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旅先にドラマ

空気から〇〇の匂いがした。
なんて聞くことがあるけれど、きっとそこには確かにその匂いがあるんだろうな
この間秩父の方まで出かけたのだけど、部屋を出て外に出て駅へ向かって歩いているところで「ああ、秋の空気だなあ」と深呼吸しながら感じたりなんだり
そこに明確な花や果物なんかの匂いがなくたって感じるものはある
不思議だけどおそらくはその人がそれまでに五感で味わってきたものの積み重ねだったり育ってきた感性的なものがあるのかも

朝方雨が降っていたので道路脇に生えている草なんかの先端に水滴がきらきらと朝日を反射していて今日一日がとてもいい日になるという確信に近い予感がした

この間もらった短編小説を持っていったので読みながら素敵な作品を見つけたり、時折車窓から見える景色に占める田畑の広がりに旅情を感じたりしながら長い電車に揺られる時間を過ごしたのだけれど、たまにこういう時間があるといいなと実感

長瀞では紅葉が素敵なところを探してあちこち歩き回っていたら動物園があったので寄ってみることに
ちょうど入ったタイミングでモルモットさん達がとことこ歩く催しが始まったので準備をしている間せわしなく動き回っているのを眺めて満足してしまったので色んな動物たちを見て回ったのだけど
ゆったりと過ごしているのを見るとちょっとだけ安心するな、と思う反面狭い中で生活するのは可哀想かもという気持ちと一頭だけで他に仲間がいないきつねさんを見ていたら急に切なくなってしまうなど…

何か一つのものを見ても自分の中で捉え直して考える癖がついていることに改めて気づいて少し嬉しくもなり生きづらい考え方なんだろうなとも
変えたいとは思わないけどね


山から降りて日が落ちてきたので早足で岩畳を歩き、以前行ったことのあるもみじの沢山ある公園へ
公園の端にさらに先に伸びている脇道(大好き)を見つけたので進んでみると今まで見たのより開けた河原に出ることができ、お気に入りの場所がひとつ増えました○
公園へ戻ってもみじを見ていたのだけどいつも思っていることを…これはドラマじゃない!!

観光って基本いいなと思うところで写真を撮っていると人が集まってきて皆そこに群れる現象がある
多くの人がやっていることが「正解」って感じがして安心なのかも
駅の改札で空いているところに誰も行かないのと似ているかな
みんなが撮っているところって逆に言えば新しい発見はないからそれ以上にはなり得ないように思うし、自分で探した方がずっと面白いし自分に合った場所のはずなのに

この日は撮っていたら人がちらほら集まってきたのでそうそうにその場を離れて
よく分からない駐車場にとてもいい色のもみじを見つけたので紅葉をみることにも満足!

お腹も空いたので秩父へ移動して
ちょろっと街を歩きながら散策してレトロなコーヒーパーラーへ
ご飯食べてからプリンアラモードを追加で頼んだところで現金をあまり持っていないことに気付いて確認、本当にぎりぎり足りたので安心して食べられました
プリンアラモードのいい所はなんと言っても見た目。これに関してだけはあまり味を重視しないという例外中の例外かも()
1番最後に食べるのはさくらんぼと決めているこだわりもあるし笑

その後で読書をしながら珈琲を飲もうと思ったのでマップアプリで良さそうなお店(19時までだったのであと一時間半でちょうどいい)を探してむかったのだけど
店内と看板の電灯がついているのに中に人の気配がない。
恐る恐る木でできた年季の入った扉を押してみると軋むような音を立てながらもゆっくりと開いた。思い切って「すみません」と店内に向かって声をかけてみたところ小さな声で返事があった後歳のいったおじいさん(以下マスター)が出てきてくれて
「今日は取材があってね。待っているところなんだけど今は…」
大きな柱時計を見て
「今は17:40。17時からのはずなんだよ。俺がボケちゃって日付けを間違えたのかな。」
と話していたので
「お休みだったんですね、失礼しました。また来ます!!」
と言って店を出ようとしたところ
「いいよいいよ、もうこんな時間だし。珈琲のんでいってください!」
と言ってくださったのでお言葉に甘えて席に座るとマスターは珈琲のメニューを持ってきてくれた。
入口の看板にもあったのだけど
・コーヒー以外のメニューがあると気が入らないので食べ物やお菓子の持ち込みは可能です。
・おひとり様歓迎。おふたりまで。珈琲を楽しみましょう。
など珈琲に対する思いがぎゅっと詰まっていると窺えるお店。

折角なので珈琲豆のルーツと言われているエチオピア モカシダモをお願いした。
珈琲を淹れてくださっている間に店内の内装や装飾品などを見ていたのだけど、個々に珈琲を愉しむための座席の配置や照明の明るさ、アンティークのような風貌の家具たちを見て、お店やおじいさんについてもっともっと知りたくなり
“読書をしに来た”
ことなんて跡形もなく頭の中から消えてしまっていた。
そんなことをしているうちに時間はあっという間に過ぎ珈琲を持ったマスターがやってきた。
それを飲みながらマスターと話しているとマスターのこと、お店のこと、珈琲のことが輪郭を鮮明にしてきて自分の中で興味が更に深まることになった。

・マスターは今83歳で既に50年以上珈琲と向き合ってきたこと。
・とある喫茶店のマスターから受け取った特注の陶器製ドリッパーを45年間欠けながらも使い続けていること。
・他にお客のいない喫茶店で飲んだブレンド珈琲が美味しすぎて涙を零したこと。またその味が忘れられず自分でもブレンドをしながら今でも追い求めていること。
・人生の最後に珈琲を1杯飲みたくて、妻と子どもと医者の目を盗んで飲ませてもらう計画を立てていること。またその1杯を何にするのかを考えながら生きていること。
・お店の常連さんから秩父葡萄をもらった時に「秩父葡萄なんか美味しくないだろう」と先入観から言ってしまい、お客さんから強く勧められて食べてみたら美味しくて仕方がなかったこと。珈琲も他のものもきっと知られていないだけで努力をして美味しいものを作っている方は沢山いるのだということ。(かなり幅広く話した)
・珈琲は同じ豆でも植える土地が変われば品名が変わること。また同じコロンビアだとしてもどの国に近い土地かによってさらに細かい名前が別れていること。知らなかった。

自分でも珈琲を淹れることがあると話したら
「これはサービスなので。」
と言ってオリジナルのブレンドでドリップの様子を見せてくれた。
今まで見た事のないドリップの仕方で、でもその手つきがずっと珈琲を愛してただそれだけを追求してきた人のそれだということはすぐに分かった。
真似をしようというつもりは無いのだけれども物事を極めるとはこういうことなのだと知らしめられた感覚。
帰りがけに
「そういえば谷川俊太郎さんがそこの席に座って珈琲をのんでいったよ。」
と教えてくださったのだけど世間的にも個人的にもとてもタイムリーだったのでそんな所にも運命的なものを感じざるを得なかった。

これまではいつも旅に出る時にはお気に入りのフィルムカメラ(プラウベル マキナ67)を持って行っていい出会いだなと思ったら撮らせてもらうこともあったのに、朝フィルムの装填をの仕方をきちんと思い出せないことで置いてきてしまったことをこんなに後悔したことは未だ嘗てないよ。
スマホ(デジタル)は違うなと思って写真は撮らせてもらわなかったけれど必ずまた伺って、その時には必ず。

お店を出た頃には時計の針が閉店時間の19時をとうに回っていた
たくさん話してもはや自分が取材をさせてもらったのではないか、と思うほどに。


自分以外にとっては無価値なものだとしても、ずっと忘れたくないのでここに記しておこうと思う。

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