3.ソーシャルワーク1.0 ただ「居る」ことを知る(26years)
7月頃、学校で実習に行くことになった。国家資格をとるためには、決められた日数、病院や福祉施設など2ヶ所の実習に行く必要があった。
※前のお話はこちら
リストカットの彼女のことがあったので、なんとなく「地域」で働きたいと思っていて、行政や医療機関よりも地域の施設で実習がしたいと希望を出していた。
行くことになった福祉施設は「地域活動支援センター」というところで、そこは主に精神疾患や障害がある方が通って、人との交流や創作活動、相談など日中活動を行う居場所だった。
施設に入ると、利用者の1人が「実習生?」と声をかけてくれ、パンフレットなども出して案内をしてくれた。たぶん実習生がくるといつも話しかけてらっしゃる方で、実習生に教えるのが楽しいようだった。
今日書きたいことは、だいたいこの本に書いてある内容で、居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書、読んでパクリと思われる方がいらっしゃればすみません。書かれた東畑先生すみません。パクリです。でも書きたいので書きます!!
施設は広く、色んなお部屋があり、談笑されてる方もいればピアノを弾いている人、トランプをしている人などもいた。
どちらかというと男性が多く、年齢はバラバラで、昼食会の時間ではみんなで料理をしたり、卓球室でわりと本気の卓球をしてりもしていた。スタッフと笑いながら話したり、カードゲームなどで楽しまれていたりもしていた。
一方、数名、ただ座っていらっしゃる方もいた。何をするわけでもなく、椅子に座っていらっしゃる方。実習生としては、いろいろな方を知りたい、かかわらなければならないという気持ちもあり、そんな方のとなりに座ってみた。
「いる」 と 「する」
「こんにちは、実習生の●●です」などと話しかけてみるのだけど、ちらっとみて、あぁ、どうも、というような小さな会釈をしてそれだけでやりとりが終わってしまった。
何度かそういうことが続き、他の利用者の方などに誘ってもらって卓球や昼食会に参加したりして、具体的な活動がある方が過ごしやすく感じていた。
ただ、いつもいつもそんな活動があるわけではない。活動と活動の合間にどうしてもそんな時間があって、そこの時間の過ごし方に困ってしまった。
廊下にある資料を眺めたり(眺めてもすぐ読んでしまうので読んでるフリにもなってくる)、置いてある雑誌をめくってみたり、また誰かに話しかけてみたり。
そうしているうちに気づいたことがあった。
利用者の方の方が「居る」のがうまいのだ。
私は実習に来ているので、何か「しなければならない」と思っているし、することをただひたすら探してしまっていたけれど、ここでは「居る」ことが一番の目的でそれ以上や以下の幅がとても狭い。
サークル活動や相談の場もあるけれど、それも「居る」ことができるようにするサポートで、それは「ただ、いる」ことが目的ではなく、「ありのままいる」ためのものなのではないかと思う。
この社会では、いつもみんな何かを「する」ように方向づけられているところがあって、そこでうまく「する」ことができないと、自分が自分で「いる」のが難しくなり、まず「ありのままいること」を取り戻す必要が出てくる。
ここで、あぁ人間て複雑だな、と思ったのが、それは必ずしも一人ではできないことということだ。
「ありのままいる」ために、家でずっと一人でいるだけでは解決できないことがあって、わざわざ利用者の方はセンターに来て、誰かの気配を感じながら「居る」時間を過ごす。
座って何もしていないように見える方は、もしかするとこのセンターの中でも「居る」ことの上級者で、まさにあの状態がありのままだったのかもしれない。
そして「居る」をマスターすると、今度は「する」との境界線が濃くなり、「する」中心の社会でどう「居ればよいのか」わからなくなってしまうこともあると知った。
私はこの地域活動支援センターでの実習のあと、この法人で「何かバイト募集してませんか」と相談し、運よく翌月からいわゆる「作業所」というところでアルバイトをすることになった。
そこは「居る」と「する」が絶妙に合わさった場所だった。
それはまた次の話。(ソーシャルワーク2.0 誰かのために「する」)