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白磁のアイアンメイデン 第2話〈1〉#白アメ
王都より南西の彼方、大河を越えた先に広がる不毛の大地、ラシュ平原。人はありったけの嫌悪を込めて、そこを”忌み野”と呼ぶ。
呼び名の由来を知りたければ、そこに一歩足を踏み入れてみれば良い。穢れ乾いた大地、虚空に捻れた枝を伸ばす木々、闊歩する魔の眷属。空だけは青々と広がっているが、その青さすらこの地では不吉の象徴のように感じられてしまう。好き好んで訪(おとな)う者などあろうものか。もしあれば、異論無く真っ当な事情の持ち主ではない。
そんな”忌み野”を、二頭の荒馬――実際には、馬型のオートマタである――に牽かれた四輪馬車が疾走していた。
帝都を巡回する十人乗りの乗合馬車ほどの大きさ。箱型の車体はいかなる材質なのか、白く輝く金属にて構成されている。側面の下半分を金色と蒼の文様が豪奢に飾り、その上に大きな飾り窓がせり出していた。
帝都の、かつ比較的裕福な者たちが愛用するような代物であった。なればこそ、この”忌み野”では不自然極まりない。そんな馬車の中に設えられたテーブルセットに腰を掛け、魔術師へリヤは何杯目かの紅茶を口にしていた。
「こんなもの、どこに隠してあったのだ」
窓の外、後方に流れていく”忌み野”を眺めつつ、ヘリヤはつぶやく。この速度にしては揺れを感じないのは、なんでも車輪に衝撃を吸収する特殊な機構が施されているからだそうだ。手に持つ紅茶もほとんど波立たない。
「こんなもの、とは」
答えたのは、この馬車の主にしてヘリヤの同行者である若き女性。名を、ベアトリス・スカーホワイトという。
「決まっているだろう、この馬車のことだ」
呆れたような口調で応じながら、ヘリヤは馬車の内装を見回した。簡易ながら、決して質素ではない寝台。ドレッサーらしき、人の背丈ほどもある戸棚。御者とやり取りをするための伝声管。そして紅茶用のテーブル。
決して広くはない馬車の中に、使用者の圧迫感を極力まで廃するよう計算された絶妙な配置。細かい調度品は、見るものが見れば施された細工の見事さに嘆息するだろうという代物。馬車の主の趣味と品性の良さをさりげなく主張していた。
そのあたりに疎いヘリヤには、「よくわからないが、値が張るものなのだろう」くらいの感想しか湧いてこなかったが。
「素敵な馬車でしょう? お気に入りですのよ」
ベアトリスは軽い微笑みを投げながら、そばに控えるオートマタのメイド、フローレンスに紅茶のおかわりを命じる。
ヘリヤは軽く首を左右に振りながら、先刻のことを思い出す。
同行の話がまとまり、ヘリヤが地図上のある一点を”忌み野の竜”の眠る場所――それは、今の位置からさらに南東、ハンク王国と隣国ジグランの国境にほど近い場所、その国境にそびえ立つバナニル山脈の麓であった――として示したとき、ベアトリスが口にしたのは「歩くには遠いですわね」の一言であった。
ピクニックの行き先を決めているような言い様に、ヘリヤは軽く頭を抱えたが、「では、馬車を用意いたします」とアルフレッド、オートマタ執事が言い出したときには、自分の耳に思わず『幻術破り』を掛けてしまった。反応は無論なかった。
だがむしろ、『幻術破り』を唱えるべきは、その後だったのだろう。
アルフレッドが、どこからか口笛のような甲高い音を発した。音が”忌み野”に響き渡った後、地平線の彼方、荒れ果てた荒野の奥より響き渡る蹄の音が一行に迫ってきた。
聞くものを威圧する重苦しいリズムを奏でるそれが、二頭の馬型オートマタに牽かれた四輪馬車であると認識したヘリヤの顔は、ベアトリスが微笑と共に語ったところによると「筆舌に尽くし難い」ものであり、「人の顔があれほどまでに変形するとは、寡聞にして知りませんでしたわ」だったそうだ。
そして今、その馬車に乗り込んで、馬車の主と共にこうして紅茶を嗜んでいる。この速さならば、目的地にたどり着くのは半日ほど後、もう日も沈む頃か。
それにしても、向かうはこの地の王、恐るべき”忌み野の竜”が長き眠りを貪る場所だというのに、ずいぶんとのんきなものだ。ましてや、彼女らがやろうとしていることは、その”忌み野の竜”を叩き起こして、「打ち倒して、平伏させて、足で踏んで」やることらしいのに。
ベアトリスは笑う。
「隠し場所など、どこにでもあるものです。魅力的なレディーには、秘密がつきものですのよ。例えばこんな風に」
言いながら彼女は自分の胸元、ドレスで豊かに強調されている胸の谷間に指を突っ込んだ。
ヘリヤは飲んでいた紅茶を吹き出しつつ、真っ赤な顔で視線を逸らす。
「な、なにを、なにをやって、いるんだ!」
それには答えず、しばらくゴソゴソと胸元を探っていたベアトリスが取り出したものは、棒状の物体であった。長さは人の手のひらほど、形は何かの鍵のようにも見える。馬車の外装に似た白い光を放ち、何かの紋様らしきものと、古代文字が刻まれていた。
ヘリヤの知識は、その文字が意味するところをすぐに理解させる。曰く、『断罪の白き女神、斯界の裏側にて牙を研ぎつつ汝を待つ』。
「なんだ、それは」
「これは、切り札ですわ」言いながらベアトリスは再びそれを元の場所に戻す。ヘリヤも再び顔を赤くして目を逸らす。
「できれば使いたくないのですが、なにせ相手は”忌み野の竜”。恐るべき相手です。万全の備えが必要でしょう」
意外な言葉は、ヘリヤを少々驚かせた。
「随分と謙虚な物言いだな。踏んでやるのではなかったのか」
「ええ必ず、必ず踏んでさし上げます」
そこまでの決意か。
「ですが、それと相手を過小評価することはまた別ですわ。<遥けき東(ファー・イースト)>の戦名人、その孫が祖父の言行をまとめたという書の一節に、こういうものがあります。『敵と己の双方に関して十分な知識をもち、彼我の戦力を客観的に見ることができれば、たとえ百回戦おうとも一度たりとも負けはない』と」
ベアトリスは二本の指を立てる。
「実際に彼は、二千の寡兵で十倍以上の敵を打ち倒したそうですわ。そういう方の警句には、聞くべきものが多々あると思っておりますの」
ヘリヤが何かを言いかけたその時、馬車が突如大きく加速した。今までは殆ど感じなかった揺れが、嵐の中の小舟のように激しくなる。馬車内の空気が一変する。ヘリヤが飲んでいた紅茶をこぼす。
『お嬢様』伝声管よりアルフレッド――今は御者としてこの馬車の手綱を取っている――の淡々とした声が響く。『追手です。二十騎、いや三十騎。更に増えています』
ヘリヤは慌てて立ち上がると、床にこぼれた紅茶を拭くフローレンスを横目に見ながら、馬車の側面の窓を開け、顔を出した。吹き付ける”忌み野”の昏き風。
そこには、息を呑む光景が広がりつつあった。
一見したそれは、うねるように迫る漆黒の怒涛であった。だが、荒れ地に波濤が迫りくることなどあろうか。無論、否である。目を凝らす。波を構成するそれらは、黒き魔獣。そして魔獣を駆るリザードマン。
農夫の飼う豚に似たその獣は、黒い硬質の毛皮と暗緑色に濁る瞳を持つ、「黒獣(ブラック・サバウス)」なる生物だ。
黒獣は妖しく光る眼光の筋を空中に残しながら、馬車めがけて駆けに駆ける。それにまたがるリザードマンは、先程の連中よりは軽装。なれど、手に手に槍めいた得物を持っていた。
ヘリヤがそれに気づいた瞬間、先頭のリザードマンが、その槍を高く掲げた。持ち手に満ちる膂力。そのまま馬車めがけて投擲する!
ヘリヤは慌てて顔を馬車の中に引っ込める。大気を裂き、先程までヘリヤの顔があった地点を通過する投槍。その一投を合図に、リザードマン達が一斉に手に持つ得物を投げ放つ。
幾つかは目標を外れ、幾つかは馬車の後方に突き刺さる。槍の穂先から返しが飛び出し、馬車の外壁に食い込んだ。見れば、その槍には強靭な綱が結ばれており、それらはリザードマン達の手にしっかりと握られていた。
リザードマンが一斉に綱を引く。思わぬ後方への引力に、それまで目的地へ一直線に伸びていた轍(わだち)が蛇のように揺らぎだす。
「まずいんじゃないのか!?」
床に尻餅をついたまま、ヘリヤが叫ぶ。
「アルフレッド!」
それには答えず、ベアトリスは御者席のアルフレッドに、伝声管を通じて話しかける。「いかがかしら?」
『問題はありません。このまま引きずって行っても構いませんが』
相も変わらず淡々とした声でアルフレッドが答えを返す。
『あまり気分のいいものではありませんな。それに』
「それに?」
『おそらくこの一党を率いているのは新たなドラゴニュートでしょうが、それらしき反応がありません。おそらく今の攻撃は囮。本命は何処かに潜む彼奴が直接乗り込んでくることではないでしょうか』
ベアトリスはそれを聞いて瞳を閉じ、ほんの一瞬思考を走らせる。再び目を見開いたそのとき、彼女の瞳には為すべきことへの意志が宿っていた。
「フローレンス! お供なさい」【チチチチチ】床を拭いていたメイドが、主人の命により立ち上がる。目鼻の代わりに顔に並ぶ六つの光点が、目まぐるしく明滅する。
「何処へ行くんだ!」
叫んだヘリヤを一瞥し、ベアトリスは答えた。
「ええ、不調法なお客人をもてなしに参りますわ。無論、相応しきお作法で」
【続く】
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