白磁のアイアンメイデン 第3話〈4〉 #白アメ
――唯一人、蚊帳の外に置かれ力なく地に伏せるヘリヤの心中にも、嵐が吹き荒れていた。 恐怖と絶望と諦念という名の、嵐が。
――私には何もできない。何もできない。できやしない。見ろ、あの凄まじき暴力の嵐を。私に何ができるというのだ。見ろ、情けなく震えて動かない己の足を。地面に横たわったまま、立ち上がることすらままならぬではないか。そんな自分に一体何ができるというのだ?
ヘリヤの視線が下に落ちる。冷たい石造りの床が視界一杯に広がる。
――そんなことはない。
できることはある。為すべきことはある。そして今は為すべきときであり、私にはそれを為すべき力があり、為すべき理由もある。ならば何を迷うことがある。見ろ、激しい闘争のように見えてその実、”忌み野の竜”には指一本届いていない。傷一つついていない。あの防御術式。”竜”の寝所を封印していたものと同系統、いや、更に強力なものと見える。それを幾重にも幾重にも張り巡らせているのだ。あのままでは、何百何千という打撃を叩き込んだとしても一切が無為に終わるだろう。このままではダメだ。ダメなのだ。ならばどうする。
――決まっている。あの術式を、ほどけばいいのだ。先程私がしたように。
だがそのためには、私があそこへ、あの暴虐の嵐の中へ、踏み込まねばならない。できるのか、この私に。脅威に抗う技も、脅威を防ぐすべも持たぬ私に。
――できるわけがない。
ひときわ激しい打撃音が響き、ヘリヤはびくりと体を震わせた。顔をあげる。視界に入ってきたのは、相も変わらず憮然とした顔で浮遊する”竜”、その”竜”から距離を取る――否、取らざるを得ないベアトリスとフローレンスの姿。
ベアトリスは肩で息をしていた。体にまとう金と赤の光は彼女のいまだ折れぬ闘志を象徴しているかのように輝いてはいたが、それすらも時折おぼろげに揺らいでいた。
誰が見てもわかる――もはや時間の問題だ、と。
だが。
ヘリヤは思う。だが彼女は、ベアトリスは諦めないだろう。出会って一日程度でしかない相手だが、確信をもって断言できる。何が彼女をそうさせるのかは知らないが、彼女は闘い続けるだろう。最後まで――最期まで。
ヘリヤは歯を食いしばった。軋む音がかすかに響いた。
「――もう終いか、女」
”竜”が玩具に興味を失った子供のような口調でベアトリスに問いかける。
「妾(わらわ)もそろそろ飽いてきたぞ。これ以上余興の種が無いのであれば、そろそろこの下らぬ戯れを締めくくりたいのじゃが」
「あらあら、”竜”ともあろう者がずいぶんと堪え性のないことですわね」
ベアトリスが挑発ともとれる言い回しにて応じる。これまでならばその物言いは彼女の、何者にも怖じない大胆不敵さの現れだったろう。だが今は、哀れな負け犬の遠吠えにしか聞こえぬ台詞だ。
故に”竜”は取り合わず、ただただ一笑に付したのみであった。
「口が回れど」”竜”がゆるりと両腕を胸の前で交差させると、周囲の淀みが――不浄の魔力が――”竜”の小さな体に吸われていく。「策はなし、か」
”竜”が勢いよく両腕を広げた。
刹那、竜を爆心として不可視の力が荒れ狂った。力は嵐となり、波濤となり、猛威となり、全てをなぎ倒し、消し飛ばす。
――鏖殺の風が去った後には、円状の無が広がっていた。
寝所を覆うように建てられた霊廟も、それを守るために築かれた要塞のおよそ半分も、”竜”を中心として綺麗に消し飛んでいた。
その中で、骸のように横たわるベアトリスと、ヘリヤを護るように抱きかかえてうずくまるフローレンスだけが形を保っていた。
「これで終いぞ」
”竜”が独りごちた。
何者も、それには応えなかった。
もう何度目かの、フローレンスの腕の中。ヘリヤの目の前には、うつむく彼女の顔があった。目鼻の代わりにある六つの光点が、弱々しく明滅する。
ずるりと、フローレンスの上半身が傾く。その後背部は醜く炭化し、所々から煙を上げていた。
ヘリヤは奥歯が欠けるほどの力で歯を食いしばっていた。彼の心中で、再び感情が暴れ始める。
ヘリヤ、魔術師ヘリヤ! アカデミーの誇る、百年に一人の天才!
何を、している! 今が! 「為すべきとき」だろう!
――だが彼の足は、恐怖に震えて動かなかった。ヘリヤの視界がじわじわと歪む。溢れた感情が床にこぼれ落ち、黒いシミを作った。
その歪んだ視界に、ゆっくりと、力無く、動くものの姿が映る。
それは、産まれたての仔馬のように弱弱しく立ち上がると、たどたどしく左手を前に突き出し、ぎこちなく右手を後ろに引き、そこでわずかによろめいたがそれでも崩れず、構えを――戦(いくさ)の構えを、とった。
ああ。やはりか。やはりそうするのか。
そう思った瞬間、ヘリヤの心にかすかな決意が宿った。それは嵐の前の小さな灯火に過ぎなかったが、しかし何者にも消せない炎でもあった。
ヘリヤは己にもたれかかるフローレンスの体を優しく脇にどけると、虫のようにゆっくり地面を這いずり始めた。弱々しく、だが決してとどまることなく、まっすぐに進む。”竜”に向かって。
死ぬかもしれんな。狂ったかヘリヤ? ヘリヤの僅かに残った冷静な部分が己に語りかけてくる。
まさか。ヘリヤは口角を微かに上げながら進む。
狂ってなどいるものか。ただ、見てしまったのだ。あの姿を。
圧倒的な暴力を前に打ちのめされ、それでも立ち上がるあの姿を。
前に進む理由としては、十分じゃあないか?
ベアトリスは視線を落としたまま静かに深く息を吸い、息を吐く。息を吸い、息を吐く。内功が経絡を巡り、増幅され、彼女の四肢に満ちていく。
やがて身に収まりきらなくなった”気”は、染み出すように彼女の周りを漂い出す。美しき金色の光。その裏に”竜殺し”の威力を秘めた、超常の力。
ベアトリスは深く息を吸い、息を吐く。繰り返される調息は、彼女の気功をより高純度に、高濃度に練り上げていく。柔らかな金の光に、ところどころ異質な輝きが混じり始める。
見るものの目を焼く、赤。真紅の輝き。
ベアトリスが一呼吸するたびに、真紅が金色を食らいつくすようにその比率を増していく。黄金の光りに包まれた戦乙女のような姿が、煉獄の炎を身にまとう戦鬼のごとくに変貌していく。
ベアトリスが顔を上げ、まっすぐに”竜”を見据えた。その瞳は、身にまとう光と同じ赤に染まっていた。
「残念ながらお終いには程遠いですわ、トカゲの女王様。勘違いなさっては困ります。ああ、お脳のほうもトカゲさん並みなので仕方がないのでしょうかしら?」
ベアトリスが挑発を投げる。
「くだらん」
帰ってきたのは、心底からの侮蔑を込めた言葉だった。
「くだらん。実にくだらん。相手するだけ無駄じゃ。疾く疾く去ね」
「そうは参りませんわ」
「――ッ、この、痴れ者があッ!」
”竜”が吠えた。”忌み野”の大気が、畏れに震える。
「そも、貴様は何なのだ! 妾(わらわ)の寝所を土足で踏み荒らし! 妾が血を分けた眷属共を手に掛け! あまつさえ妾自身に牙をむく! 妾は”竜”、”五色(ごしき)の竜”が一(いち)ぞ! 無礼無礼! 無礼千万! 程があろうというものぞ!」
「わたくしは」
ベアトリスが応じた。身にまとう炎の輝きには似つかわしくない、凍てつくような声音であった。
「わたくしは、あなたに、いえ、あなたがたに奪われたものを取り返しに参ったのです」
【続く】
そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ