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杉原千畝の誕生日に彼の生涯と功績を振り返る。1月1日に生まれた外交官の物語
今日1月1日は杉原千畝の誕生日です。
杉原千畝とは、第二次世界大戦中に日本の外交官としてリトアニアの首都カウナスに赴任し、ナチスの迫害から逃れようとするユダヤ人に数千枚ものビザを発給した人物です。
杉原千畝は、1900年1月1日に岐阜県の上有知町で生まれました。
上有知町とは後の美濃町であり、現在の美濃市です。
2024年1月1日には、杉原千畝の誕生日は124回目を迎えます。
杉原千畝の幼少期
生誕
杉原千畝は、1900年1月1日に岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市)の教泉寺の刈間で生まれました。父親は税務官吏で、上有知町の税務署に勤めていました。
杉原千畝の名前の由来
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杉原の戸籍上の出生地は、当時の武儀郡上有知町890番戸(現在の美濃市古市場2625-1-1)です。
この住所は、明治22年7月1日に町制施行により武儀郡上有知町2625-1-1となり、明治44年4月1日に名称改正により武儀郡美濃町2625-1-1となり、昭和29年4月1日に市制施行により美濃市2625-1-1(字名 古市場 通称 東市場町)となりました。
現在、この地には浄土真宗本願寺派の教泉寺があります。
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千畝橋
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岐阜バス バス停 美濃千畝町
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美濃市の教泉寺には、千畝の出生を記念した「杉原千畝出生誕地案内板」が建てられています。
転校
中学校入学までは父親の異動のために各地を転々とし、父親の単身赴任後は名古屋に住んで、旧名古屋古渡尋常小学校と旧第五中学校に通いました。
旧第五中学校は、愛知県立瑞陵高等学校です。
名古屋市立平和小学校:「ちうねチャイム」
旧名古屋古渡尋常小学校は、現在の名古屋市立平和小学校です。平和小学校には、シンボルの「ちうねチャイム」が顕彰施設して設置されています。
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瑞陵高校
杉原千畝は、旧制瑞陵高等学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)に進学しました。
瑞陵高校は、1903年に創立された愛知県内で最も古い高等学校の一つで、杉原千畝が在学中には、英語科が設置されていました。
杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル
現在の愛知県立瑞陵高等学校で、校内には千畝の功績を顕彰する「杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル」が設置されています。
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外交官としての活躍
1939年から1940年にかけて、杉原千畝はリトアニアのカウナス領事館に赴任していました。ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきたユダヤ難民たちの窮状に同情し、1940年7月から8月29日にかけて、大量のビザ(通過査証)を発給し、日本経由で避難民を救ったことで知られています。
戦後
戦後、杉原千畝は外交官の仕事を続けられませんでした。それはビザ発給に関する訓令に違反したためというのが通説です。
外務省は、杉原への懲戒処分はなく、47年に依願退職していると説明すると同時に、「勇気ある人道的行為を行った」としています。
1966年には、イスラエル政府から「正義の人」の称号を授与されました。1986年には、イスラエル国立ヤド・ヴァシェム博物館に、杉原千畝の名前が刻まれた「諸国民の正義の人」が設置されました。
おわりに
杉原千畝は、日本の外交官として、ユダヤ人に数千枚ものビザを発給し、命を救った人物です。
彼はその行為によって、日本政府から懲戒処分を受けましたとされますが、世界中から賞賛されました。彼は1900年1月1日に生まれ、1986年7月31日に亡くなりました。
彼の生涯と功績は、私たちに人道と正義の大切さを教えてくれます。彼の誕生日に、彼のことを思い出してみませんか。