竜弓よ、冬枯れを穿て
「いい子にしないと、冬枯れが来ますよ」
~マイネリア古王国に伝わる、子を叱るための言葉~
◇
「来たぞ。距離約2000メール。予定通りぞ」
遠眼鏡に目を当てながらそう告げるデン=ガンの声が、わずかに震えていた。”草笛”は応えず、かわりにデン=ガンの髭面をちらりと見た。
「……なんじゃい」
「いや、珍しく緊張しているじゃないか、などと思ってね。そういえば先日の酒宴で、『ワシらドワーフの腹は豪胆さで満ち満ちておるので、こうもふくらんでおるのよ』などと言っていたのは、一体どこの誰だったか」
デン=ガンは鼻を鳴らす。
「……この期に及んで嫌味とは、さすがは誇り高き”草笛”様じゃのう。ま、そういうお前さんとて、ワシに負けず劣らず緊張しておるようじゃがの」
「この”草笛”が? まさか」
「お主の長耳、さきほどからぴくぴくと、よく動いておる。気づいておらなんだか?」
”草笛”は慌てて耳に手をやる。緊張するとそうなってしまうのは、確かに彼の幼い頃からの癖ではあった。
「……なぜ、知っているんだ」
「いやなに、以前お主の嫁さんと、お主を話題に盛り上がったことがあってな。そのときに色々とご教授いただいたのよ。ふふ、酒の肴としてはなかなか良いもんじゃったわい」
”草笛”は目を閉じ、首を振った。美しい銀髪が揺れ、光を照り返す。なんということだ。彼女には今度、きつく戒めておかねばなるまい――"草笛"は、盛大に溜息をついた。つき終わると今度は、深く深く息を吸い込む。二度、三度、繰り返す。
己の心身が狩人のそれに変じたのを確かめると、”草笛”は静かに目を開け、目の前で鈍い光を放つ『弓』を見上げた。
それは確かに『弓』ではあった。だが、尋常の『弓』ではなかった。
まず、大きさが規格外であった。全長5メール半。それが地面と水平の形で頑健な台座に支えられている。この大きさでは、手で持ち、弦を引くことなど、オーガや巨人族でなければ叶わぬだろう。そしてオーガや巨人族は、この王国ではとうの昔に滅び去っていた。
高さ2メールほどある台座は、数人乗りの船程度の大きさの土台に支えられていた。土台にはその他にも、射手用の椅子、そして様々な形や大きさのハンドルやレバーなどが備え付けられていた。
黒光りする素材は、火竜の骨をガリア鋼に溶かし込んだもの――竜鋼であった。大剣を振り下ろしても傷一つつかぬ強靭さを誇る、幻の素材である。そんなものを使って、これほどのものを造り上げたデン=ガンらドワーフの手腕は、”草笛”には想像も及ばぬものであった。
『咆吼(シャウト)』――2000メールの彼方から標的を射抜く、機械じかけの『弓』である。
「まあ、緊張するのも道理というものじゃ。実際に目にしてようわかった。何と恐ろしい……まさに、歩く厄災じゃな」
そう言ってデン=ガンが手渡してきた遠眼鏡に目を当て、”草笛”は2000メールの彼方――そこにいる彼らの獲物を見た。
それは、エルフの女の姿をしているように見えた。だが同時に、湖上に立つ霧のように見えた。闇夜に頼りなく輝く灯火のようにも見えた。現のようにも、幻のようにも見えた。
純白の髪を地面近くまで伸ばし、白い衣を身にまといながら、女は一歩一歩、地面の感触を確かめるような緩やかな歩調で歩んでいた。何もかもが白い女の首元で、ただ一点、血のように紅い石をはめ込んだ首飾りが揺れていた。
「……あの石がそうか」
「じゃな。ノイラートめの話を信じるならば、あれこそがあやつの力の源。ワシらが射抜くべき、標的っちゅうわけじゃの」
女はゆるゆると歩を進める。そのたび、周囲の空間がかすかに揺らぐ。
ここはミュンスター平原。春も半ばのこの季節、大地は花が咲き緑あふれ、あらゆる命に満ち満ちていた。だがその女の周囲では――何もかもが死んでいた。
ぼんやりと白く染まる球状の空間が、女を中心として広がっていた。”草笛”は目を凝らし、女の歩んだ地面、そこに描かれた白い線を見た。”草笛”の眉間に、深いしわが刻まれる。白色の正体は灰である。草が、花が枯れ、白い灰と化しているのだ。
一羽の鳥がどこからともなく飛んできた。女の上を横切ろうとして、白い球体に侵入する。途端に、鳥は二、三度体を痙攣させる。鳥の全身が、白く染められていく。羽がもげる。墜ちていく。鳥は地に落ちる前に白い灰となり、風に散らされていった。”草笛"は、思わず息を呑んだ。
女はそんな鳥のことなどまるで意に介さぬ風に、ただひたすらに歩を進めていく。
「”冬枯れ”……か。まさに、だな」
ここより南西の彼方、クレーヴェの森より突如現れた白い災厄――”冬枯れ"と名付けられた女は、二ヶ月もの間ひたすら歩みを止めること無く、途上にあった樹を、草を、花を、魚を、獣を、鳥を、人を、そしてふたつの村をことごとく枯らしつくし――とうとう、あと数日で王都にたどり着かんとするところまで至っていた。
すなわち、ここで止めなければ、後がないということだ。
「やるぞ」
「応よ」
”草笛”は備え付けられたはしごを登り、『咆哮』の台座に腰を下ろす。弓に備え付けられた照準を覗き込む。照準は遠眼鏡と同じ仕組みで作られている。2000メール彼方の”冬枯れ”の歩みが、”草笛”には手にとるようにわかった。
「……左に12度、上に18度だ」
「了解じゃ――ほいさっと」
デン=ガンが慣れた手付きでハンドルやレバーを動かすと、『咆哮』がきしむような音を立てながら動きだす。照準の中の”冬枯れ”がすこしずつ位置を変えていく。
「あと2度、右だ……やはりうるさいな。やつに気づかれないだろうか」
「この距離じゃ、その心配はいるまい……なんじゃなんじゃ、やけにビビっとるのう。お主らしくもない」
「いつにもまして慎重になっている、といってほしいね。なにせ、ここで我々がしくじれば、伝統ある王国が一つ滅びかねないときてる」
「こりゃ驚いた。お主、『ヒトどもの王国なんぞ、たとえ滅んだとしても構うものか』などと言っておったではないか」
「……忘れてくれ」
デン=ガンは作業の手を止めぬまま、髭まみれの顔に笑みを浮かべた。
「そうじゃなあ。ことが終わった後、お主のおごりで浴びるほど飲ませてくれりゃあ、すっかり忘れられるかもしれんて」
「……善処しよう」
”草笛”は土台に備え付けられたレバーの一本を手に取ると、慎重に引いた。『咆哮』が、かすかに振動を始めた。仕掛けが動きだし、巨大な弓にはられた弦が静かに引かれていく。”草笛”は、レバーの先端に備え付けられた引鉄に手をかけた。
照準の中央に、”冬枯れ”がとらえられる。そのとき、軽い衝撃が”草笛”の身に響いた。火竜の髭にて編まれた弦が、目一杯に引かれたのだ。”草笛”はくちびるを舐める。
「もう3度、上に頼む」
「ほいよ。どうじゃ、いけそうかの?」
「もう少しだ。左に2度」
そう言った矢先のことである。”草笛"は、標的の女に向かい行軍してくる兵士たちの一群を見てとった。
「……なんだ、あいつらは」
デン=ガンも作業の手を止め、遠眼鏡を覗き込む。デン=ガンの口から、むむう、という唸り声が漏れ出る。
「……装備は、王国兵のものっぽいがのう……む、あの旗の紋章には覚えがあるぞい」
「どこの馬鹿だ」
「確か、ゲオルグ……とかいう貴族のものではなかったか」
「聞き覚えがある。前にノイラートの奴が言っていた……決して無能ではないが、貴族の誇りとやらを至上のものとし、それを守るためには命すら惜しまない……そういう意味で、極め付きの大馬鹿者だということだ」
「その大馬鹿貴族様が、軍隊引き連れてなにしにやってきたんじゃ」
”草笛"は鼻を鳴らした。彼にはゲオルグとやらの考えていることが、手に取るようにわかった。なぜなら、彼もほんの少し前までは、プライドのためならば命を惜しむつもりはない、などと考えていたからである。
思えば、この”草笛”も変わったものだ。彼の顔に微苦笑が浮かぶ。
「おおかた、『国家の一大事を、卑しき白エルフやドワーフなどの手に委ねてなどいられぬ。王国の危急は、王国の者の手でこそ解決されるべし!』なんてことを考えているのだろう」
「ワシらとて、『王国の者』なんじゃがのう……それにしてもなんじゃな、この策に反対する輩どもはノイラートめが抑えこんでいる、そう聞いておったんじゃがの」
「抑えきれなかった……いや案外、わざと抑えなかったのかもしれないな」
「なんじゃと」
”草笛"はノイラートの顔を思い浮かべる。禿頭、太い眉、大きく見開かれた目、固く結ばれた唇、眉間に走る一本の傷……まさしく歴戦の軍司令官、という風貌である。だがその実、彼が王国で宰相の重責につくのは、華々しい軍歴のためでも、ましてや風貌のためなどではない。その頭脳――よく切れる、いやむしろ切れすぎる、と評される――のためなのである。
「いい機会、とでも思ったんじゃないか。無能ではないが邪魔な男に、気持ちよくご退場していただくための」
二人の視線の先では、派手な鎧を身にまとった男――兜で顔は見えないが、おそらくあれがゲオルグとやらなのだろう――が、手に持つ剣を大げさに振り回していた。それを合図に、軍隊の動きが激しくなる。
整列した弓隊が、一糸乱れず前へと進み出た。軍隊などにはまるで縁のない”草笛”にすら、その練度の高さがうかがえる動きである。
ゲオルグが、高々と掲げた剣を振り下ろす。弓兵たちから放たれた矢が、横殴りの雨のように”冬枯れ”に襲いかかった。
”冬枯れ”は――何もしなかった。ただ、静かに歩をすすめるだけであった。
冬枯れを包む世界に触れた途端、数百本と放たれた矢が全て朽ち果て、白い灰と化していく。鉄製のやじりも、木製のシャフトも、矢羽も、なにもかも。
「おお……鍛えた鉄さえも、一瞬で朽ちさせてしまいおる。何度見ても信じられん……さて、不朽たる竜の鋼、本当に通用するんじゃろうか」
「どうだろうな」
「おいおい。お主、今さらそんな」
「そう、何を今さら、だ。ことここに至っては、たとえ怪しげな伝説でも信用するしかないということだよデン=ガン。それともなにか? 我らが竜退治の艱難辛苦を、無為のものだったと貶めたいのか? そうではあるまい」
「むう」
ゲオルグの挙動が、一層激しくなっていく。重装に身を包んだ騎兵たちが戦列を組み、突撃態勢を取る。だが先程までと違い、軍団には明らかな動揺が見て取れた。足並みは揃わず、馬たちは天に向かっていななく。その興奮と恐懼が、”草笛”たちにも伝わってくるようだった。
「いかんいかん。あの馬鹿貴族、ちょっかいをかけるに飽き足らず、大事な部下をみすみす死地に飛び込ませるつもりじゃぞ」
「だから言っただろう。誇りを守るために、命を惜しまない男らしい……とね。そんな奴は大抵の場合、そういった信条は自らのみでなく他者も尊重してしかるべきだ、と思いこんでいるものなのだ」
「……なるほど、底抜けの馬鹿じゃな。だがつきあわされる部下は溜まったものではあるまい。”草笛”よ、まだか。まだ撃てんのか」
無謀な突撃を敢行した挙げ句、馬もろとも灰と化していく騎兵たちを見ながら、デン=ガンが焦れたように促す。それには応えず、”草笛”は慎重に微調整を進めていく。内心の憤りを押し殺しながら――狩人に必要なものは、熱くたぎる熱情ではない。凪いだ湖面のごとき、冷静にて沈着たる心。そう自分に言い聞かせながら。
「……デン=ガン。集中しろ。右に5度」
「む。わかっとるわい」
『咆哮』がわずかな唸りを上げ、獲物を狙う竜のごとく、その鼻先を”冬枯れ”へと向けていく。遥か2000メール先では、配下の騎兵をことごとく失ったゲオルグが、生き残った兵を道連れに決死の突撃を行わんとしていた。
『咆哮』が動きを止めた。標的を見据える”草笛”の目に、引き金に添えた手に、決意が、力がこもる。
「やれい! ”草笛”の!」
デン=ガンが叫ぶ。引き金を握る。その瞬間。
”冬枯れ”が、瞳のない目で”草笛”たちを見つめていた。
2000メール越しの視線に貫かれ、”草笛”は全身に怖気が走るのを感じた。
”草笛”は、この怖気を知っていた。これは狩る側が、狩られる側に回ったことに気づいたときの感覚だ。一瞬の躊躇が、僅かな判断ミスが、己の死に直結する――そんな死地に、足を踏み入れてしまったということだ。
”草笛”は、反射的に引き金を引いた。
動揺を抑えきれぬ射手とは裏腹に、『咆哮』は自らの役割を冷静に、完璧に遂行した。限界まで振り絞られた弦が開放される。竜鋼の矢が叫ぶような音を立て、2000メールの距離を切り裂きながら飛ぶ。
”冬枯れ”は”草笛”たちに視線を向けたまま、初めてその歩みを止めた。飛来する矢に、”草笛”たちに向かい、緩やかに右手を差し出した。
矢が白死の球体を、そして”冬枯れ”の体を貫いた。腰から上、左半身がちぎれ飛ぶ。首飾りが大きく揺れ、陽光を浴びて、赤く、怪しく光った。
やった――いや、違う。外した。”草笛”の顔が血の気を失い、白くなる。
”冬枯れ”は半分だけ残った顔を、変わらず”草笛”たちに向けていた。茫洋とした表情は、矢で貫かれる前と何も変わらないように見えた。
挙げられたままの右手から、白い嵐が放たれた。嵐は途上のことごとくを白く枯らしながら、一直線に”草笛”たちに襲いかかる。
「いかん!」
デン=ガンが叫ぶ。”草笛”はその瞬間、なぜか妻の――”唄う星”のことを思い出していた。
◇
”草笛”は不機嫌だった。いつにも増して不機嫌だった。とはいえ、彼が不機嫌でないときなどめったにないことだったが。温厚な性格の者が多い白エルフには、まれな男であった。
今朝、本当に些細なことで妻の”唄う星”と口論になってしまった(しかも、どちらかといえば彼の側に非があった)ことがケチの付きはじめだった。
機嫌を直そうと赴いた日課の狩りにおいても、影狼や新月熊どころか、小鬼一匹、小鳥一羽すら射抜くことができなかった。彼の決して短くはない生において、そんなことは初めてだった。
共に狩りに赴いた”二つ星”から、なにか悩みでも抱えているのか、自分でよければ相談に乗るぞ、と心配そうに声をかけられたことも、彼の自尊心を大いに傷つけた。”草笛”は自分自身を、多少悩みがある程度で鈍るような、そんな腕前の持ち主とは見なしていなかった。
彼の機嫌はいよいよ悪くなった。
”唄う星”にどう謝ろうか、いや、そもそも自分が謝る必要があるのか。そんなことを思案しながら重い足取りで家路についた”草笛”の足が、我が家の入り口の前でぴたりと止まった。
木と土と草の香り漂う、愛しの我が家。いつもと変わらずに主を迎え入れてくれようとしている……はずだ。だが。
”草笛”は、動かぬ己の足にほんの一瞬戸惑った。だがすぐに、我が足の、肉体の判断を信じることにした。彼は時折、こうして己の肉体が思惑を超えて動くことがあるのを知っていたからだ。そのような場合、大抵は体に任せてしまったほうがうまくいくものだった。
彼の長耳が、かすかに動いた。
そのとき、”草笛”はあるにおいを嗅ぎ取った。かすかな、本当にかすかなそれに気づいた途端、彼の機嫌は悪いどころではなくなった。
あろうことかそれは、忌むべき「ヒト」のにおいだったのだ。
”草笛”はこみ上げる悪い予感を、意志の力で封じ込めた。わずかに体勢を低くする。背から千年樹の弓を外し、静かに構えた。彼は二、三度深呼吸をし、自らの心身を狩人のそれへと変えていく。そのまま我が家の内へ歩を進めていった。
”唄う星”は無事か。そもそも、なぜここにヒトがやってくるのか。里の連中はなぜ、みすみすヒトなどを我らが里に通したのか。次々と浮かび上がる疑問を心の底に沈め、影のように歩む。
弓を構えたまま、部屋の一つを――夫婦の寝室を覗き込む。気配はない。向かいにある物置を確かめる。雑多なものが所狭しと詰め込まれている。人の隠れる隙間などなかった。
残る部屋は唯一つ。”草笛”は、家の最も奥にあるそこへ向かって、慎重に歩を進めていく。正面、部屋に続く扉は閉ざされている。
”草笛”は扉のすぐ前までたどり着くと、長い耳をそっと扉に押し当てた。中からかすかに聞こえてくるのは、”草笛”の知らぬ男の声と――愛しき”唄う星”の声! ”草笛”は扉を蹴破るように開け、部屋の中になだれ込んだ。人影は二つ。”草笛”は、食卓の椅子に腰掛けていた男の頭部に狙いをつける。弦を限界まで引き絞る。
「おお、ようやくおかえりですな。お待ちしていましたぞ」
鋭く光る矢を突きつけられながら、男は間延びした声でそう言うと、手にしていたなにかを口に頬張った。それが朝食のパンの残りだと気づき、”草笛”は露骨に顔をしかめた。
「……あなた」
男のすぐそばに立っていた”唄う星”が、震える声で”草笛”に呼びかけた。”草笛”は今すぐ抱きしめてやりたくなる衝動をこらえ、努めて冷静な声音で”唄う星”に問うた。
「何者だ、こいつは。どうしてヒトが白エルフの里に、ましてや君と私の家に入り込んでいるんだ。あまつさえ、君のお手製パンを食っているとはどういうことだ」
「んぐんぐ……まあまあ、そう奥方様を責めなさるな。奥方様はなーんにも悪くありませんぞ。よろしい! 貴殿の問いには、この私めからお答えするとしましょう!」
パンパンと両の手を叩き合わせてパンくずを払うと、男は”草笛”に向き直った。禿頭、太い眉、大きく見開かれた目、固く結ばれた唇、眉間に走る一本の傷――数々の死線をくぐり抜けてきた歴戦の名将である、と誰かに言われれば素直に信じてしまう、そのような風貌であった。
男はやおら立ち上がると、”草笛”に向けて貴族式の礼をしてみせた。
「まずは、改めて自己紹介をば。私めは、ノイラート・フォン・ブラウンと申すものです。以後、お見知りおき願いますぞ」
「断る。ここから立ち去れ」
「これはこれは、なんとも厳しいお言葉ですなあ」
”草笛”の短剣のような言葉を浴びせられ、ノイラートと名乗る男は大げさに驚いてみせた。”草笛”は男の態度に一瞬逆上しかけたが、努めてすぐに冷静さを取り戻した。男の態度がいかにも、わざとらしすぎると感じたからだ。
こちらの冷静さを失わせようとするやり口かもしれない。その手には乗るか。そう考え、”草笛”は静かにノイラートをにらみつけた。その様子を見て、ノイラートは少し感心したような表情を浮かべた。
「まあまあ、そう猛りなさるな……と、言うほど怒ってはいらっしゃらないご様子。ありがたいことです。人の話もろくに聞けぬ獣のような輩に、王国の命運を託すわけにはまいりませんからなあ」
「……王国の命運を、託す?」
「しかり! 私はそのために、この地へと参ったのです!」
ノイラートはやはり芝居がかった態度で大げさにうなずいてみせると、懐から筒状に丸められた何かの書状を取り出した。”草笛”は知らなかったが、その書状に使われている紙には、マイネリア古王国の紋章が刷り込まれていた。それはすなわち、この書状が国王直々の命を書き連ねたものである、ということである。
「汝、白エルフの”草笛”よ! 国王ルドルフ14世陛下、直々の命をお伝えいたす!」
ノイラートは書状を広げると、両の手でしっかりと持ち、よく通る声で高らかに告げた。
「弓の達人と誉れ高き白エルフ族のなかでも、随一と称されるその腕前を見込み、ここに一命を託さん! 汝は知るや、ただ今このときにも、国家存亡を招かんとする災禍が、栄光あるマイネリアに迫らんとするのを! これすなわち――」
「黙れ、そして立ち去れ」
「……ああ、前置きが長すぎましたかな。ご容赦あれ。ですがこういうものにはほれ、形式というものがありましてな――」
ノイラートの頬を、風がかすめた。背後の壁に、一本の矢が音を立てて突き刺さる。
「何度も同じことを言わせるな――立ち去れ」
”草笛”はすぐさま次の矢をつがえると、冷たくそう告げた。ノイラートの頬に、一筋の赤い線が走る。だが彼は、全く意に介さぬふうにほほえんでみせた。
「そういうわけには参りません。私とて、子供の使いに参ったわけではないのです」
「”草笛”の知ったことではない」
「ですから、そういうわけには参りませんのです」
ノイラートは、いまだ顔に笑みを浮かべたままだった。だが、その身が発する雰囲気が明らかに変わっていた。傍らに立つ”唄う星”が、ひっと息を呑む。
「貴方にはこの使命、否が応でも受けていただきますぞ。そのためならばこのノイラート、ありとあらゆる手段を取る覚悟がありますからな。そう、たとえば――」
ノイラートは、ちらりと”唄う星”に視線をやった。視線に気づいた”草笛”が、思わず声を荒げる。
「何をする気だ!」
「まだ、何をどうするとも申し上げておりませんよ。慌てなさいますな」
「”唄う星”に手を出してみろ……貴様の四肢をばらばらに引き裂いて、卑しき豚の餌にしてやる」
「おお、怖い怖い……ええ、ええ、私もできましたら、そのような手段には訴えたくありませんなあ。こう見えましても私、穏健派の平和主義者と自認しておりますもので」
そう言って、ノイラートは”草笛”の目をじっと覗き込んできた。”草笛”もノイラートの目から視線を外さなかった。長いとも、短いともつかぬ時間が流れる。”草笛”もノイラートも、微動だにせずにお互いを見ていた。
緊張に耐えかねたのか、”唄う星”が床にへたり込む。
「……わかった。話だけは聞こう」
それを見た”草笛”は、根負けしたようにつぶやくと、構えていた弓をおろした。
「おお! わかっていただけましたか!」
「勘違いするな。お前たちヒトの国家など、正直どうでもいいのだ。だが」
”草笛”は床に座り込む”唄う星”に歩み寄り、そっと彼女の方に手をおいた。
「このままでは”唄う星”の心が持たない。”草笛”が里で随一の弓の名手ならば、”唄う星”は里で随一の、優しき心の持ち主なのだ。そんな彼女にこのような、戦場のごとき空気を味あわせたくはない」
「そうでしょう、そうでしょうとも!」
調子良く応じるノイラートをにらみつけると、”草笛”は軽くため息を付いた。
「……それで、”草笛”に何をしろというんだ」
「はい、では改めまして――」
ノイラートは、再び書状を広げようとする。
「やめてくれ。結論だけ頼む」
「せっかちですなあ。ま、仕方ありません」
ノイラートは残念そうに書状を丸めると、胸を張りながら告げた。
「”草笛”どの。貴殿にその弓の腕前を持って、マイネリアを滅ぼさんとする恐るべき災厄――”冬枯れ”を射っていただきたいのです」
【続く】