経済の基本は大昔も今も必要な財の生産と分配
お金の価値よりも財の生産と分配の方がはるかに重要
人類が誕生してから長い間お金は存在していませんでした。しかしその間も人類はずっと命をつないできました。何故そんなことが可能だったのかというと、「必要な財」(人々の幸福に資するモノやサービス)が生産されて分配されていたからです。
お金がなくても命をつないでいくことはでき、お金があっても生産と分配がなければ命をつないでいくことはできません。
わかりやすいようにあえて極端なたとえ話をします。
あるところにみんな1兆円以上持っている大金持ちばかりの国がありました。でも誰も働かなかったので何も生産されず何も分配されませんでした。結局全員餓死しました。
別のある国では誰もお金を持っていませんでした。みんな貯金0円です。でもみんなで財を生産し合って分配し合って豊かに暮らしていました。
どちらが幸せかといえば言うまでもなく後者です。お金だけあっても財の生産と分配がなければ意味がありません。
お金は財の生産と分配を円滑にするための便利な道具
家庭内において何かをする度にお金のやり取りをすることは普通は無いと思います。
しかしもしお金を貰わなければ何もしないすごくガメツイ家族があった場合どうなるかを考えてみます。
お金を貰わないとお母さんは家事をせず、お金を貰わないと子供は勉強をせず、お金を貰わないとお父さんは働きに行きません。
しかしお金を貰いさえすればちゃんとやるため、家族の間でお金がグルグル回ることでその家庭はうまく機能していました。
あるとき泥棒がその家に入り、その家のお金が全部盗まれてしまいました。
するとその家庭は機能不全に陥りました。誰もお金を払えず、誰もお金を貰えないので、誰も何もしなくなりました。結局その一家は全員餓死しました。
お金がなくても各自がやるべきことをやっていればうまく機能し、餓死することはなかったのに。
普通の家庭ではいちいちお金のやり取りなどしなくてもうまく機能しています。むしろやり取りする方が面倒臭いぐらいです。普段は意識しませんが、私たちは日常的にお金を使わずに財(モノやサービス)の生産と分配を行っています。
しかし家庭内ではお金のやり取りが不要でもそこから一歩外に出たらどうでしょうか。お金のやり取りがなければ基本的に人は働きません(給料ゼロなら働かない)し、何も得られません(ただで商品は手に入らない)。つまり家の外で財の生産と分配を行うにはお金のやり取りが必要になります。
本来はお金がなくても財の生産と分配がきちんと行われていれば問題はありません。理屈の上ではそうですが、実際の社会では、家の外ではお金のやり取りがなければ基本的に財の生産と分配は行なわれません。その理由は、大昔と違って現在は世界中の人が経済的に繋がっているので、お金が存在しなければ財の生産と分配を円滑に行うのはほぼ不可能だからだと思います。
そう考えると、お金とは財の生産と分配を円滑にするための便利な道具だといえます。
需要と供給と潜在需要と供給能力を中心に経済を考えるべき
生産と分配が重要であり、お金はただの道具に過ぎない。そして需要が満たされると人は幸福を感じる。ならば出来るだけ多くの人をより幸福にするためにやるべきことは、「できるだけ多くの人の需要を満たすこと」となります。
すると、経済政策を考える際には、「需要」と、「供給」と、顕在化していないが内心抱えている需要である「潜在需要」と、生産しようと思えば生産できる「供給能力」を中心に、お金をどのように使えばより多くの人の需要を満たすことができるかを考えるのが良いと思います。
これとは逆に、GDP、インフレ率、為替レート、株価、お金を稼ぐこと、財政赤字、国の借金、といったことばかりを意識し、お金を中心に据えて経済政策を考えるほど、人々の幸福に繋がらない政策が実施されてしまうと思います。
お金のことも重要ですが、それ以上に重要なことは「必要な財」の生産と分配です。この優先順位を間違うと多くの人が不幸になったりします。
別の言い方をするなら、「手段(お金)にばかり目がいって目的(必要な財の生産と分配)を忘れてしまい、手段の目的化が行われてしまうと多くの人が不幸になる」という感じでしょうか。
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