私たちは社会を変えることができない。
だいぶ昔に、友人から誘われて「僕たちは世界を変えることができない。」という映画を映画館で観ました。
2008年のことなので、私は大学卒業後社会人として働き初めて2,3年目でした。
カンボジアでの学校建設を目指す大学生の実話を基にした物語。カンボジアでの向井理の演技に友人と映画館で号泣した記憶があります。
ここ数年で、自分の仕事や社会、福祉、自分の生活、その捉え方について捉え方が多角的になった(変わった、ではなく見方が増えた)と感じていて、そのことを考えていたらこの映画を思い出しました。
自分の気質、学んだこと、主にはソーシャルワーカーという仕事の影響を大いに受け、私は「誰でも、自分の力を発揮して自分らしい豊かな人生を生きることができる。」と思うようになり、いつからかこれが信念になり、それを軸として仕事をし、今に至ります。ずっとそう思っているし、きっとこれからも変わらないと感じています。
これまでは、働き方生き方に悩む一人に向き合い、じゃあどうしていこうか?という伴走を沢山してきました。その時々試行錯誤し、必要な情報を集め、学びや訓練の機会を提供し、時には悩みを聞いたり休みを促したり。
一定期間伴走すると、ほとんどの方は100パーセントとはいかないまでも自分らしさや軸を小さくても見出して一歩を踏み出し、またその先の環境や出会いによって自分の領域の生き方を形作っていくのをみてきました。
そんな支援を繰り返し、ふと、もっと目線を上げて、一人の支援の枠を超えて仕組み自体を変えたいと思うようになりました。そしてそこでの試行錯誤でぶつかったのは、集まった人や組織が持っている価値規範や、よくも悪くも偏ったものの見方です。そこでは、自分が自分でいるよりも、その場としてどうか、他者比較やいわゆる常識とされているものにより判断がなされ、個別最適な意見は優先順位が下がります。
また、どちらもwin-winになるようなアイデアや方法論というのは形にするアウトプットは非常にパワーがいるもので、かつ収益性、持続可能性というところで問題が無くならない。一見完璧なアイデアや事業も、何かどこかで取捨選択の判断をしなければならず、出発点と全くイコールな形で、実現しているものはとても少ない。
そんな状況に対して?を持った時、とあるソーシャルベンチャーを立ち上げた聡明な人と話している時に、「この社会は資本主義で回っていて、資本主義というのは一定の人を疎外してしまう仕組みがあって、その零れ落ちる人をなんとかその輪にできるだけ戻そう、という取り組みをまぁ、(自分たちは)しているわけだよね」、と、自分が立ち上げた事業なのにどこか他人ごとに、とても冷静に、その構造について教えてもらいました。
そんなことは知っている。知っているはずだったけど、どこかで「社会を変えることはできる」とずっと信じてたわけです。「誰でも実現できる」と思っているし、そこには届くはずだ、と。
けれど事実として、この社会は変わらない構造があり、壁があり、もしかしたらそれは加速しているとも言える。それを自分の経験としても「理解せざるを得ない」ものとして、府に落ちてしまったわけです。
じゃあその中で何ができるだろうか、と。何かアクションを起こすことには意味がないのか。社会という構造に向かっていくには非力だなぁと。
でも、社会も人間で出来上がっていて、人を一人一人変えていくことで少しずつ、その構造や、構造をつくる考え方や価値観を変えていくことはできるのではないか。社会は変えられないけれど、目の前の一人一人に伝えていくことなら、できる。
「自分の力を発揮して、自分らしい豊かな人生を”自分の意志”でつくることができる個人を増やす。」ここからまたスタートだ。