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イルカはイワシの夢を見る

 僕は最近になってようやくイルカになったのだが、それまでは人間であった。

 僕はインターネットの海ユーチューブで華々しく活躍するイルカ達を遠巻きに眺めながら、その力強く洗練された泳ぎにずっとあこがれていた。対戦動画のシークバーを幾度となく左へ引き戻しながら、どうにかして動きを真似ようと必死の思いでアケコンのレバーを握りしめては、後ろにめたり、前に解放はなしたりしていた。
 けれど、脳裏に焼き付いた理想の泳ぎと比べて、僕のそれはひどく不恰好だった。発生に優れるSスラの必殺技で様子を見れば直ガから殴りつけられ、フレームが強いというHSハイスラの必殺技を頼れば屈Pで割り込まれた。そればかりか立ち回りの息苦しさに耐えきれず、もがくように飛んでは6Pで落とされさえもした。そうした状況で、僕の体力ゲージよりも先に相手のそれを削り切ることは、ほとんどなかった。情けなかった。僕の頭の中にはいつだって色とりどりの屈強なイルカ達がいて、広い画面内で自由に暴れ回っているというのに。

 そうしてよどんだ海の底を漂っていたある日、久しく会っていなかった友人と話をする機会があった。彼は僕よりも先にGGSTストライヴを自らの領分と定めていて、どうやらあの悪名高きタワーを頂上まで上り詰め、手配書の色がどうだとかをステイタスにしているような、誰が見てもいけすかない男だった。
 彼はタリーズのコーヒーが好きな変わり者(もちろんコーヒーの味なんてどこも同じだからだ)だったから、僕は彼を駅前に呼び出して、お粗末なガラス張りの店内において、ひときわ奥にあるチンケな窓際の席で対面した。僕ひとりでは息継ぎすらもままならないあの荒れた海で、彼がいつまでも楽しげに泳いでいられる理由を問い正すつもりだった。彼の口を軽くする為であれば、もはや一杯のアイリッシュラテをおごる覚悟さえあった。

 どれだけの時間が経っただろうか。
「なるほどね」
 黙りこくったまま僕の懺悔ざんげにも似た愚痴をひとしきり聞いていた彼は、不意にあっけらかんとした様子で口を開いた。
「今の君は、イルカたり得ない」
「僕が?」
 僕は彼の言葉に心底驚いた。そして、心のうちに湧いた憤慨ふんがいの気持ちが彼に伝わるように、少しわざとらしく不満そうな表情を作って言った。吐き出しかけた唾は飲み込んだ。
「ああ。イルカは、イルカの真似事をしようとは思わないものだよ」
「どういうことだ。子供のイルカは大人のイルカを見て泳ぎ方を覚えるはずだろう」
 僕には間違ってなどいない確信があった。独学で泳ぎを覚えるイルカなど、もはやタワーには存在しない。そんなものはバー対コンボを使うような無法者共に狩られて絶滅している。それならば、強者を真似る事こそが絶対にして唯一の――。
「違う。子供であろうと大人であろうと、イルカは餌を取るために泳ぐ。君のように、"上手く泳ぐために泳ごうとするイルカ"はいない」
「まさか……」
「上手にやる必要はない」
 その言葉に、ハッとした。頭をイカリでガンと殴られたような心地がした。真っ白になった視界の奥で、不必要に巨大クソデカな"COUNTER"の文字が浮かんで消えた。とっさに頭の中で溜めていたレバーを前に入れながらHSを押したが、コンボは繋がらなかった。
「もし君がイルカだとすれば、本来は君が生きるのに必要な餌だけ取れれば十分なはずだ」
「いや、でも」
「上手なイルカになるのは、その先のことだ」
「それじゃあ、僕なんかは中段と下段の違いも分かっていないような、四階の小エビクソザコ共を掘り出して食らっていればいいと?」
「そうだ。ボタンなんてどれを押しても同じだと思っている小ガニ共もいる。君がいずれイワシやアジやささきを食べたいのなら、今はそいつらで食い繋ぐんだ。それには完璧な最大コンボの選択も、ギャラリーが沸き立つような差し返しも、それらに伴う渾身のドヤ顔もいらない。君はただ、安くて簡単なコンボと、差し返しに見えなくもない置き技と、控えめなドヤ顔だけを持っていればいい」
 もはや、僕に反論の余地はなかった。僕が教わったのは、教わるべきだったのは、泳ぎ方ではなく"イルカとしての生き方"だった。
「そうか、分かった……それじゃあ、もし僕が下手くそなイルカになれたその時には、僕の泳ぎを見てくれないか? 閉塞感のない屋外のロビーで……」
「いいや。もっと上、天辺で待つよ。おれはイワシでも、ましてや小エビでもない。トビウオだ」

 彼が帰ったあとで、僕は一人分のタリーズの代金を支払い、経費で落とすつもりだったので領収書を切ってもらった。最後の一言がしゃくに障ったので、アイリッシュラテは奢らなかった。
 目の前に差し出されたのは期待したような答えではなく、突然上等な泳ぎ方が身に付いた訳でもなかった。しかし、不恰好なバタ足でおぼれていた僕は、もうそこにはいなかった。
 年明け前の寒空の下で、薄青く延びた雲に目をやりながら交差点を渡る。家に着いたらアケコンを拭いて、モニターの前に暖かい飲み物を用意しよう。そして、四階の小エビに向き合い、両手を合わせて「いただきます」を言うのだ。きっと、それが捕食者の義務なのだから。僕は、自分が正しくイルカプレイヤーとして生まれ直したことを確かに感じていた。

【了】


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