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“ありのまま”“普通”ってなに

人はキャラを作ることがある
無意識に作っていることの方が多いかもしれない
仕事だったり、相手によってだったり
素の自分っていう人もいるけれど
結局全部素の自分なんじゃないかと思ったりなんだり。

全部ひっくるめていいのでは?
ひとりの中に幾つもの側面があって色んな顔があるのは当たり前だし
「思っていたのと違う」とか「こんなところ見られたくない」とかいう人もいるけれど
相手の見せてくれていなかった一面を知ることが出来たのだから寧ろプラスだと思ってしまう
だって自分に色んな表情見せてくれるのって嬉しいじゃん!!


今日は『普通』って言葉は人によって、状況によって解釈が変わるから以前すごく嫌いだった時期があったのを思い出した日。
言い換える適切な表現が見つからないからニュアンスとして近い言葉を使ったりしていた記憶が

今じゃそんなに気にせずに使っているけれど、その過程にそういう考え方をしていたというのはちゃんと染み付いてて
たまに使いながら「ちょっと違うかな」とか思うことがある
言わないけど心の中でそっと流して生活してる自分がいるなあとか考えると、昔は色々と細かく考えながら生活していて窮屈でもあったけれどそういう感性を磨いていたことに驚きつつ今に繋がっていることへの感謝の気持ちも感じている

なんでも自分の生活を振り返りながら気づきを得て生きていく事で、柔軟性だったり寛容性が生まれ、社会の中で呼吸がしやすくなっていくのかななんて考えさせられました。
機会をくれてありがとう。


結論。
ありのまま

普通

【枠として括るための言葉】であって本質まで細かく伝えることの出来る表現ではない
でも、この世界で端的に物事を伝える上で共通言語的な役割を果たしている言葉

といったところでしょうか。

今日は自分にとってのごくありふれた“普通”の一日を過ごしたけれど、細かいところでは非日常みたいな事案がいくつもあって
新しい一日を生きれた気がしました。

だから毎日道端の木陰や、夕方の斜陽に伸びた影、桜並木で真夏とは違うちょっと哀愁を帯びた蝉の声みたいな
太陽の光を一瞬だけ反射して過ぎ去っていくシーグラスのような瞬間をいつも探しているのかも



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