「考え(る)」についての考え
はじめに
「考える」ことについて最近漠然と考えている2つの事項について漫然と書きたい。
ここにはただ単に考えていることを共有してみたい、何か新しいことを聞けるかもという淡い期待に加えて自分の思考を整理すると共に自分の思考の記録として文章を残す意図がある。
考えるためには元手が必要
考えるための費用というか、材料として余裕と知識が必要だと思う。ここで、費用や材料という言葉を使ったのは、余裕はさておき、考えることによって知識の貯蓄を切り崩す感覚があるからだ。
まず、余裕について。
考えるときに、時間的、精神的な余裕がなく何か急かすようなものが存在する場合「答え」を最短距離で求めてしまう。
個人的に、考えることとは本来目的はなく、やめることができず、気づいたら行われていることだ。答えに向けて解答を探すことは考えるというより問題を解く感覚に近い。
次に知識について。
知識は必ずしも無味乾燥な文字の羅列だけを意味するわけではない。ここでは主に他者の考えを意味している。考える上で他者の考えを知っていることは必要不可欠だと思う。他者の思考様式を吸収してそれらを合わせて自分の型を模索する。この過程が考える上で重要だと思う。自分と同じように考え続け、場合によっては一生をかけて考えた先人の辿り着いた場所とその過程をなぞる、これを行ったとき、考えに深みが伴うと思う。
ただ、知識や記憶は入れ続けなければ時と共に褪せていく。
同じ思考回路も使い続けると段々とルーティンワークになり安っぽくなる。
知識を入れ続けないと、考えは浅はかになっていく…
自分の考えは存在するのか
「自分の考え」
これはここ数年常に考えているテーマである。
誰もが思考体系や考え方を知った状態で生まれて来ないで、教育などを通じて既存の他者によって作られたものを学ぶ。
考える際に使う言葉も、それを人に見せるために書く文章の言い回しも、そもそも何を考えるかも、元を辿れば自分の中から湧き出てきたものはない。
そう考えると実は自発的に行っていることなど、考えることを含め何もなく、私たちは「考えている」のではなく「考えさせられている」のかもしれない。
それでもまだ一人一人の考えに独自性があるという望みを捨ててはいない。
なぜなら、どのような言葉を選びどの思考回路を通過させ、どんな言葉で表現するかの決定権は全てそれぞれ個人に委ねられているからだ。
既にあるものの組み合わせから、独創性のある新たなものを作り出す。そんな過程が「考える」ことなのかもしれない。
「考える」ことをこのように捉えると自分の考えに対しより謙虚になる。今まで読んだ文章、聞いた言葉、学んだ思考体系、これら全てを動員した総力戦が考えるという行為であり、全ては今までの道のりがあるからこそ今の考えに至ったのだ。
最後に
これを書いている自分自身が近頃、深く考えるために必要な知識と余裕が足りていなく、自分の考えをが存在することを疑っている。世間がクリスマスを全力で行っている中あらためて、考えることを再考している。
そのような状況で逆説的に書かれた文章がこの文章で、ただただ考えたことを文字にしているだけ。
そんな今やりたいことは数日間外界を遮断しひたすら他者の思考の痕跡を辿ることだ。
長々と自分の考えについて書いてきたが結局は「考える」ことが大好きで、どんな瞬間も「何も考えない」状況にはなれない。もはやライフワーク(?)である。これからの人生でより良い考えライフを送るためにも、「考える」ことの探求は終わらない。