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ロバート・ケネディ・ジュニア氏の選挙活動中止発表を受けて(チャールズ・アイゼンスタイン)(その2)

訳者コメント:
2024年のアメリカ大統領選挙で無党派の候補として立候補していたロバート・F・ケネディ・ジュニア氏が、選挙運動を中止しドナルド・トランプ氏の陣営に加わると、8月23日に発表しました。ケネディ氏の選挙顧問を引き受けていたチャールズ・アイゼンスタインは、ケネディ氏の頑固なイスラエル支持に心を痛めながらも、アメリカ社会を覆う分断を癒すために助言を重ねてきました。ケネディ氏の撤退表明を受けて、チャールズが心の内を語ります。長文のエッセイなので3部に分けて掲載します。
 第2部は、トランプの戯画化されたイメージの下にある本当の人物に光を当て、戯画がいかに対決の中で作られたものであるかを見ていきます。

原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/shades-of-many-colors


その1から続く

戯画への崩壊

私は糾弾きゅうだんや支持というゲームをするつもりはありません。「あなたはどちらの側にいるのか」という心理社会的なパターン化は、〈分断〉の神話の主な物語のひとつから生まれています。そこでは、世界を善悪対決のドラマに単純化して理解し、そのドラマの中で役割を演じる人間を非人ひにんか超人かという戯画に単純化します。

いま、ドナルド・トランプほど戯画化された人物はいません。この人物を悪者呼ばわりする読者、あるいは持てはやす読者を失望させたくないのですが、この時点で舞台裏への通行証のようなものを持っている私が言えるのは、どちらの極論も真実には程遠いということです。 今日の情報戦争の霧の中で、本当の人間を見ることはほとんど不可能です。

彼は4次元チェスでディープ・ステートの裏をかく戦略の天才ではありません。復活した極右勢力を率いて独裁権力を握ろうとするムッソリーニのように偏屈なファシストでもありません。特に右翼というわけでもありません。ケネディは、ヘリテージ財団が米国の保守的な改革プログラムとして提唱した「プロジェクト2025」について、トランプと交わした会話を私に語ってくれました。これはトランプ陣営と広く関連付けられていますが、ケネディがそれについて尋ねると、彼はこう答えました。「あれか? みんなが文句を言い始めるまで知らなかったよ。右翼のクソ野郎が書いたんだ。どのページにもバカなことが書いてある。あんなことをするつもりはないよ。」

この逸話はケネディ自身が公表しているので、ここに共有しても問題ありません。個人的信頼を裏切ることなく紹介できないような逸話は他にもたくさんありますが、それらが裏付けている私の長年の信念があって、それはドナルド・トランプという人物像が、実際よりもずっと悪く(あるいはずっと良く)仕立て上げられているというものです。

「ジョーカー」 ケーリ・アイゼンスタインによる鉛筆画

ドナルド・トランプは、良きにつけ悪しきにつけ、投影を受け容れる器です。彼の名字が「トランプ」であることは宇宙的なジョークのようなものです。「トランプ」とは、トランプカードのジョーカーであり、ワイルドカード、つまりどんなカードにもなりうるカードです。つまり、ドナルド・トランプは、人々が望むどんな人物にでもなり得るということです。これは彼を高めることにも貶めることにもなります。彼の欠点や美徳が何であれ、彼は間違いなく才能あるショーマンであり、スペクタクルの創造者であって、それこそがジョーカー、ジェスター、トランプと呼ばれる人に期待されるものなのです。ショーマンは投影を受け容れるので、観客はヒーローであれ悪役であれ、彼の中に彼ではないものを見ることができます。彼はくうであり、社会の分裂を人間の形で具体化するための代理人なのです。それゆえ、彼はこうした分裂を癒す機会を体現しているのでもあります。その機会は彼が握っているのではありません。それを握っているのは私たちであり、悪魔化や賞賛を断ち切ってトランプという仮面の下にいる人間を見ることで、私たちはそれを選択することができるのです。

私が見る限り、トランプは前回の大統領在職時代から大きく変わりました。2017年とは異なり、彼と彼を取り巻く人々は今、アメリカを2001年以来、次から次へと軍事衝突に追い込み、ロシアに対して最大限の対決姿勢を追求しているネオコンに、深い反感を抱いています。この原稿を書いている今、レーダー回避能力を持った長距離のJASSMジャズムミサイルをウクライナに出荷することをアメリカが承認する予定だと、ロイターは報じています。このミサイルは(もちろんアメリカによる訓練と、標的設定、スパイ情報を利用して)モスクワを攻撃できるものです。カマラ・ハリスはこの非常識な急拡大に何の抵抗も示していません。彼女の語り口は、どちらかといえばバイデンよりも好戦的で、ディック・チェイニーのようなネオコンの支持を得ています。一方、トランプは交渉による和平を望んでいます。彼の他の政策について言えば、民主党より良いものもあれば悪いものもあります。どのように描写されているかを別にすれば、どれも特に過激なものではありません。例えば、彼は中絶を禁止しようとはしませんし、同性愛者を一網打尽にしようともしません。私が心配しているのは、鉱山、木材、石油・ガス会社による公有地の荒廃を加速させるのではないかということです。私はまた、ロシアとの直接衝突の瀬戸際から引き下がると、ネオコンの計画の次の段階であるイランと中国に戦争マシンの「軸足」を移す動きに対して、彼が脆弱になることも心配しています。トランプと、残念ながらケネディも、米国とイランの戦争を煽ろうとするイスラエルのイデオロギー的根拠を受け入れています。(詳しくは後述します。)明るい面としては、権威主義的独裁政権が誕生するのではないかというリベラル派の懸念に反して、バイデン政権下で危険なまでに強化された検閲、監視、秘密主義、メディア統制を後退させ、情報機関の力を断ち切る可能性が高いと私は考えています。(これらはトランプが強く共鳴するケネディの優先事項です。)そのわけは、権力闘争の武器となった司法制度によって、トランプ自らが検閲され起訴されたことに腹を立てているからです。

トランプの政策案を列挙し、民主党のものと比較することもできますが、やめておきます。それには二つの理由があります。第一に、私がここで言いたいのは、カマラ・ハリスと比較した候補者としての相対的な優劣を論じることではありません。むしろ私が言いたいのは、複雑で変化しやすい人物を悪の戯画に陥れるようなシナリオは擁護できないということです。そして、まさにこの物語が、彼と彼に連鎖的につながる人々を、礼儀正しい社会での不可触民としているのです。

この選挙が善と悪の単純な戦いだったなら、確かに物事は簡単だったでしょう。でもこの考え方が世界を引き裂いているのです。そう考える人たちが常に自分こそ善玉チームの一員だと考えているのは、もちろんのことです。対戦相手が悪の化身なら、それを阻止するためにはどんな手段でも正当化されます。ですから、ドナルド・トランプが純粋な悪(あるいは、非人間的な同列の存在)ではないと言ったり、彼を侮蔑するようなことを言わないでいると、善玉チームの怒りを買うことになるのは、それが彼らのアイデンティティと世界に対する理解に反するからです。私がトランプの意見に賛成や反対の意見を言ったり、トランプの考えのいくつかには一理あると言ったりしようものなら、彼らは気を悪くします。そのわけは、私が彼を完全な人間へと昇格させることになるからです。彼が礼儀正しい社会の一員だと認めることになるからです。

そういう人たちは、トランプの犯罪や不品行、言動の数々を並べ立て、私がトランプを正気と共感と感情を持った人物だと勘違いして信じ込まされている証拠だと言うでしょう。確かに彼は聖人ではありません。しかし、つまみ食いと脱文脈化、誇大広告と曲解、物語の操作とメディアの武器化が横行する情報戦の文脈では、トランプが民主主義にとって唯一無二の危険人物であるという話には疑念を抱かざるを得ません。「彼は白人至上主義者を増長させ、人種差別、同性愛嫌悪、移民排斥の暴力の津波を巻き起こすだろう。」「彼は選挙結果を受け入れないと表明している。」疑ってみましょう。黒人、ゲイ、ラテン系のトランプ支持者に話を聞いてみましょう。1月6日の暴動[アメリカ議事堂乱入事件]について別の見解を読んでみましょう。そうすれば、白と黒は様々な色のグラデーションへと溶解していきます。

アンチヒーロー物語の要素は疑ってかかる必要があります。そして、単純化された世界観と、トランプの(あるいは他の誰であっても)そのような描写をすぐに受け入れてしまうこのような思考の習慣には、さらに警戒しなければなりません。

その習慣は左派に劣らず右派にも蔓延しています。どちらもまず嘲笑、軽蔑、侮蔑をします。どちらも相手に対して最大限の憤りを呼び起こす戦略を追求します。どちらも憎しみの炎を燃やし、米国と世界の状況を爆発寸前にします。右派は特に今、移民に対してそれを行い、不法な大量移民を「侵略」と決めつけ、移民の中に犯罪組織がいることを強調します。そのレンズは一片の真実を明かしてくれるかもしれませんが、明かすより多くのことを隠し歪めます。

「問題」に含まれる問題

トランプとハリスの政策比較に時間をかけない第二の理由は、政策全体の話に使われる言葉が浅すぎるからです。本当になすべきことを、政策の語彙では明確に述べることができません。そのような言葉の範囲外なのです。二極化し分裂する議論は私たちが本当に話し合うべきことを曖昧にし、政治家が私たちに提示する選択肢のメニューは本当の解決策を見えなくしてしまいます。

移民の例に戻りましょう。論争の焦点は、国境の壁の建設と移民の強制送還です。その選択肢の範囲内で意見を述べることもできますが、それでは本当の問題、そもそもなぜこれほど多くの移民がいるのかという問題を、無視していることになります。他の多くの国々は、米国が支援する戦争や、生態系の破壊、新植民地主義の組織によって、実質的に居住不可能な状態にあるからです。故郷を捨て、今まで馴染んだもの全てを捨ててまで、異国の地へ危険な旅をするように人々を追い立てるというのは、相当なことです。しかし、債務の重圧によって森林や鉱物をはぎ取られ、緊縮財政計画によって給与や年金をカットされ、開発計画によって伝統的な生活様式が破壊され、国際的な通貨投機家によって通貨が暴落すれば、生活は年々悪化し、多くの国民が困窮に陥り、進取の気性に富んだ人々は国外に逃亡します。別の見方をすれば、その国から価値のあるものをすべて輸出し尽くしたとき、最後に輸出されるのは若者です。

さて、この説明はまだ単純すぎますが、移民は我らと彼らの対決の問題ではないという真実を伝えています。移民の大量発生は、より深刻な病の症状ですが、受け入れ国にとって有害であるにせよ、送り出し国ではもっと大きな苦しみがあることを意味しています。

移民問題の本質は、帝国主義と債務問題です。これらは今の世界を支配している金融システムと切り離すことができず、そこではお金が有利子負債として生まれ、その結果として成長経済を必要とし、そのため十分な見返りを求める資本を海外に向かわせ、自然資本や社会資本を換金するようあらゆる国の政府や社会に圧力をかける…といった具合に連鎖していきます。このどれも、移民に関する政治的議論の一部になることはありません。取り組むことなく放置すれば、移民の圧力が衰えることはなく、アメリカのような社会は国民を二分して道徳的に不可能な選択を迫られ続けることになります。

貿易、教育、公衆衛生、外交政策、人種、トランス・ジェンダー、銃、刑事司法、中絶などといった他の「問題」についても、同様の指摘ができます。もう一つ簡単な例を挙げましょう。ケネディ陣営が、そして今トランプとハリスが、保育補助金を問題にしています。もし保育が現代の親にとって必要不可欠なものであるならば、誰にとっても手の届くものである方がいいに決まっています。しかし、村や一族はおろか、共同体や大家族も崩壊し、最も親密で大切な活動の一つである子どもの世話を、赤の他人に(それも低賃金で)やらせる社会に対して、なぜ私たちは恐怖の目を向けないのでしょうか?

ケネディ陣営内では、少なくとも哲学的なレベルでは、こうした私の見解に一定の理解を示していました。ある程度はメッセージや政策にも浸透していました。しかし選挙運動のほとんどは極めてありきたりなものでした。人々が理解できる政治的な言葉を話すためには、そうする他なかったのだと思います。また、選挙運動が私の考えを全面的に採用する大胆さに欠けていた(あるいは採用しない良識があった)としても、少なくともケネディ候補の発言はおおむね同じ方向を向いていました。

しかし、それに当てはまらない明らかな例外が以前からあり、今も変わりません。それがパレスチナ問題です。

その3に続く


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