできたってのか」
「わかりませんが、その可能性はあるかと」
それを聞いた羽白田が何かを言いかけたとき、彼の足元に一人の組員が倒れ込んできた。山下というその男は、口と鼻から血を流しながら羽白田に向かって手を伸ばしてきた。
羽白田は山下の顔を蹴り上げてとどめを刺すと、懐から拳銃を取り出した。別の組員の頭に金槌を振り下ろそうとしているキナコの、後頭部に狙いを定める。
「『組織』ねえ。こんなガキを使ってるようじゃあ、たいした奴らじゃねえんじゃねえか。ま、どっちにしろぶっ殺すだけだし、どうでもいいか」
引き金を引いた。一度、二度、三度。
◇
(キナコちゃん!)
祥子の叫びが響いた。キナコは後ろから迫る気配に向かって、そちらを見もせずに金槌を振るった。一度、二度、三度。
甲高い音がした。
誰かの写真を飾った額と、人を殴る用の灰皿が、派手な音と共に粉々に砕け散る。キナコが弾き飛ばした銃弾によってだ。
最後の一発は、陽菜の顔のすぐ横に着弾した。陽菜は短い悲鳴とともに、軽く失禁した。
「……はあ?」
羽白田の口から声が漏れる。
訪れる静寂。
羽白田は手に持つ拳銃とキナコを交互に何度も見て、最後に隣に立つ柴を見た。柴は、口を阿呆のように開けてキナコを見ていた。羽白田が初めて見る表情だった。
(すごい、すごいよキナコちゃん! ピストルの弾を防ぐなんて! いったいどうやったの?)
「え? えーと、なんかこう、後ろから何かが飛んできた気がしたから、こう、エイエイって」
(……ごめん。ぜんぜんわかんない)
「うー。正直、私も全然わかんない。やってみたらできちゃった、って感じなんだもん」
(な、なるほど……。でも、それってやっぱり、キナコちゃんの才能のなせる業なんだろうねー。すごいよキナコちゃん)
「そ、そうかな。えへへへ」
◇
そう。遠山キナコという少女は、ごく平凡な女子高生である。容姿も知能も運動神経も性格も何もかもが「ふつう」の、どこにでもいる女の子だ。
だが、彼女にはあったのだ。たった一つの、世にも類いまれなる才能が。
世界中の誰にも負けない、いや、それどころか人類の歴史を紐解いてみても彼女に匹敵する者は存在しえなかった、と断言できる天賦の才能が彼女には備わっていたのである。
すなわち、金槌で人を殴り殺す才能が。
彼女の人生は、すべてが金槌で人を殺すためにあった。彼女が「ふつう」だったのは、今までの彼女を測る物差しが「金槌で人を殺すこと」ではなかったからだ。彼女の肉体、思考、感覚、機能、彼女のありとあらゆる全ては、金槌で人を殺すために最適化されていた。そこに理由など無かった。どう振るえば金槌で人が殺せるのか、どう動けば金槌で人が殺せるのか、どうかわせば金槌で人が殺せるのか、どう見れば、どう聞けば、どう言えば、どう考えれば、どう感じれば、どう触れれば、金槌で人を殺せるのか。彼女の人生は、ただひたすらそのためだけにあったのだ。
遠山キナコという女の子は、つまるところ「何をどうすれば金槌で人を殺せるのか」という問いへの、人の姿をした究極の解答なのであった。
◇
「よーし、それじゃあ」
キナコは締まりをなくしていた顔を彼女なりに引き締めると、羽白田のほうに向きなおった。
「組長さん、ですよね?」
ちょっと道を尋ねるかのような、何の気負いもない声で話しかけられ、羽白田はほんの一瞬だけ困惑した。子供のころから鬼、獣、悪魔と恐れられ、またそう呼ばれるにふさわしい修羅の道を歩んできた羽白田に対して、そんな気安さで話しかけてきた者など無かったからだった。
「……だったらなんだ」
「えーっと、実は私、殺し屋になりたくて」
「ああ?」
金槌をバトントワリングの要領でくるくる回転させながら、キナコは語り続ける。
「それで、殺し屋になるために、まずはピストルを手に入れようって思ったんです。ほら、殺し屋さんって大体持ってるもんじゃないですかピストル」
「おい、待てよ。ちょっと待て」
「というわけで、くださいピストル。さっき撃ってたやつでいいです。新品じゃなくても気にしませんから」
「待てっつってんだろうが!」
至近距離に落雷があったかのような怒声に、柴の体がかすかに跳ねた。キナコはと言うと、目を白黒させながら両耳に指を突っ込んでいた。
(す、すごい声……)
脳内の翔子も驚いている。
「ってことはなにか? 殺し屋でもなんでも無いお前が、ピストルほしさに事務所殴り込んできて、そのついでに組員皆殺しにしたってワケか? お前、ちょっと頭おかしいんじゃねえのか」
ちょっとじゃないだろ。
柴は思わずツッコミそうになったが、鋼の意志でなんとかこらえる。
「人の真剣な思いを、頭がおかしいなんて言わないでください! 私、本気なんです! 本気で殺し屋になりたいんです!」
ムッとした顔でキナコも叫ぶ。
いやいやいやいや、どう考えてもおかしいだろ、頭。柴はまたツッコミを飲み込む。そもそも、殺し屋になりたいからピストルを奪いにヤクザの事務所に乗り込むってお前。
「ピストルくれないっていうんでしたら、私、あなたを殺します。殺してでも奪い取ります」
「ああ? 誰が誰を殺すって? ずいぶんとなめたこと言うじゃあねえか」
羽白田はピストルを柴に投げ渡した。その額に何本もの血管が浮かび上がっていく。
「いいこと教えてやるよクソガキィ。ヤクザをなめるってのはなあ、この世で一番やっちゃあいけないことなんだぜ」
羽白田の傷だらけの顔が、真紅に染まっていく。それに呼応するかのように、上半身が小刻みに震えながら膨れ上がっていく。
「へ、変身してる!?」
(さすがに違うと思うよ……でも、気をつけたほうが良さそう)
ぱん、という音とともに、羽白田の上半身が弾け飛んだ。
「ぎゃあっ! 爆発した!」
(キナコちゃん、悲鳴が汚い! 落ち着いてよく見て!)
祥子にうながされて、キナコは落ち着きを取り戻す。よくよく見れば、弾け飛んだのは羽白田が着ていたスーツのみ。さらけ出されたのは古傷と彫り物だらけの上半身。両の腕には天使が舞い、キナコからは見えない背中には、涙を流す聖母マリアと両の中指を立てて挑発するイエス・キリスト。その全てが、赤く赤く染まっていた。
(まさか、筋肉で弾き飛ばした……ってこと?)
「ええー! そんなこと、ほんとにできる人いるんだ」
「さてと……」
羽白田がキナコに向けて一歩踏み出す。たったそれだけで、床が、部屋全体が、そしてその場の空気が一斉に震えた。
隣で見ている柴の顔が、人知れず紅潮する。彼が羽白田組に入るきっかけとなったときのことを思い出していたからだ。あの日、小さなグループを率いてイキり散らすチンピラに過ぎなかった彼に降りかかった、羽白田の純粋暴力。それは今でも柴の心を捉えて放さない。
「うちの組員どもを、さんざんいたぶってくれたお礼だ」
羽白田は手近にあった事務机を左手で掴む。
「潰したらあ!」
そのままキナコに向けて投げた。大の大人が二人がかりで持ち上げるようなデスクが、弾丸にも劣らぬ速度でキナコ目がけてすっ飛んでいく。
(キナコちゃん!)
「大丈夫!」
キナコは、すんでのところでデスクをかわす。デスクはそのまま事務所の壁にぶち当たり、派手な音と共にバラバラに弾け飛ぶ。背中に飛んでくる破片を感じながら、しかしキナコは鋭い踏み込みで眼前に迫る羽白田に全感覚を集中する。その圧倒的威圧感は、それだけで人ひとりぐらいは殺せそうなものだった。
「潰す!」
「ピストルください!」
振り下ろされる羽白田の拳と、振り上げられるキナコの金槌がぶつかり合う。一度、二度、三度。羽白田の拳は止まらない。ありとあらゆる角度から、変幻自在にキナコに迫る。キナコの金槌も止まらない。羽白田の拳を一つ残らず叩き落とし、叩き返す。硬いもの同士がぶつかり合う硬質の音が、事務所内に響き渡る。火花散る。
不意に、羽白田が右脚を蹴り上げた。キナコの体を両断しかねない一撃を、だがキナコは足で踏み、反動で空中へ。そのまま後方宙返り、勢いを殺す算段だ。
羽白田の腕が伸びる。宙に浮くキナコの足をつかむ。
「わ!」
(キナコちゃん!)
「死ねオラァ!」
羽白田は振り向く勢いでキナコを後方へ投げる。先ほどの事務机と同じ勢いでキナコはすっ飛んだ。その先には、事務所にただ一つの窓。防弾仕様だ。だが止まらない。派手な音とともに窓が割れ、キナコはそのまま外へと飛んでいく。
「逃がすかあ!」
羽白田が走る。前方は事務所の壁。
「邪魔だオラア!」
羽白田は壁を吹き飛ばし、空へと躍り出た。寂れた商店街の路上、その空中で、羽白田はキナコを――向かいのビルの壁に着地し、羽白田をにらむキナコを見た。
「なに、ガンつけてんだコラア!」
「ピストル、くださいってば!」
キナコが壁を蹴る。羽白田が拳を振りかざす。
◇
「クソ、急いで追わないと!」
柴は口元を手で抑えながら、羽白田が壁に開けた大穴から飛び出そうとし、慌てて思い直した。ここは三階だ。当たり前の話だが、人は三階から飛び降りればタダでは済まない。
「ちっ……組長はともかく、なんだってんだあのガキは」
柴はそう言いながら身をひるがえし、事務所入り口に駆け出す。はやく、はやく追わなくては。
そうあせる柴の視界の隅に、彼の見知らぬ男が一人立っていた。
「え」
黒づくめの男だった。スーツも、シャツも、ネクタイも、帽子も、靴も、全てが影の色をしていた。シワの多い顔立ちには、なんの表情も浮かんでいなかった。そのことに気づき、柴の背中を冷や汗が流れる。この場、この状況で、なんの表情も浮かべないでいられる男。間違いなくまともでは無い。
男は、ぐったりと横たわる陽菜の顔に手を伸ばしていた。彼女の視界をふさいでいる粘着テープを外そうとしているらしかった。
「静かニ、落ち着いテ」
外国人らしき訛りの日本語で、男は陽菜に話しかけた。感情のこもらぬ、だが聞いた者を落ち着かせる、不思議な声音。実際、話しかけられた陽菜は、男になんの抵抗もなく身を委ねていた。
「アナタを助けにきましタ。もう、安心ですヨ」
「……ちょっと待てオイ!」
柴は手に持っていた銃を男に向けた。羽白田に手渡されたものだ。
「なに勝手なことしてんだお前。どこの何者だ?」
男は、柴のほうを見もせずに答える。
「おやシバサン。アナタはワタシのコト、知っているモノだと思ってましたヨ」
「……なんだと?」
「ハジメマシテ。ワタシ、『組織』の殺し屋デス」
陽菜の拘束を手際よく外すと、黒い男は立ち上がる。
「この子のPadre……パパさんから依頼を受けましてネ。殺し屋に人助けを依頼するなんテ、おかしな話デスが」
男が、初めて柴を見た。柴は男の瞳を、そこにある虚無を見た。
柴の手が、彼の意思と関係なく細かく振るえだす。マジか。マジでそんなものが存在するっていうのか。信じられない。信じたくないーー。
「そんなおかしな依頼デスんで、引退寸前のワタシに回ってきたと、マアそういうワケなのデス」
男が柴に向け、一歩踏み出す。柴は気圧されるように、一歩下がった。銃口は男に向けたままだ。
「シバサン。ワタシは依頼を果たしにきたダケなのデス。アナタやハシロダ組になにかしようなんて、今は全く考えてイマセン。だから、その銃をおろしてもらえませんカ?」
「……嫌だ、と言ったら?」
「そのときは、殺し屋に銃を向けるということがどういうことなのか、教育して差し上げるコトになりマスね」
そう言った男は、いつの間にか柴の目の前に立っていた。まるで手品のように、柴の手から銃を奪い取る。
柴が驚愕の声を上げるより先に、男は元の立ち位置まで戻っていた。両手をゴソゴソと動かしている。
あっけにとられる柴に向けて、男は両手を振ってみせた。男の手から、完全に分解された銃の残骸がこぼれ落ちた。
『組織』の、殺し屋。
柴はもはや、目の前の男がそうだということに何の疑問も持っていなかった。
「シバサン。アナタは賢いヒトだ。自分が今なにをすべきカ、これでもうわかったはずデス」
顔中から汗を垂れ流しながらうなずくと、柴はゆっくりとした動きで事務所の入口へと移動し始めた。そのあいだ、決して男から視線を外そうとはしなかった。男のほうは陽菜に何事か話しかけており、最早柴のほうには目もくれていなかった。だが、その場の空気が柴に雄弁に語りかけていた。
余計なことをするな。
柴がその場から去った後、陽菜に少し待つように伝えると、男は羽白田の開けた壁の穴に向かって歩き出した。外からは激しい物音と、少なからぬ人々の立てるざわめきが聞こえてきていた。
男は歩きながら、先ほどまでのできごとを思い返す。
事務所の前で侵入方法を模索していた男を尻目に、真正面から乗り込んでいったあの少女。名はなんと言ったか。てっきり狂人の類いかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。瞬く間にヤクザどもを葬ってのけたあの手並み、長くこの稼業を続けてきた自分から見ても惚れ惚れするものであった。
だが、殺し屋としては三流以下だ。やり方が派手、かつ杜撰すぎる。というより、殺し屋の流儀を何一つ知らぬ者の動きだと、男の目には映った。惜しい。そういう者の末路は、たいていはたった一つしか無い。
「……一つ、お節介を焼いテあげるとしようかネ」
男はそうひとりごちると、穴から8メートルほど下の地面へと飛び降りた。
◇
「……ふー、って危な!」
(キナコちゃん……!)
羽白田が投げてきた軽自動車を間一髪、地面に転がってかわしたキナコは、立ち上がりざま息を整えようと試みた。だが、続けて投げ込まれてきた信楽焼の狸に邪魔されてしまう。看板、自転車、バス停、ゴミ箱、柴犬。キナコに向かって投げ込まれる様々な物を、ある物はかわし、ある物は叩き落とす。そうしている間にも、キナコの息は荒くなり、足元がおぼつかなくなりはじめてくる。
数えられぬほどの修羅場をくぐり抜けてきた武闘派ヤクザと、才能に目覚めたとはいえ、さっきまでは「ふつう」の女子高生だった少女。その差が、段々とあらわになりつつあった。そしてさらにもう一つ。キナコの才能、金槌で人を殺す才能は、確かに唯一無二のものである。だが、相手が人からはみ出しかけた存在だったならば、話は少し変わってくるのである。
流れる汗がキナコの目に入る。生まれた死角。そこに飛んできたカジキマグロ。すんでのところでかわす。バランスが崩れる。迫り来る壁。壁? いや、チャンスとみて突っ込んできた羽白田だ。衝撃。後方に跳び、衝撃を逃そうとする。逃し――きれない!
悲鳴をあげる間も無く吹き飛ばされたキナコは、商店街随一の古株である『宮脇金物店』の店先に突っ込んだ。その音と衝撃で、すっかり耳の遠くなった店主の体がかすかに跳ねた。
◇
「うう……痛たた……」
(キ、キナコちゃん! 大丈夫?!)
「ど、どうかな……? なんか、身体中痛くて動けないよ……」
(そんな……!)
口元を手で抑えて震える、脳内の祥子。
――ウソ。祥子ちゃんが、あの完璧な祥子ちゃんがうろたえている。
その事実は、キナコに少なからぬ衝撃を与えていた。自分の体から、なけなしの力が失われていくのがわかり、そのことがまたキナコにショックを与える。私、もしかして……死にかけてる?
キナコはあわてて立ち上がろうとする。しかし、先ほどまでは自分の思うとおりに、いや、自分が思う以上に動いていた手足が、今はまったく言うことを聞かない。
キナコは持ち上げかけていた頭を後ろに倒す。固い地面の感触がする。
――やっぱり、「ふつう」の私が殺し屋になるなんて、無理だったのかな。祥子ちゃんみたいな「完璧」な子じゃないと、夢も見ちゃいけないってことなのかな。
――そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。
――だけど。
キナコの目尻に、涙らしきものが浮かぶ。金槌を握る指が、少しずつ解けていく。
――ああ、もういいや。痛いし、疲れたし、何も考えたくなくなってきちゃった。なんだか眠くなってきちゃったし、このまま目を閉じて……。
(キナコちゃんの、バカ! 嘘つき!)
脳内に響きわたる、激情のこもった声。キナコの体がびくりと跳ねた。
(キナコちゃん、私を殺したときに言ったよね? どんなことがあっても、私は殺し屋になるって! 自分が夢をかなえることが、心ならずも親友を殺したことへの、最大のつぐないになるって!)
「……え、えっと。うん……うん?」
――言ったかな、そんなこと。どうだっけ? 言ってないような……でも祥子ちゃんがそう言ってるし……いやいや、やっぱり言ってない……うー、でも自信無いなあ。
キナコは右に左に、何度も首をかしげた。その動きで痛みと疲労がほどよくシェイクされ……そうこうしているうちに、いつしかキナコの脳内には確かな記憶が生えてしまっていた。
「言った……うん、言ったよ! たしかに、私はそう言った!」
(そうだよ! それなのに!)
キナコの目が、カッと見開いた。
「そうだ、そうだよ! それなのに私は、夢をあきらめようとしてた……一番の親友を殺してまで選んだ道なのに……」
(キナコちゃん……)
「ごめん、祥子ちゃん。私いま、完全に目が覚めたよ」
キナコは歯を食いしばり、上体を起こそうとした。とたんに走る激痛。無視して起きあがろうとするが、なかなか叶わない。
――痛い。苦しい。だけど。
手足をバタつかせる。
――だけど、あきらめるもんか。せっかく見つけた夢なんだ。絶対に、絶対に!
「あきらめる……もんか!」
そのとき、キナコの左手に何が硬いものが触れる感触があった。手触りを確かめる。妙にしっくりくる感触だった。
「こ、これって……!」
◇
「オイオイどうした、もうおネンネか?」
宮脇金物店にゆっくりと近づきながら、羽白田はそう言った。嘲るような口調とは裏腹に、羽白田の心には油断のかけらも存在していない。
羽白田は武闘派ヤクザ――すなわち、暴力の化身である。彼はその身に秘めた暴力で、今まで数多の障害を砕き、潰し、排除してきた。
その自分の暴力と、金槌一つで渡り合うガキ。
舐めるわけにはいかない。羽白田の獣の勘が、彼にそう告げていた。
「組長! ヤりましたね!」
「おう、柴か。ヤッてねえよ」
息を切らしながら駆け寄ってくる柴を見もせず、羽白田はそう返す。柴はギクリとし、その場に立ち止まった。
「柴よお、他の組員どもならともかく、お前は俺の懐刀だ。簡単にくたばらせるわけにゃあいかねえ。だから離れてろ」
瞬間、空気が変わる。
寂れた商店街が、血と硝煙の臭い立ち込める戦場の雰囲気をまとい始める。柴の眼鏡がわずかにずり落ち、羽白田の口元が獣じみて歪む。わずかに離れた場所から様子をうかがっていた黒尽くめの男が、楽しげに口笛を吹いた。
宮脇金物店の薄暗い店の奥から、それは現れた。
◇
キナコは宮脇金物店の入り口に立ち、大きく息を吐いた。血だらけの制服、傷だらけの体。だが口元には笑みを浮かべ、見開いた目には光――完全に目覚めた者だけが宿せる光が輝いていた。
(キナコちゃん、大丈夫?)
「うん、平気だよ。心配してくれてありがとう祥子ちゃん」
嘘ではなかった。先程までの全身の痛みが、今は嘘のように引いていた。頭の中もスッキリしていた。もう、迷う必要などない。キナコの前には、自分が進むべき道がはっきりと示されていた。
後は、その道に立ちふさがる邪魔者を排除するだけだ。
「おうおう、元気そうじゃねえかクソガキぃ……なんだお前、そりゃあなんのつもりだ?」
羽白田の視線が、キナコの左手に注がれていた。
「二刀流です」
キナコは不敵に言い放つ。彼女の右手には、友人の命を奪った思い出の金槌。そして左手には、もう一本の金槌が握られていた。歴史ある宮脇金物店の奥に眠っていた、職人お手製の逸品だ。
「すみません、しばらくお借りしますね。必ずお返ししますから」
「あ~? ああ、郵便局なら、この道を真っすぐ行って、突き当りを右だよ」
「ありがとうございます!」
耳の遠い店主の老婆に感謝を告げた瞬間、キナコは駆けた。柴の目には、キナコが突然消え去ったようにしか見えなかった。先ほどの黒い男を思い出し、柴の背中が粟立つ。
「見えてんだよお!」
羽白田は、己の右前方に拳を振るった。路地に突風を巻き起こすその拳は、だが何もとらえずに空を切った。
羽白田の横を影が、キナコが奔った。
「舐めんなあ!」
羽白田は続けざまに拳を振るう。蹴りを放つ。そのことごとくが、疾走する影に全く追いつかない。
「な……!」
見えている。見えていた。さっきまでは。だが。
影が奔る。
羽白田の額を、一筋の汗が流れる。汗は頬をたどり、やがて一粒の雫となって、羽白田の顔を離れ。
影が奔る。羽白田の側頭部に、単車でもぶつけられたかのような重い衝撃。思わずよろける。衝撃が来た方向に向かって拳を振るう。空を切る。影が奔る。続いて腹部、肝臓への一撃。羽白田の体がくの字に曲がる。影が奔る。奔る。奔る。羽白田には見えない。何も見えない。とらえられない。羽白田の全身を衝撃が襲う。首筋、膝、鎖骨、鳩尾、脛、耳、肘。そして顎への一撃。羽白田はまともに食らうと、地面に片膝をついた。
一粒の雫が、地面へとたどり着く。
羽白田は地面を見つめていた。その地面が、少しずつ赤く染まっていく。そう気づいた瞬間、羽白田の目と鼻と口から大量の血がこぼれだした。
信じられねえ。羽白田は小声でそうつぶやく。信じられねえ。なんなんだコイツは。さっきまでの奴じゃねえ。速さが段違いだ。まさか、二本目の金槌持っただけで、こうなったってのか? なんだそりゃ? いやいやおかしいだろ。なんで金槌握っただけで、そんなことができるように――。
地面を見続ける羽白田の視界に靴が現れた。少々薄汚れた、いたって「ふつう」の靴だった。
羽白田の心に、久しく忘れていた感情が生まれていた。その感情は彼がほんの子供の頃、彼が動けなくなるまで酒瓶で殴りつけてくる実の父親に対して抱いたものと、ほとんど同種のものだった。
恐怖。
そのことに気がついた羽白田の心に、怒りの炎がたぎる。
思い知らせてやる。
そうやって彼をいたぶっていた父親が、最終的に彼の手によってどういう運命をたどったか――それを、じっくりとテメエの体に教育してやる。
羽白田の顔が嗜虐の笑みに歪む。羽白田は顔を上げ、キナコを見た。
そこにあったのはなんの特徴もない、「ふつう」の女子高生の顔だった。
「ぶっころ――」
羽白田の顔に、六発の衝撃が同時に叩き込まれた。羽白田は白目をむくと、痙攣しながら地面に倒れ込みそうになり――すんでのところで両手をつき、倒れ込むことを防ぐ。
「ごりぇえおわあ!」
奇声を上げ、羽白田は立ち上がる。立ち上がりざまのアッパーカットは、またもや空を切る。当たらない。どこだ。奴はどこだ。
「こっちですよ」
女の声。反応は即時。右腕。バックナックル。当たらない。いや、拳の先にほんのわずか、毛先ほどの手応え。
かすめた。羽白田の心に歓喜が生まれ――それはすぐに、燃え上がる怒りに塗りつぶされる。この俺が、この羽白田勉が、拳がかすっただけで喜ぶだと。冗談じゃねえ。殺す。絶対にぶっ殺してやる。
「……大体、金槌が二つに増えたぐらいで、なんでテメエはこんな」
「ふふん、それはですね! 私と祥子ちゃんと同じです!」
得意げに鼻を鳴らしながら、キナコは奔る。
「一つだけだと小さい光、だけど二つの光が合わされば、すごく大きな輝きになるんです! 1+1は2じゃないんです! 200になるんです! 十倍ですよ十倍!」
金槌が唸りをあげる。衝撃が脇腹に。どこかの内臓が潰れた感触。
「なんだ……そりゃ。ワケわかんねえぞクソが。そもそもテメエ、金槌でこんなにヤれるんだったら、別にピストルなんかいらねえんじゃねえのか」
「――え?」
キナコの動きが止まった。
「え? ええ? そ、そうなのかな?」
(キ、キナコちゃん!? 悩んでる場合じゃないよ?!)
キナコは立ち止まり、盛んに首をひねっていた。
チャンスだ。
羽白田は吠えた。吠えて踏み込んだ。彼の闘争人生における、最高の速度、最高のタイミング、最高の威力で放たれた右拳が、キナコめがけて飛んだ。キナコはまだ首をひねっていた。かわす素振りすら見せていなかった。
終わりだ。
己の勝ちを確信した羽白田の脳内に、種々の脳内麻薬物質が分泌されていく。視界に映る景色が、ゆっくりと流れはじめる。
あと数センチ。それでテメエの顔はぐちゃぐちゃのミンチに――。
羽白田が伸ばした腕の下方から、超高速で迫るなにかがあった。キナコの意思とは無関係に飛んできたそれの正体に気づき、羽白田の顔が悲しげに歪んだ。
聞くにたえない音がした。
振り上げられたキナコの左手、そこに握りしめられていた金槌が、高く天を指していた。羽白田は数歩後ずさると、情けなく尻餅をついた。
彼の右腕は、肘から先が消失していた。
鈍い音がした。柴が、踏まれたカエルのような声をあげながら倒れた。吹き飛んできた羽白田の腕が、柴の顔面に命中したためであった。
◇
「Splendida……」
黒尽くめの男は、思わずそうつぶやいていた。
アレは素人だ。それは間違いない。所作のすべてがそれを物語っている。だがどうだ? その素人が、おそらくは殺しの才能ただ一つだけで、あれほどの闘争をやってのけたのだ。
「フム……拍手の一つも送ってやりタイところデスが」
男は潜んでいた物陰から、素早く周囲を見回す。寂れた商店街のどこに潜んでいたのか、好奇心にかられた野次馬がぞくぞくと集まってきつつあった。早く到着した者たちはスマホを取り出し、その場の惨状を写真や動画に収めようとしていた。
遠くのほうから、サイレンが聞こえてきた。この国の司法機関にしては遅いほうだが、どちらにせよ悠長に構えていられる時間は残っていなさそうであった。
男は滑るように動きだした。キナコより速く、キナコより静かに。
◇
「……あれ?」
思考の網から抜け出したキナコは、血まみれの羽白田を不思議そうに眺めた。
「い、いつのまにか、組長さんを半殺しにしちゃってたよ祥子ちゃん」
(キナコちゃんってば……結構危なかったんだよ。キナコちゃんの体が組長さんの殺気に反応しなかったら、今ごろは……)
「ひええ、今度から気をつけよう」
ぶるる、と軽く身震いをしてから、キナコは羽白田に近寄っていく。地面に尻をつけたままの羽白田は、青い顔をしながらキナコの顔を見上げていた。
ヤクザである自分が、幼い少女を下から見上げるこの形は、彼にとって屈辱以外の何者でもない。だが、動けない。ダメージと出血はもちろんだが、動けない原因はそれだけではない。
蛇ににらまれた、蛙。
「組長さん」
キナコに呼びかけられ、羽白田の体がギュッとすくむ。
「くれますよね、ピストル」
羽白田は答えない。答えられない。
「くれますよね」
カシャッ、という音が響いた。
キナコが音のしたほうを向くと、そこには高校生らしき制服姿の少年が立っていた。興奮を隠せない表情で、手に持つスマホをキナコに向けている。
「え」
キナコはそこではじめて辺りを見回してみる。全く気づいていなかったが、キナコと羽白田の周囲は、いつのまにか沢山の人に囲まれようとしていた。老いも若きも、男も女も、みなキナコたちを遠巻きに見ながら、手に持つスマホで撮影を試みていた。
「ウソ……」
それは、キナコにとっては信じられない光景であった。
祥子のような「完璧」な人間ならともかく、いたって「ふつう」の自分が、こんなに多くの人から注目を浴びているなんて!
キナコは、自分の体がかすかに震えていることに気づいた。様々な感情が、キナコの内側を駆け巡っていく。
――すごい、すごい、すごい! これ私、今ぜったい「特別」扱いされてるよ! 嬉しい、嬉しすぎる! やっぱ、殺し屋って……サイコーだ!
キナコは金槌を振り上げた。
シャッター音が次々に響いた。
次の瞬間、キナコの意識は暗闇に包まれた。
◇
(キナコちゃん! ねえ、キナコちゃんってば!)
「うーん、むにゃむにゃ。もう食べられないよう……」
(嘘……こんな寝言、本当に言う人いたんだ……じゃなくて、キナコちゃんってば!)
「うひゃあ!?」
キナコは慌てて体を起こした。キナコの体にかけられていた薄いシーツが、その勢いで落ちた。
「……あれ? ここは……どこ?」
そこはキナコの見知らぬ部屋であった。広さはさほどでもなかったが、窮屈さを感じることはなかった。部屋にはほとんど何もなかったからだ。あるのはキナコが寝ているソファと、小さいがあまり薄くないテレビ、それに今にも壊れそうな椅子だけだ。
「ん……この匂い……」
キナコは犬のように鼻をひくつかせた。
(コーヒーの匂いかな)
「オヤ、起きましたカ。気分はドウですかナ」
訛りのある日本語が聞こえてきた。キナコがそちらに顔を向けると、そこには湯気を立てるマグカップを手にした黒づくめの男が立っていた。
「え? えっと……」
答えようとしたキナコの全身に激痛が走る。
「びゃあ?! 痛い痛い痛い!」
「……フム、まあそうでしょうネ。アナタ、あの場で気絶してしまったンデスよ。ガンバリスギて、ガス欠を起こしてしまったんでショウね。それで、ワタシがここまで運んできたというわけデス」
「あ……そうなんですか。その、ありがとうございます」
男は椅子に腰掛けると、コーヒーを不味そうにすすった。そのままマグカップに視線を落とし、キナコには目もくれない。
「……」
「……」
沈黙の時間が過ぎていく。
(キナコちゃん、この人知り合い?)
「いや、全然知らない人だよ」
(外国の人っぽいよね)
「うん……ますます心当たりがないよ……うー、よし!」
キナコはわざとらしい咳払いをすると、男に体ごと向き直った。
「えーと、あの、初めまして……だと思うんですけど、あの、あなた、いったい誰なんでしょう?」
男は答えない。答えずにコーヒーをすするだけだ。
「えーっと、その」
「アナタ、殺し屋になりたいそうデスね。それはどうしてデスか?」
「え?」
男はいつのまにか顔を上げ、虚無そのものの目でキナコを見つめていた。
「どうしてデスか?」
再びの問いかけ。静かな声色であったが、なぜか答えずにはいられない気持ちにさせられる、そんな声であった。
「えっと、その……たぶん、なんですけど……私、殺し屋の才能があると思うんです。だから、せっかくならその才能を活かしたいなー、なんて」
「殺し屋の才能、デスか。そんなものがあると、どうしてわかるんデス?」
「そ、それはですね」
キナコは、今日起こった一連の出来事を男に話して聞かせた。祥子のこと、ピストルのこと、事務所に乗り込んだこと……。
「ああ、そこから先はもういいデス。全部見てましたカラ」
「へ?」
「アナタが事務所に乗り込んですぐ、ワタシもあの場にオジャマしていたんデスよ」
「えー、そうなんですか?! 全然気づかなかった……」
「ダカラわかりマス。アナタには、間違いなく殺しの才能がある」
「え……?」
キナコは驚き、男の目を見つめた。そこにあったのは何も映し出さない、虚無そのものでしかなかった。
だが、キナコにはなぜか、彼が嘘をついているとは思えなかった。というよりも、嘘をついていると思いたくなかった。なぜならその言葉は、キナコがこれまでの人生で求め恋焦がれていたが、先ほどまではほとんど手に入らなかったもの――他者からの承認だったからである。
「ほ、本当……ですか?」
「エエ、間違いなく。ただし、あるのはあくまでも殺しの才能。殺し屋としてはてんでダメダメですネ」
「そ、それはこれから! これから頑張りますんで!」
男の口元が、わずかに歪む。
「殺し屋なんて、ろくな職業ではナイですヨ。陽の当たらぬ場所で、いつも何かに怯えながら暮らすハメになりマス」
「……陽の当たらない、ってことなら、今の私もそう変わらないです」
「ご両親には、ナンと? 娘が殺し屋にナルのを喜ぶ親はいないと思いマスが」
そう問われた瞬間、キナコの顔に深い陰が差した。
「いえ、お父さんも、お母さんも、その、きっと喜んで……くれる、と思います。二人ともいつも、私が『ふつう』でしかないことに悩んでましたし」
それを聞いた男の顔に、始めて表情らしきものが浮かび、すぐに消え去った。
「キナコサン」
「はい?」
「申し遅れましたが、ワタシは『ネロ』といいマス。『組織』の殺し屋です」
「え……えええ?!」
(そ、『組織』の、殺し屋?)
驚きのあまり、酸素不足の魚のように口を動かすキナコ。ネロと名乗った男は、虚無の目のまま淡々と語り続ける。
「先程も言いまシタが、アナタには間違いなく殺しの才能がある。誰も見たことのない、大粒のダイアモンドのような才能が。とは言え、全く磨かれてイナイので、今のところはただの石ころデスが」
ネロはわずかに残ったコーヒーを飲み干すと、マグカップをキナコに向かって投げた。
マグカップは静かに真っすぐ飛び、キナコの額のど真ん中に命中した。
「い、痛ったあ!?」
「……フム」
反応どころか、何が起こったかすら認識していない様子のキナコを見て、ネロは理解する。
――なるほど。この娘のトリガーは金槌か。何かを引き金に、能力を発揮するタイプ。引き金は言葉であったり、得物であったり、音楽であったりと様々だ。この職業をやっていると、時々お目にかかる手合いである。まあ、ここまで極端な例はなかったが。
「石ころにもほどがありますネエ。それでは首尾よく殺し屋になれタとシテも、ものの五秒で死んデしまうでしょうネ」
「うー、そんなあ」
ネロは立ち上がり、床に転がるマグカップを拾う。見るものが見れば、その動きすら微塵の隙もない、洗練されたものだとわかっただろう。
「デスから、アナタをスカウトします。『組織』に入りなさい。『組織』でしっかり鍛えれバ、そう簡単には死ななくなるデショウ。三年もすれバ、一人前の殺し屋になれると思いマスヨ」
「……え? ええー!? い、いいんですか本当に? ぜひ、ぜひおねがいします!」
「すぐには決めにくいデショウから返事は――って、即答しましたネ。よろしい。判断が速いのは大切なことデス。生死に関わりマスからネ」
「わ、さっそくレッスンですね! ありがとうございます!」
ネロは笑った。それは喜びとも悲しみともとれる、不思議な笑みであった。
「ではまず、アナタには死んでもらいマショウかネ」
「……へ?」
◇
「お昼のニュースです。
昨日、S県山中にて遺体で発見された女生徒の、身元が判明したとの警察発表がありました。
発見当時、遺体は損壊が激しく身元の特定が難しい状態でしたが、警察による付近の捜索の結果、身元を特定できる遺留品の発見に至ったとのことです。その結果、遺体は県内の公立高校に通っていた遠山キナコさん(16歳)であることが判明しました。
同高校では先日、校内で別の生徒の遺体が複数発見されるという事件も発生しており、警察ではこれらの件には何らかの関連があるとみて、捜査を進めているとのことです。
それでは次のニュースです。
本日早朝、S市に出没し市民に被害を与えていた野生の鹿が、ついに捕獲されました。この鹿は体高80メートル、失礼しました、体高18メートルあり――」
ブツン。
「フム。これでしばらくは大丈夫デショウ……オヤ、どうしマシタ?」
テレビをオフにしたネロは、横で微妙な顔をしているキナコに声をかけた。キナコからの反応はない。真っ暗になった画面を見つめながら、ときおり「死んでる」とつぶやくばかりだった。
「キナコサン、どうしました?」
「え? あ、えーと、自分が死んでるってニュースを見るの初めてなんで、なんだか不思議な気分になっちゃって。ちょっとボーっとしちゃいました」
「こうやって、他人の死体で死を偽装するのはよくある手口なのですヨ。まあ、この国の警察は優秀ですカラ、そう長くは誤魔化せまセンがネ」
「へー、そうなんですね」
ネロは手に持っていたマグカップをキナコに渡した。ミルクと砂糖たっぷりのコーヒー入りだ。
「ソモソモ、アナタがあんなに派手に動かなけれバ、わざわざこんなコトをする必要はなかっタんですヨ。それを忘れないようニ」
「はい先生! レッスンありがとうございます! しっかり覚えておきます!」
ネロは無表情のまま頭を振る。
数日間、つきあった今ならわかる。楽しそうに目を輝かせ、自分の次の言葉を今か今かと待ち構えているこの「遠山キナコ」という子は、全くもって本人の言う「ふつう」の少女などではなかった。
およそ殺し屋、そして殺し屋予備軍たる連中は、得てしてその瞳に暗い影を宿しているものである。というより、そういった闇が人を「殺し屋」などというモノに成り果てさせるのだと、ネロは今までの人生から確信していた。
ところが、このキナコと言う少女はどうだ。闇どころか、この子の瞳には輝きしか宿っていなかった。夢、希望、未来。そういった、殺し屋なら最初に捨て去っているはずの、魂の輝き。
しかしその輝きとは、つまりは金槌で人をたくさん殴り殺すという夢であり、思う存分金槌で人を殴り殺せるという希望であり、殺し屋になって誰に遠慮することなく金槌で人を殴り殺そうという未来であるわけだ。正直に言って、その精神構造はネロの理解の埒外にあった。
自分は、とんでもないものをこちら側に呼び寄せてしまったのかもしれない。
ネロはもう一度首を振ると、ズボンのポケットを探る。中に入っていた硬貨を取り出し、指で弾いた。
銃弾の速度。キナコの眉間に向かい一直線。
甲高い音がした。
ネロは天井を見上げる。飛ばした硬貨が刺さっていた。ネロはキナコに視線を戻す。キナコは金槌をくるくる回すと、腰に巻いたベルト――ガンベルトならぬ金槌ベルトだ――に器用に戻してみせた。
「……お見事デス。これからもそうやって、金槌を肌見放さず持っておくことを心がけておくようにしなサイ。さて、それでは行きマスよ」
「はい先生! 行き先は『組織』の本部でしたっけ」
「ええ。まずはそこの教習所で、みっちり基礎を叩き込んで差し上げマス。まあアナタほどの才能があれば、半年もすれば殺しの免許証は手に入るでしょう」
その言葉を聞いたキナコの瞳が、輝きを増していく。
「殺しの……ライセンス! それを手に入れたら私、ついに殺し屋になれるってわけですね! よーし、やるぞ! ファイトだ私!」
(がんばってねキナコちゃん。私も応援するよ)
ガッツポーズをしてはしゃぐキナコ。
「フム。ひとつ、大事なコトを忘れていましタ」
「え? な、なんですか?」
驚くキナコを指差しながら、ネロは淡々と告げる。
「いいですカ。先ほどのニュースでもあったとおり、『遠山キナコ』という人間はもう死んでしまったのデス。つまり、今のアナタは名無しのfantasma……幽霊デス」
「ん? あれ? そ、そうなんですかね?」
「そうなのデス。しかし、それでは何かと不都合デスから、今日からアナタには別の名前を名乗ってもらいマス。その名前で、殺し屋とシテ新たに生まれ変わるというわけデス」
「へー」
ネロはしばらく思案し、やがて期待の眼差しを向けるキナコに静かに告げる。
「こういうのはいかがデショウ。アナタの本名、『トーヤマキナコ』からいただいた――」
◇
こうして、「遠山キナコ」という少女は死んだ。
キナコが死ぬ前に撮影された写真や動画は、当然のようにネットにシェアされ、ほんのわずかのあいだ世間の話題となった。「金槌を持った少女がヤクザ相手に大立ち回り」という絵面は、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎたので、その真偽に関して様々な意見、憶測、願望、妄想などが噴出し混ざり合い、そして消えていった。
そうこうしているうちに、「遠山キナコ」の名はキナコ自身を離れ、いつのまにか一人歩きを始めていた。「遠山キナコ」は人々の噂となり、ネットのミームとなり、都市伝説となっていった。
「『鬼無子』という名の特徴のない顔の女が、金槌片手に襲いかかってくる」という話は、S県あたりの小学生にはよく知られている。好事家の研究によると、鬼無子の外見には実に32通りものパターンが存在しているのだという。
羽白田は、キナコに完敗したことで極道としての体面を完全に潰された。体面を売る商売であるヤクザにとっては、もはや死に等しい出来事である。だが彼は、唯一残った組員の柴による説得に応じ、生き延びることを選んだ。日本を離れた彼は米国に飛ぶ。そこで彼は自身の暴力と柴の頭脳により、日本にいたとき以上の組織を作り上げるにいたったのであった。「日本から来た片腕ヤクザとその右腕」のコンビは、全米でも最も恐れられる男たちの一角に食い込んだのである。
そして数年後。彼らの組織は、一人の殺し屋に一晩で壊滅させられることとなる。
その殺し屋の名は「マキナ」。「全てを終わらせる者」の名を持つ殺し屋は、たった一本のハンマーでそれをやってのけた――そんなまことしやかな話が、裏社会には伝わっている。
【完】
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