白磁のアイアンメイデン 第3話〈3〉 #白アメ
暗い地の底で、竜はただひたすらに不愉快であった。
もう長いこと不愉快だったせいであろうか、不愉快以外の感情を忘れつつすらあった。いつから不愉快だったかと、竜は己に問う。それは間違いなくあの日あの時――この地に叩き落され、長い永い眠りを余儀なくされた時からだ。竜の脳裏に、忌まわしき仇の姿が浮かんでは消える。
実に不愉快。だが、それももうすぐ終わる。傷も癒えつつある。魔力もほぼ戻った。あと数年も大人しくしていれば――実に不愉快だが――また栄光の日々が戻ってくる。その時こそ、元凶たるあやつへの報仇が叶うだろう。それまでは、この屈辱の日々に甘んじねば。
ああ、不愉快極まる。
もはや何度目かわからなくなるほど繰り返された思考。精神のるつぼの中で煮えたぎる感情は逃げ場なく、折り重なり、混ぜ合わされてより純粋さを増していく。
だがこのとき、頭上からもたらされた違和感が、幾百年かぶりに竜の思考を妨げた。
なんと。信じられないことだが、妾(わらわ)の組んだ術式が破られようとしている。不愉快な。護り手共は一体何をしておる。
――気配が感じられん。まさか、皆食われたとでもいうのか。妾の寝所を護ることすら叶わぬのか。妾の力を分け与えてやったにもかかわらずにか。なんたること。糞の役にも立たぬ者共めが。
そも、解呪などできるものかよ。それはこの妾の特別製ぞ。まあよかろう、せいぜい励むがよいわ。そして無様に灼かれてしまえ。汝の哀れな死に様が、妾の無聊の慰めになるやもしれぬぞ。
だが、竜の期待とは裏腹に、頭上の気配は封印術式が着実に解呪されていく様子を伝えてくる。
は?
なんだ。なんだというのだ。まさか解呪されつつあるのか。そんな馬鹿な。できるはずがなかろう。そもそも何故そのようなことを。もしや、もしや妾を眠りから覚まそうというのか。
阿呆が。不愉快ぞ。大体、そんなことをせずともあと数年待てばこの穴倉から望み通り出てきてやるわ。そして貴様の望み通り貴様を食ってやろう。食らい付くしてやろう、死にたがりめが。だから。今少し――
パシンという音が頭上に響いた。
馬鹿な。
完全に破られた。破りおった。妾の術式を完全に破りおった。
はは。やるではないか。いや大したものだぞ。素晴らしい。
素晴らしく、
不愉快だ。
よかろう。妾が手ずから「褒美」をくれてやろうぞ。
◇ ◇ ◇ ◇
肩口辺りまで雑然と伸びた濃緑色の髪と、ところどころ焼け焦げた子供服。外見だけならまさに「いたいけな少女」と表現すべきであろう。それが額に捻じくれた枝のような二本の角をいだき、不快な色の淀みをまといながら宙に浮く、底知れぬ感情に顔を歪ませた少女でなければ、の話だが。
「ふん」少女が口を開く。「ニンゲンが二匹、それとオートマタか。察するところ、そちらの魔術師が妾の術式を破ったのじゃな?」
少女の――”竜”の視線がヘリヤに向けられる。
「ニンゲンごときが、妾の術式を破るとはのう」
瞬間、ヘリヤの全身に叩きつけられた殺意は、彼を存在の根元から消しとばすがごときものであった。
「――――――――!」
あれは。
喉が干上がり声も出ない。全身からは逆に冷たく粘つく汗が吹き出す。
あれは。あれはまずいものだ。とにかくまずいものだ。逃げろ。使命も、決意も、誇りも、何もかもを放り捨てて逃げろ、逃げろ、逃げろ、今すぐにだ!
「フローレンス」
静かな、だが凛とした力強さに満ちた声が、緊迫した空気を切り裂くように響きわたる。
「魔術師様をお守りなさい」
何の畏れも感じさせぬ確かな足取りで、ベアトリスは”竜”に歩み寄る。
「そしてトカゲの女王様。あなたのお相手はこちらですわ。お間違えなきようにお願いいたします」
両の拳を目の前で打ちつける。響く轟音。同時にスライドした装甲が顔の下半分を覆い隠した。
「さあ、まいりま」「羽虫が不愉快ぞ。去ねい」
五月蝿い虫でも追い払うような腕の一振りが、不可視の衝撃となってベアトリスを吹き飛ばした。子供が飽きて放り投げた人形のように宙を舞うベアトリス。だが空中で姿勢を制御すると、衝撃とともに着地――した瞬間に”竜”めがけて突撃、襲いかかる。
”竜”は何も言わずに腕を振るう。再び襲いかかる不可視の衝撃。先程よりも大きな衝撃がベアトリスを襲った。またもや吹き飛ばされるベアトリス。空中にて姿勢制御、衝撃とともに着地したところまでは先程と全く同じだ。だが今度は駆け出せなかった。
否、駆け出さなかったのだ。代わりにベアトリスは深く長く息を吸い、息を吐く。息を吸い、息を吐く。ベアトリスの体を金色の光が包み、アイス・ブルーの瞳が気高き黄金の色に染まっていく。調息により練られた内功、勁力が体内より溢れ出しているのだ。その姿を眺める”竜”の表情にかすかな好奇の色が浮かぶ。
ベアトリスは再び”竜”に向かって駆け出した。無策に、一直線に。当然、先程同様に不可視の衝撃波がこれを迎撃せんと襲い来る。そのままベアトリスに着弾――するかと思われた瞬間、ベアトリスの体がぶれて歪んだ。そのままベアトリスの体をすり抜けるがごとく、はるか後方で爆風が巻き起こる。
ベアトリスの体がゆがみ、ぶれて映る。左に一人。右に二人。中央に一人。何人ものベアトリスが浮かんでは消え、消えては浮かび、そのまま次第に”竜”へと迫る。”竜”の腕の一振りごとに巻き起こされる衝撃波は、ベアトリスの残像のみを捉え、虚しく爆風を巻き起こすのみ。
薫風(クン・フー)が歩法、蛇(かがち)。不規則に蛇行しながら遠い間合いより相手に迫る技術。これだけでも相対する者には脅威だが、深奥まで極めればまさに幻術としか言いようのない域まで達するという。
これすなわち薫風奥義、蜃気(しんき)なり。
無数の残像と共に突っ込んできたベアトリスは、一気に間合いを詰めると正確に”竜”の顔面に正拳突きを叩き込んだ。
「!」
否。否である。叩き込まれたかに見えた拳は、”竜”の顔面の寸前で妨げられていた。拳と顔の僅かな隙間に浮かび上がる複雑な紋様――防御術式。
「羽虫が。何かと思えばその程度か。かように下らぬ手妻ならば、どこぞの宴ででも披露するが似合いぞ」
「んっ……!?」
音もなく忍び寄ってきた淀みが、ベアトリスの手足を拘束する。
「……っ!」
ベアトリスは力の限り抵抗するも、拘束はその強度を増すのみであった。
「改めて告げる。不愉快ぞ。去ね」
”竜”が大儀そうに腕を振るった。不可視の衝撃が再び、今度は至近距離でベアトリスの体に叩き込まれる。ベアトリスは口から吐瀉物を撒き散らしつつ、壊れた人形のごとく三度(みたび)吹き飛ばされていった。
「ベアトリス!」
思わず大声を出すヘリヤの体がそっと地面に横たえられた。
「ど、どうした」【チチチチチ、チチチ】
フローレンスの顔の光点が明滅する。言葉は全くわからないはずなのだが、何故かヘリヤには彼女の云いたいことがわかった気がした。
――ここで大人しくしていてくださいね。
「おい!」
ヘリヤの声を背に受けて、フローレンスが駆け出す。その両手にはいつの間にか、強大な大槌が握られていた。
【チチチチ】
顔の光点を激しく明滅させながら、フローレンスは女神の刻まれた大槌を肩口に担ぐ。女神の瞳が赤い光に妖しく光る。それと共に大槌の片側が変形、蒼い魔力の光を噴出しだした。フローレンスは大槌を大きく振り回すと、噴出光によって勢いを増した一撃を”竜”の頭上に振り下ろした。
結果は――全く同じ。熟れた果実のように”竜”の頭部を潰すはずの大槌は、輝く術式によって完全に妨げられていた。
「何じゃ貴様。妾に人形遊びの趣味はないぞ」
フローレンスに目もくれず、”竜”はまた腕を振るう。後方から紐で引かれるがごとく吹き飛んだオートマタメイドは霊廟の壁に激突、そのまま突き抜けて建物の外へ消えていく。
間髪入れず、突風のような勢いでベアトリスが襲いかかった。瞬時に放つ無数の連撃。だがその全てが紋様の光壁に阻まれ弾かれる。
「羽虫がまとわりつきおるわ! 不愉快ぞ! 去ね去ね去ねよや!」
”竜”が心底不快そうな声で叫び、これまでにない勢いで腕を振るった。幾重もの衝撃波が嵐となり、ベアトリスに襲いかかる。
ベアトリスは瞬時に息を吸う。直後、襲い来る衝撃波を回避。瞬時に息を吐く。第二の衝撃波も回避。第三、第四、無数に襲い来る衝撃波の荒波、そのことごとくを回避しつつ、超高速の調息を為すベアトリス。
いつしか彼女の体を包む黄金の光に、異なる色彩が混ざり始める。
――それは流れ落ちる血の色に、黄昏時の空の色に、世の遍(あまね)くを呑み込む炎の色に見えた。見たものの目を焼くが如き、緋色の輝き。
金と赤を身にまとったベアトリスは”竜”の周囲を高速旋回、衝撃波をかわし、かわせず、またはかわさず、息もつかせぬ数多の連撃を叩き込まんとする。そこに復帰したフローレンスも加わり、”忌み野の竜”を中心とした色彩の暴風圏を作り出す。”竜”の衝撃波を何度も喰らいつつ、”竜”に幾度も食らいつく。そうして叩き込まれた全ての打撃は、だがことごとく”竜”の結界に阻まれていた。凪に身を置く”竜”の顔に、侮蔑の色が浮かぶ。
――唯一人、蚊帳の外に置かれたヘリヤの心中にも嵐が吹き荒れていた。
【続く】