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ハマス、イスラエル、そして私の肩の上の悪魔(チャールズ・アイゼンスタイン)

訳者より:これまで親イスラエルの立場を取ってきたRFKジュニアの大統領選挙運動顧問として、米国とイスラエルの関係に否応なく向き合っているチャールズ・アイゼンスタインですが、10月7日に起きた紛争について書き始めました。どちらかの側を支持し、敵と味方、善玉と悪玉という考え方にとらわれ続けるなら、報復の連鎖から抜け出すことは不可能だと説きます。標題のエッセイを書いてすぐ、歴史的経緯を含めた「訂正」が発表されたので、その2編を合わせて翻訳しました。この内容を肉声で語った動画(リンクを張っています)もあわせて発表されていて、文字では伝わらないものを感じて欲しいと著者は言います。(動画は自動翻訳でそれなりに理解できると思います。)


ハマス、イスラエル、そして私の肩の上の悪魔

チャールズ・アイゼンスタイン
2023年10月13日

可能なことはすべて試したが、どれもうまくいかなかった。いま我々は不可能を可能にしなければならない。
– サン・ラ

ご存知の方も多いと思いますが、私はロバート・F・ケネディ・ジュニアの大統領選挙運動で顧問を務めていて、イスラエルと西アジアに関する彼の最近の発言には深く失望しています。イスラエル・パレスチナ問題で意見の相違があっても、私が彼を支持してきたのは、彼が考えを改めると期待させるような個人的資質が彼にはあると、私には見えるからです。しかし、多くの人々が私に求めているのは正気や明晰さ、あるいは時事問題に対する平和的な視点なので、私は最近の出来事について私なりの声明を出すよう求められているわけです。これは選挙運動や候補者の立場ではありません。でもそうなることを願っています。

イスラエルに対するハマスの攻撃の恐るべき残忍さ、そしてガザの人々に対する報復的殺戮が桁違いに大きくなるという見通しを調べてみて、一つだけ誰の目にも明らかなことがあります。パレスチナとイスラエルの指導者たちが二世代にわたって行ってきた政策は、どちらも彼らが達成しようとしたのと正反対のことをもたらしたのです。

抑圧、排除、投獄、暴力、暗殺、壁、フェンスによって、イスラエルが安全になったわけではありません。

暴力的抵抗、ロケット弾、テロ攻撃によって、パレスチナ人が土地を取り返すことも、意味のある自決権を得ることもできていません。

私がここで何か発言すれば、私がどちらの側にいるのか、誰かが解読しようとするのを避けることは難しいでしょう。ハマスの攻撃が正当化されると私は思っているのか? イスラエルの壊滅的な反撃が正当化されると私は思っているのか? 誰が正しい側で、誰が間違っている側なのか?

この手の質問が表しているのは、血なまぐさい復讐の連鎖が継続し増長するのを確実にする考え方です。ある時点で私たちは選択を迫られます。私たちは復讐を望み、悪人が罰せられ、善人が正当だとあかされるのを見たいのでしょうか? それとも恐怖が無くなることを望むのでしょうか? これは両面主義でもなければ、精神的迂回主義でもありません。それは現実的な選択です。昨夜、私はベンジャミン・ライフとの対談を録音しましたが、その話題はこの選択の本質と、個人的レベルでの着地点でした。[訳註:その音声は原文の末尾に公開されています。]

自称Xという(でも私は常にツイッターと呼ぶ)プラットフォームでの最近の投稿で、アイザック・ソールは重要な洞察を提示しています。

ハマスが解放のためにイスラエル人を殺しているとは思いませんし、和平のためにやっているとも思いません。彼らがこのような行いをしているのは、この紛争で誰かを失った、虐げられたパレスチナ人の肩の上にいる悪魔を、それが象徴しているからです。彼らは復讐したいからやっているのです。彼らはスコアをイーブンにし、血には血で応えるという人間として最悪の衝動に駆られていますが、双方の国民が耐えてきたことを思えば、そのような傾倒に屈するのは簡単なことです。彼らの論理を理解するのは難しくないはずです。人間がこのような状況に追い込まれ得るということを受け入れるのが難しいだけです。ハマスを擁護しないというのは非常に低いハードルです。どうか、それを乗り越えてください。

これは事実であり、限りなく重要なことです。私はそれをもっと先へ進めたいと思います。ソールが言っているのは、ハマスを「擁護する」とか「擁護しない」などという目くらましはもうやめようということです。ハマスの行動に弁解の余地のないのが明らかなことは、理由のほんの一部にすぎません。もっと大きなことは次のような問いです。ハマスの行動において誰が「擁護」されるべきか、誰が正しく、誰が間違っているのか、誰に「自衛権」や「弾圧に武力で抵抗する権利」があるとして正当化されるか…。その全ては、復讐の根底に最初からあるのと同じ考え方や前提に通じています。

このような区別のおかげで、何をすべきか、どう対応すべきか、誰を殺すべきかを、いとも簡単に知ることができます。私はここ数日、別の観点から最近の出来事について読み、聴き、感じ取ってきました。別の問いと言いたいところですが、問いであれば、それは言葉にならないものです。それは尋問であり、どうして?なぜ?という原初的な苦悩に満ちた戸惑いです。何が人間をそのような行為に駆り立てるのでしょうか?

このような問いかけは恐怖の本当の原因を理解しようとするもので、「彼らはただ邪悪なだけだ」とか、「邪悪な宗教に狂わされている」といった誤った理由に落ち着くものではありません。ソールの記事は全文を読む価値がありますが、その中で彼は復讐の大発生をもたらした状況を情熱的に詳述しています。1948年のナクバ[イスラエル建国に伴いパレスチナ人の強制退去と虐殺が行われた惨事]だけでなく、何千年にもわたるユダヤ民族の離散と虐殺を通して、この地域の歴史を理解すればするほど、「悪」という擬似的な説明では納得できなくなります。事態の大きさと複雑さを理解したとき、最初の最も実りある反応は戸惑いです。それは、どうしたらいいのか分からないという実感です。お馴染みの対処のパターンが、そのもとになる凝り固まった筋書きとともに崩壊します。それはたとえば、イスラエルを地上から消し去ろうとする執拗な攻撃作戦で罪のないユダヤ人を殺害するテロリストや、アラブ人を二級市民として扱う残忍なアパルトヘイト社会を支配する植民地入植者といった筋書きです。善と悪。被害者、加害者、そして救済者。これらの物語が何の役にも立たないわけではありません。それぞれが何かを明らかにします。しかし、それらが見逃していることの方がはるかに重要です。

戸惑いが実りあるものだというのは、人間を幾度となく地獄に突き落としてきたドラマへの反射的な固執から、一歩離れることになるからです。

抑圧された全てのパレスチナ人だけでなく、政治的であれ、結婚、仕事、その他の人間関係であれ、不公正を受けた全ての人間の肩の上にいる悪魔は、不満が深ければ深いほど力強く話しかけます。私の肩にも悪魔がいますが、私の不満は軽いので、彼はささやくように話します。「聖なる地」の人々はそうではありません。この悪魔の暴言にここまで多くの燃料を与えた場所は、地球上でもほとんどないでしょう。この悪魔の名は「復讐」です。彼の住み処は独善です。彼の宿敵は「赦し」です。

私がケネディ・ジュニアに失望しているのは、彼が間違った側を支持していると思うからではありません。一方の側を支持しているからです。私たちに必要なのは、より良い世界を実現するための公式としての征服が悲劇的であり、その失敗が必然なのを認識している指導者なのです。彼がパレスチナ人の苦難について発言に含めないのは、一方を支持することの現れです。二世代にわたって暴力と屈辱にさらされてきたガザ住民のような絶望的な人々は、発火を待つ怒りへの火種となります。クリス・ヘッジスはこう言います。

イスラエルや国際社会は何を期待しているのだろうか。地球上で最も人口密度の高い場所の一つであるガザに、16年にわたって230万人もの人々を閉じ込め、その半数は失業者で、もう半数は子供だというのに、彼ら住民の生活を自給自足のレベルまで落とし、基本的な医療用品、食料、水、電気を奪い、攻撃機、迫撃砲、機甲部隊、ミサイル、艦砲、歩兵部隊を投入して、非武装の市民を無差別に虐殺しておきながら、暴力的な反応を予想しないなどということが有りうるだろうか?

極度に緊迫し、二極化した環境の中で、これを正当化の理由としてではなく、本当にあるがままのこと、つまり説明として読み取ることは到底できません。善悪の対決という考え方の中では、邪悪(またはそれを意味する隠語)以外ならどんな説明でも、何をすべきか、誰を殺すか、「我々」は何者かということを簡単に分からせる物語を打ち壊します。イスラエルが今年、ヨルダン川西岸地区で47人の子どもを含む約250人のパレスチナ人を殺害したという事実を語るとき、それを攻撃の正当化だと受け取らない人はほとんどいません。それは正当化などではありません。しかしそれは、ハマスのテロリストの肩の上にいる悪魔がなぜあれほど説得力を持っていたのか理解するために、欠かせない情報の一部なのです。

同じ悪魔が今、イスラエル人の耳元で叫んでいます。ハマスのテロリストたちの行いが、平和や解放のために何も成し遂げることなく、ただ復讐を果たしたように、イスラエルもまた、どう対応するか選択を迫られているのです。安全を求めるのか? それとも復讐を求めるのか?

この二つが相反する目標だということは、すぐに分からないかもしれません。あなたが報復して「敵に代償を払わせ」れば、より安全になったのではありませんか? 復讐で敵を完全に根絶できれば、さらに安全になるのではありませんか? いいえ。そのとき起きるのは、復讐が新たな敵を際限なく生み出し、あなたは「安全保障」という立場へと追いやられますが、そこで決して本当の安全は得られないのです。

復讐の連鎖は善悪対決のパラダイムに直接関連しています。自分たちの側の暴力行為は、自分たちの堅持する物語の中で「正当化」され、相手側の暴力行為はすべて「不当」とされます。正当化された行為は良い行為である。不当な行為は邪悪な行為である。相手側は悪行を際限なく繰り返す。奴らは邪悪なものに違いない。この判断は、愛する者を傷つけられ殺された悲しみと怒りの全力を帯びて、知性が持ちうる全ての証拠と論理をその大義名分へと誘導します。

自分たちが善で相手方が悪だという区別がひとたび定着してしまえば、どんな行為も正当化されるというのは、結局のところ、それは善が悪に対して打つ一撃だからです。それは、野心的な大国が国民の悲しみや怒りを、単なる復讐ではなく、自分たちの支配を邪魔するあらゆる敵へと振り向ける道筋なのです。それこそ、イラクが9.11テロ攻撃とは無関係であるにもかかわらず、アメリカが国民の怒りをイラク征服に利用した方法なのです。しかし仮にそれが本当で、アメリカが侵攻を「正当化」できたとしても、結果は同じだったでしょう。暴力が増え、テロが増え、安全が損なわれるのです。

哲学者のルネ・ジラールは、復讐の連鎖を社会的危機の原型と見なしました。それは歴史より古いものです。報復行為のひとつひとつが、さらなる報復の原因となるので、復讐は自動的に続きます。残虐行為のたびに自制心がさらに緩むので、自動的にエスカレートしていきます。ジラールは二つの可能性を示しました。第一は社会の崩壊です。第二の可能性は、報復的暴力がもつ怒りと血の渇望を、復讐する手段を持たないスケープゴートや非人間化された犠牲者階級に振り向けて、社会を修復することです。

しかし、第三の可能性があります。どちらの当事者も、復讐への参加を拒否するだけでエスカレートする復讐の連鎖を断ち切ることができます。これが赦すということの意味です。それが意味するのは、自分を不当に扱った者たちを苦しめたいという欲望や意図を手放すことです。赦しを薄めた形が自制です。肩の上の悪魔がせき立てる行動よりは、害が少し減ります。自制により暴力は管理できるレベルに抑えられます。自制はまた自己強化的でもあるのは、抑制された反応は自分の側が純粋に悪であるという相手側の物語を餓死させるからであり、その物語こそが無制限の暴力を許してきたからです。

赦しはさらに強力なものです。もしイスラエルがこう言ったとしたら、その反響を想像してみて欲しいのです。「私たちの復讐への思いは強いものだが、もっと強いのは聖地における暴力の連鎖を止めたいという願いだ。」その上で次のような(ウィリアム・ストレンジャーが私に提案した)計画をイスラエルが提唱したらどうでしょう。

(1) 即刻、全ての当事者が軍事行動を全面的に停止し、
(2)ガザおよびヨルダン川西岸両地区の政府を直ちに停止し、中立的な国際統治・平和軍(IGPF)で一時的に置き換え、イスラエルへのさらなる攻撃を阻止するために武力を行使し、その恐れのある過激派を逮捕し、必要であれば殺害する権限を与え、
(3)国連安全保障理事会決議1397(二国間解決)に従い、イスラエル・パレスチナ紛争の最終的な地位解決を交渉することを任務とする国連安全保障理事会の特別委員会を直ちに招集し、
(4) IGPFが管理・監視するガザへの水、食料、医薬品、電力の供給を回復し、
(5)イスラエル人とパレスチナ人のいずれかが拘束しているすべての人質と囚人を、IGPFの完全な保護下に置く。

通常、党派支持者はこのような提案を「弱腰だ」として却下します。しかし、イスラエルがその気になれば、ガザを木っ端みじんにして領土内の生きとし生けるものを皆殺しにする能力があることを、本気で疑う者はいません。イスラエルは結局のところ、少なくとも100発の核弾頭を保有しているのです。自制を超えて復讐の連鎖を止めることは、弱さではなく英雄的な勇気を示すことになります。

ハマスのテロリストたちが10月7日の攻撃で示したのは、自制心を捨てて人間の最も凶暴な衝動を解き放つと人間が何をするかということです。そして今、イスラエルに試練が訪れています。イスラエルも自制を放棄することを選び、次の国もそれに倣い、その次の国もそうするならば、残虐行為はエスカレートして地球全体を巻き込むでしょう。膨大な核兵器が存在する世界において、どこかの誰かが核兵器の使用を控えることを選択するよう願ってやみません。


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ハマスについての訂正

チャールズ・アイゼンスタイン
2023年10月17日

友人のジョディ・エヴァンスから、私の前回のエッセイで誤解を招く表現があると指摘されました。それを正しておきたいと思います。「パレスチナとイスラエルの指導者たちが二世代にわたって行ってきた政策は、どちらも彼らが達成しようとしたのと正反対のことをもたらしたのです」と私は書きました。それに続き、パレスチナ指導者の政策の例として「暴力、テロ、ロケット弾攻撃」を挙げました。

この発言には二つの問題があります。その一つ目は省略されている点です。そう、パレスチナの抵抗運動によるテロ行為はヤーセル・アラファトの時代にまでさかのぼります。しかし、パレスチナ人は多くの非暴力的な平和運動も展開しており、例えば2018年の「帰還の行進」では、数千人の若者が国境フェンスの撤去とガザ封鎖の撤廃を求めて歩きました。彼らが得たのは、何百人もの死者と、膝頭や足首の狙い撃ちで何千人もの負傷者を出したことだけでした。パレスチナの指導者たちの政策を説明する際に、このような非暴力的な平和行動を含めなかったことで、私は彼らが暴力しか試みていないという誤った印象を与えてしまいました。

私がこの歴史を知らなかったわけではありません。じつは、私にはパレスチナの平和活動家の友人がいます。私が言いたかったのはこんなことです。「パレスチナ指導者たちの政策には、特にテロと暴力のように、彼らの意図とは正反対の結果をもたらしたものがあります。」

第二の問題は、私が「パレスチナの指導者」と言及したことで、第一に、それが決して一枚岩ではないこと、第二に、より重要なこととして、それが完全にパレスチナ人の創り出したものではなく、長年イスラエルによる激しい操作を受けてきたことが、不明瞭になっていることです。ハマスが作られた時からイスラエルの資金援助を受けているのは、PLO(パレスチナ解放機構)に対抗するためでした。イスラエルはパレスチナ人の統治が分断されることを望んでいたので、ガザではハマス、ヨルダン川西岸ではPLOの台頭を支持しました。

ハアレツ紙の最近の意見記事には、ネタニヤフ首相についてこう書かれています。

彼の人生をかけた仕事は、イツハク・ラビンからエフード・オルメルトに至る彼の前任者たちが国家の舵を取ってきた航路から離れ、二国家解決を不可能にすることだった。この目標を達成する過程で、彼はハマスというパートナーを見つけたのだ。
「パレスチナ国家の樹立を阻止しようとする者なら、ハマスの支援とハマスへの送金を支持しなければならない」と、ネタニヤフは2019年3月に彼の政党リクードの国会議員の会合で語った。「これが我々の戦略の一部であり、ガザのパレスチナ人をヨルダン川西岸のパレスチナ人から隔離することだ。」

ですから、パレスチナの指導者が真空の中に存在しているかのように語ることはできません。

また、(論点を拡大しますが)イスラエルの指導者についても、真空の中にいるように語ることはできません。私の大きな論点は変わりません。イスラエルの行動を歴史の流れから切り離すことはできず、その中にはポグロム[ユダヤ人に対し自発的計画的に広範囲に渡って行われた暴力行為]、ホロコースト、そしてアメリカ帝国国家の策略があります。アメリカは数十年にわたってイスラエルを手先として使い、クーデター、CIAによる暗殺、地域全体の残忍な政権への支援を通じて、自国とイスラエルの両方に対する憎悪を煽ってきました。

私の大きな論点は、非難することのむなしさと、それが引き起こす復讐の連鎖のことでした。もし私たちの説明の雛形が、常に誰が正しくて誰が間違っているかを探し求めることだとしたら、誰が無実で誰が有罪か、誰が善で誰が悪かを探し求めることだとしたら、何千年にもわたる泥沼から抜け出すことはできません。そのような概念が無効だということではありません。私たちが必要とする理解を与えてはくれないということです。ですから、非難するのではなく、理解しようと努めましょう。前の記事の読者の中には、理解しようとすることは何も行動を起こさないのと同じだと考える人もいるようでした。共感は不作為を意味するのだと。いいえ、そうではありません。理解こそが行動を効果的なものにするのであり、無知で行き詰まったパターンから私たちを解放してくれるものなのです。

明日は、その心理と政治についてより深く掘り下げた動画を掲載する予定です。その題名は「もし本当に止めたいと私たちが思うなら…」です。


原文リンク1:https://charleseisenstein.substack.com/p/hamas-israel-and-the-devil-on-my
原文リンク2:https://charleseisenstein.substack.com/p/a-correction-on-hamas


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