ほんの少し、未来の物語
ラツカの森の奥深く、ぽつんと建てられた、小さな小さな一軒家。
窓際に据え付けられた粗末なベッドに、穏やかな顔で横たわる老人が一人。
窓から差し込む柔らかな陽射しに包まれながら、
老人はその生を終えようとしていた。
半ば眠り、半ば目覚める夢うつつのなかで、
老人は過ぎ去った歳月を思い返し、静かに笑みを浮かべる。
――思えば、嵐の如き日々だった。
――アカデミーを飛び出し、辺境を放浪すること幾歲月。
――あるときは死の荒野を。あるときは魔の大海を。
――あるときは凍てつく大地を踏破し、魔術の深奥を究めんとした。
――遥かな旅路。私の人生そのものだ。
――だが、それももう終わる。悔いはない……。
――いや、一つだけ。
――たった一つだけ、あると言えばあるな。
――私は”彼女”の戦いに、最後まで寄り添えなかった。
――だが、致し方あるまい。不死ならぬ人の身なのだから。
――伝え聞くところによれば、”彼女”の戦いは確実に世界を変えつつある。
――悪意のくびきから解き放たれ、人が人の世を取り戻しつつあるのだ。
――”彼女”に、世界を変えようなどというつもりはないだろうが……。
そうして、老人が”彼女”の顔を心に浮かべた、そのとき。
小さな家の小さな部屋に、似つかわしくない魔力の揺らぎが起こった。
老人は訝しむ。
転移術式。失われて久しい大魔術。
それが今、目の前で発動しようとしている。
見てくれは貧相な一軒家。その実、多重結界にて守られた魔術的”要塞”と言っても過言ではないこの家の中に、直接転移してくるものがある。
並の術者ではない。なぜ、誰がそんなものを――そこまで考えた老人の顔に、久しくすることのなかった軽い驚愕の色が浮かぶ。
――そうだ。私は知っている。
――転移の術を使いこなし、世界を渡る”彼女”たちのことを。
――誰よりも、良く……!
紫電が弾ける。
老人はベッドから重たげに体を起こすと、来訪者に笑顔を向けた。
「……何年ぶりになるか、すっかりわからなくなってしまったな」
「お久しゅうございます。魔術師殿。いえ、『辺境の知恵者』、あるいは、『森の大賢者』とお呼びすべきでしょうか?」
「”魔術師殿”で構わんよ。くすぐったいからな」
老人の半ば盲いた目でも、はっきりと分かる。
長い黒髪、白磁の肌、真紅のドレス。
美しい顔立ちに静かな笑みを浮かべたその人は、
初めて出会ったときと、何ら変わらぬ姿だった。
「それにしても、いきなりどうした? 死出の旅の見送りにでも来てくれたのだろうか?」
「……いえ、今日はご報告にまいったのですわ」
「報告?」
「ええ」
”彼女”はそのアイス・ブルーの瞳に力強い光を浮かべた。
「わたくしはこれより最後の”竜”――”無色の竜”に戦いを挑みます」
「そうか……」
”無色の竜”。”五色の竜”の最後にして、頂点。
「遂に……遂にそこまで」
「遂にここまで参りましたわ。ですので、これだけは魔術師殿にお伝えせねば、と思いまして」
”彼女”はベッドに歩み寄り、老人のやせ細った手を取ると、両手で優しく包み込んだ。
「あなたのおかげです、魔術師殿。あなたがいらっしゃらなければ、わたくしは決してここまで至れませんでしたわ」
「……それはいいことを聞いた。最期の言葉としては、これ以上望むべくもないな」
――なにせ、言われた相手が最高だ。白磁の令嬢。竜殺しの淑女。
――そして、私の……
老人は心中でそっとつぶやくと、ゆっくりとベッドに横たわった。
「魔術師殿……」
夢見るような笑顔を浮かべ、目を閉じる。
「魔術師殿」
「もう行くんだ。本当はこんなところに来ている暇など無いのだろう?」
「……」
「さようなら、だ。武運を、勝利を祈っているよ」
「……ありがとう……ございます」
”彼女”はベッドから離れると、老人に向かって見事なカーテシーを決めてみせた。
老人は、応えなかった。
やがて静かに上下していた胸が、その動きを止めた。
◇ ◇ ◇ ◇
家を出た”彼女”を待ち構えていたのは、老人ほどではないが十分に年を重ねた女性であった。
「……お久しゅうございます。シィナ様」
「……本当に」
老女は片足を引きずりながら”彼女”に歩み寄る。手に持つ杖に結つけられた種々の符咒が、ほのかな光を放つ。
「本当に何一つ変わらないんだね、あんたは」
「どうして、ここに?」
「どうしてここに、だって?」
老女は目を見開き、杖を”彼女”に突きつけ叫んだ。
「私はねえ! 私はここで、ずっと、ずっとあのお方のお世話をしてきたんだよ! 今だって、お体の痛みを和らげる薬に使う野草を調達しに出ていたところだ!」
老女の周囲の空気が歪む。抑えきれぬ魔力が、弾けるような音を立てる。
「異変を察知して慌てて戻ってきたのに、あの方の……最期に……最期に……間に……合わないなんて……」
そう言うと老女は、ふと全身の力を抜いて膝から崩れ落ちた。同時に、周囲を揺らしていた魔力も掻き消える。
「シィナ様……」
「近寄るな!」
下を向いたまま、しかしするどく一喝すると、老女は杖を頼りに立ち上がった。
「近寄るんじゃない。私はあんたの手は借りない」
「……」
「私は……私はあんたが嫌いだ。あの人の心にはいつでもあんたがいた。いつでもだ。私がいくら頑張ったところで、その場所は奪えなかった……」
老女の声が、微かに震えだす。
「だけど、そもそもあの方とあんたが”忌み野”で出会わなければ……あの方が辺境を旅して回るようなことはなかったのかもしれない……その途中で、私とシャビイを弟子としてくださることも……」
老女は顔を歪ませて――まるで少女のように――小さく嗚咽する。
「シィナ様……わたくしは」
「うるさい、何も言うな。繰り返すが、私はあんたが嫌いだ。大嫌いだ。だけどそれと同じくらい感謝してもいるんだ、腹立たしいことにね。あんたがいなければ、私はあの方と出会えなかったんだ」
「……そう、ですか」
「ああそうだよ。だから改めて礼を言うよ。ありがとう、あの方の最期を看取ってくれて。最愛の相手に送ってもらえたんだ。望外の喜びってやつだろう」
老女は顔を上げた。
「さあ、行きな。用事は済んだんだろう? だったら為すべきことを為してくるんだ。もししくじったら、絶対に許さないからね」
そう言って笑ったのは、愛しい人を亡くし悲しみに暮れる老女ではなかった。
そこにいたのは”千年に一人の逸材”と師から認められ、また自身も多数の高弟を世に送り出した大魔術師『辺境の魔女』であった。
◇ ◇ ◇ ◇
『もう、よろしいのですか』
【チチチチ】
「ええ、済みましたわ……それでは、参りましょうか」
そう言って”彼女”が見上げたのは、遥か天空の彼方。
蒼穹を越え、暗黒の宇宙(そら)に浮かぶ、不毛の地――”月”。
”無色の竜”の、住まう地である。
「さあ、お覚悟はよろしくて”無色の竜”。せいぜい震えて待つと良いのですわ」
不敵な笑みを浮かべると、”彼女”は言い放つ。
「打ち倒し、這いつくばらせ――踏んで、さしあげますわ」
【終】
◇この作品は、只今noteにて連載中の小説「白磁のアイアンメイデン」の「ほんの少し、未来の物語」です。よろしければ、以下のリンクより本編をお楽しみください。面白いですよ◇