私の人生の、「冒険の書」
「冒険の書」を読み終わった。
先日、本屋さんに行ったときに平積みにされていて、気になっていた本だったけれど、友人におすすめされて「あの本か!」となり、結局購入した。
3日ほどで読み終えて、文字にして残したくなり、noteを開いた。
何の本か分かって読み始めたわけではなかったのだけど、読み進めていくうちに「現代の学校教育に’?’を提示する本なんだな?」と理解して先に進んでいった。目次は、こんな感じ。
歴史上のさまざまな偉人に主人公が出会って(冒険して)、教えてもらうこと、それが現代にどのような影響を及ぼしているのか、学校の勉強はなぜ楽しくないのか、勉強と遊びはなぜ分かれてしまったのか、社会に出るとなぜ苦しいのか、いい方向に進めようと過去の人間も多く努力してきたのにそれが実感できない世の中なのは、なぜなのか。
断片的にこれまで学んできたことはあっても、歴史の流れに沿い、現代の教育や社会にどう繋がってきているのか主人公と一緒に紐解けている感じがして、とても面白かった。
と、同時に「知識偏重の学校の勉強は本当に身についていないことが多い」と実感した。
冒険の書、として出てくるさまざまな偉人や書物(ロックとかルソーとか)は、学校のテスト勉強でどれも暗記した記憶があるものだったけれど、「どのような人物で、その書物にはどんなことが記され、具体的に今にどんな影響があるのか」を、理解を持って記憶していなかった。
勉強不足といえばそれまでなのだけど、私と同じような人は多いんじゃないかな?
でも、それくらいが=機械化された仕事を思考停止して、そういうものだと捉えて作業としてこなす人間であることのほうが、今の社会では都合がいいのかもしれない。
でも、いやいや、それが「思考停止」そのもので、私たちが自分たちのいる社会を生きにくくしてしまい、それに対して無力だと感じてしまっている所以なのだと。
変に「こういうものだ」「常識だ」というものが染みついてしまっていて、そこから離れようと思ってもシステムの一部になると無力化されてしまう。
今この世の中はそういう構造なのだ。
先日、小学校1年生になった子どもが「なんで先生の言うことを聴かなくちゃいけないんだ」と不服気に言っていた。
私はそれを聴いて「ほほぅ」と嬉しくなったと同時に、同じ目線を自分にも向けられていることに気づく。
親の言うことも全てただの参考であって、自分の人生は自分で考え作っていってほしいなと子どもに対して思う一方で、私自身もこれまでの社会経験や、なんならその日の余裕度合いなどで矛盾した態度をとってしまうこともあるのだ。
そんな時は、
「ママだって疲れているんだよ!」とか
「遊びたいなら先に宿題したほうがいいんじゃない?」
などと、お決まりの文句を言いたくなるのだけど、それは私自身の課題であって、脈々と子どもに、自分の子どもだけではなく新しい世代に伝えたいこと/伝えるべきことではない。
アンラーニングとは、学ばない、学び直し、という意味ではなくて、これまでの学びを手放し、解きほぐし、新しい解釈を加えていくことー。
この本を読んで、私自身さまざまに想いが巡ったのは、間違いなくこれまでの人生経験や学びがあったからだと思う。
私は今、誰から強制されたわけでもなく、学び続けている。これは「探求」なのだろう。
私には、読み切れないほどたくさんの指南となりそうな「冒険の書」がある。この本を読んで、さらに読みたい冒険の書が増えてしまった。
学びたいことを学びきるには人生は短い。
学びたいことを、楽しいと思える方法で学ぼう!
それが、他者に何も強制せず、自分の首も絞めない、社会をよりよくしていく方法なんだな。
そうして考えたことを綴っているこのnoteは、私の「冒険の書」だと思う。