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分断とインタービーイング (トランスヒューマニズムとメタバース その5)

訳者より:コロナ禍がもたらしたロックダウンは、安全なバブルの中に閉じこもるメタバースへの衝動と同じ根っこから発生したものでした。ロックダウンは心にも体にも別の病をもたらすことに気付くとき、関係性を断ち切るメタバースのもつ危うさが見えてきます。チャールズ・アイゼンスタインの長編エッセイ『トランスヒューマニズムとメタバース』日本語訳、今回はその第5回。(こちらに第1回第2回第3回第4回。)


5. 分断とインタービーイング

シミュレートされた現実は物質的な現実に取って代わることが本当にできるのだろうかという広い問いに、ちょっと戻ってみましょう。それはあるレベルでは技術的な問いで、コンピュータの計算能力などによって決まります。別のレベルでは抽象的な問いになります。宇宙をデータに落とし込むことはできるのだろうか? 宇宙は離散的なのか連続的なのか[訳註3]? あらゆるものは測定可能だという、科学革命の基本的な信条は本当だろうか? その通りだという哲学者と物理学者がいるのは、物質的な現実そのものがシミュレーションであり、想像も付かないほど強力なコンピューターで実行されるプログラムだと彼らが考えているからです。個人的には、疑わしいと私は思います。私たちは常に、その時代の装置を身体と宇宙に対して隠喩のように当てはめてきました。機械の時代においては、身体は込み入った機械であり、宇宙はばらばらの部品でできた決定論的な[つまり完全に予測可能な]機械でした。コンピューターの時代においては、脳はデジタルの生物組織でできたCPUとメモリーを持つコンピュータで、宇宙はソフトウエア・プログラムだと考えることを選びます。

シミュレーションは常に現実に及ばず、量からは常に質が取りこぼされ、子供の発達段階を模擬するようプログラムされたAI赤ちゃんが本物の人間と同じになることはけっして無いというのが本当なら、デジタルメタバースや皮肉や絶望の下に横たわる虚無感は、決して消え去ることがないでしょう。でも正直なところ、メタバースについての私の懸念は抽象的な信条とは関係ありません。

機械と人間、脳とコンピューターの統合を進めるのに何も悪いことはないかもしれないし、人々がバブルの中に住み、デジタルゲームの世界でバーチャルの友だちとだけ付き合うのに、何も悪いことはないかもしれないと、公平な心で言うことはできます。でも実際、私はそれで良いとは全く思いませんし、むしろ、それで良いという感じが全くしないと言うべきかもしれません。現代の子供たちが身体的に安全な世界にどっぷりと浸かり、寝室から一歩も出ることなくバーチャルの冒険をし、ボール投げや縄跳びもできず、付き添いなしで想像力を働かせ集団で遊ぶという体験が全く無いのを見ると、私は苦悩で引き裂かれそうになります。スマホ中毒になった子供の苦しみを自業自得だと責めることはしませんし、親のせいでもありません。思い出すのは、今は大人になった私の息子たちがまだ小さかった頃、外遊びに送り出したときのことです。子供たちは外に長い間いるのを嫌がりましたが、それは外にいても一緒に遊ぶ子が誰もいなかったからです。私たちはもう既に文化として、少なくとも実世界で体を使う遊び方を忘れつつあったのです。

思い出すのは、ジカ熱の患者が州で1人出たからといって、ある隣人が子供を外に出さなかったことです。明らかに、その恐れは何か別のものへの無意識の恐れが形を変えたものでした。現代文化の中で本当に安心できる人がほとんどいないのは、現代になって物質世界から閉め出されたことで自分の存在そのものが不安にさらされているからです。そこは居心地が悪く、自分の場所にいる気がしません。世界は「他者」に作り替えられ、敵意に満ちていて、そこから自分を守らなければいけません。こういう人にとって、安全な殻の中で完全に飼い慣らされたデジタル世界は、たまらない魅力を放ちます。室内に置かれた画面の前に座っていれば、私の子供は安全なのです。

あるいは、そう見えるだけかもしれません。いずれは世界からの分断が身体と感情の病として現れるでしょう。意義深いのは、現代の本当のパンデミックは自己免疫やアレルギーなどの免疫機能障害で、自己の外側にあるものを制御してもこのような病を制圧できないことです。殺したり追い出したりすべきものはありません。ですから、そのような病が映し出すのは失われた真実です。私たちがぞんざいに破壊する「自然」は、私たち自身の一部でもあるということです。私たちは他の生命に相互依存しているどころではなく、全てが繋がった相互存在なのです。私たちが「自然」に対して行うことは、私たち自身に対しても行うことになる。それがインタービーイング(相互共存)と呼ばれる真実です。私たちがバーチャルのバブルの中にどこまで逃げ込もうとも、その真実から逃れることは決してありません。

その全く逆です。バーチャルのバブルの中に深く逃げ込むほど、私たちの疎外感は強くなり、ますます居心地が悪くなり、自分の場所から遠く離れていくように感じます。具体的な関係が無くなると、人は世界の中でヨソ者のように感じます。現代の根本的な危機は帰属の危機[つまり、密接な関係の失われる危機]です。その原因は生態系とコミュニティーに結ぶ私たちの関係が萎縮したことにあります。私は何者でしょう? ひとつひとつの関係が私とは何者かを語ります。日々目にする顔の裏側にある物語を知らないなら、植物の名前と使い方を知らないなら、ある場所とその人々の歴史を知らないなら、あるいは、アウトドアというのがヨソ者のたむろする観光地でしかないなら、あるいは、核家族の外に親密な仲間がいないなら、あるいは、人のことを良く知らず自分も良く知られていないならば、その人がほとんど存在するとさえ言えません。なぜなら、存在と関係性はイコールだからです。そこに残される不確かで孤立した個人は、いつも不安に苛まれ、簡単に心を操られ、名ばかりのアイデンティティーを売る商人の良いカモになります。その人は手近にある政治的に作り出されたアイデンティティーを何でも進んで受け入れ、「我らと彼らの対決」に乗ることではかない帰属感を得るのです。そして、デジタル世界の心地よさに、その人は簡単になだめられ、失われた物質的な関係をデジタルの関係で置き換えるのを受け入れます。

バーチャルのバブルの中にどこまで逃げ込んでもインタービーイングの真実から逃れることはできないと先ほど言いました。逃れることはできませんが、先延ばしはできます。もしかすると、逆説的ですが、私たちは避けられないことも永遠に先送りできるのかも知れません。世界が崩壊しても私たちは選択から逃げることはできません。新たな機能不全が起きるたび、新たな身体・精神・社会的な病が起きるたび、さらなるテクノロジーがそれを和らげるかもしれません。たまごっち子供はバブル生活の孤独を和らげることができないかも知れませんが、さいわい現代の神経科学は孤独感を作り出す神経伝達物質と受容体の正確な構造を解明しました。私たちはそれらを操作できるので、問題は解決です。もしそれが他の障害を引き起こしても、対策できないわけは無いでしょう。いつの日か、遺伝子や脳内化学物質や身体生理を完璧に制御できるようになった暁に、私たちはついに天国に到達するでしょう。テクノロジーの失敗を解決するテクノロジーの力には限界がありません。それはちょうど、先に書いた借金を借金の返済に充てる金融という抽象化の塔に限界がないのと同じです。でも私たちは決して天国にたどり着くことがありません。

どの場合でも、その塔とはバベルの塔に他なりません。それは有限の手段で無限を手に入れようとする企てを指す隠喩です。それはバーチャル・リアリティの完成を目指す探究のことですし、あらゆる天然のものに対して「改善された」もの(たとえば合成「ミィルク(Mylk)」や、遺伝子操作したイチゴ、人工子宮、オンライン・アドベンチャーなど)を作り出すことです。私たちはこの塔の建設計画に膨大な努力を費やしますが、いっこうに空へと近付いてはいません。確かに、私たちは空から遠ざかっているわけではありません。私たちは本当に高くまで登ってしまったので、落ちる高さも相当なものです。不安定な根無し草のような多くの人々が疑問視し始めるのは、元の文化と生態系のそこら中を虫食いにしているこの企てと、そのべらぼうに込み入った建造物です。

高さではなく美しさのために造るなら、文明はどのように見えるでしょう? 大地を置き去りにするための企てに、大地から得たものを使うことなど無かったならどうでしょう?

ジカ熱パニックが、それに続いて2020年に起きた社会的苦難の伏線に過ぎなかったのは、もちろんのことです。何週間も何ヶ月も続けて、家族全員がほとんど家から出ようともしませんでした。生活は加速度的にデジタルの領域へと逃避していきます。仕事、会合、学校、レジャー、娯楽、デート、ヨガ教室、会議などがオンラインに移行し、何百万人の命を救うためなら小さな不便だと言われました。それによって多くの命が実際に救われたかどうかには議論がありますが、ここで私が注目したいのは別の部分、つまり「小さな不便」の方です。本当に小さかっただろうか? 単なる不便だったのだろうか? デジタル生活は対面生活のほぼ十分な代用品だろうか? (もうすぐテクノロジーが進歩すれば十分になるのだろうか?)そのほとんどが、私が先に提起した抽象的な問いにかかっています。

ですがここで再び、心ではなく体にきたいと思うのは、デジタル生活は実生活の十分な代用品かどうかという問いです。ロックダウンのあいだ、自分がしおれていくのが感じられました。確かに、引きこもり生活も始めの頃は、「普通」の繰り返しから解放されたので、多くの人に歓迎されました。でも時間が経つと、おおぜいが感情的・社会的な栄養不良の兆候を示し始めました。最も厳しい規制を命令した政治家でさえ、自身がそれに違反しました。なぜでしょう? それはロックダウンが非人間的だったからです。生命の働きに反していたからです。

ロックダウンと社会的隔離が全く気にならず、もう普通に戻ることがないのならこれも良いという人もいたと思います。それは安全のためだと言うかもしれませんが、そこには何か別のものが働いているのではないかと私は思います。コロナ禍のあいだ私は小さなおりに慣れっこになり、ある種の広場恐怖症になりました。感染するのが心配だったのではなく、マスクやソーシャルディスタンスという医学的儀式が社会を襲ったことにビビっていたのです。ですから、コロナ禍の正統派とは理由こそ違え、私も部分的にはデジタル世界に引きこもりました。外に出るときは、ちょっとおっかなびっくりで、見知らぬ土地に足を踏み入れるような感じでした。コロナ禍の前でさえ世界に疎外や不安を感じていた人にとって、それがどんなものだったか想像してください。再び外へ踏み出そうにも、他の人たちより強い抵抗を感じ、メタバースがもたらす隔離バブルの恩恵を歓迎するかもしれません。

トランスヒューマニズム主義者の計略につながる何世紀にもわたる流れと深い無意識の物語について、私は先に述べました。それを単に、クラウス・シュワブ[訳註4]とその取り巻きによる世界を乗っ取る卑劣な計画として理解しようとするなら、私たちには全体像の99%が見えなくなります。ビル・ゲイツやクラウス・シュワブ、エリート技術官僚を生み出している力が見えなくなります。彼らに力を与え、公衆に彼らの計画を受け入れさせるイデオロギーが見えなくなります。このようなイデオロギーは、ゲイツやシュワブのような男たちの知的能力で発明できるレベルを遥かに超えています。じつは、それらはイデオロギーという言葉が示すよりもっと深いものです。それらは神話としか呼びようのないものの様相なのです。

第6回につづく)

原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/transhumanism-and-the-metaverse


訳註3:離散的とはコンピュータのデータのように1, 2, 3, 4…という飛び飛びの値をとること。画面を拡大していくとギザギザのピクセルが見えてくるようなもの。連続的とは拡大しても拡大してもそのような不連続なものが存在しないこと。

訳註4:クラウス・シュワブは、世界経済フォーラムを主催するスイスの経済学者。


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