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並列社会 (トランスヒューマニズムとメタバース その6)

訳者より:この節には著者のチャールズが幼い頃の1972年にヒッピーを目撃したことが出てきます。私も1970年代初頭のことは覚えていますが、「ラブ&ピース」の缶バッジが流行っていたけれど身近でヒッピーっぽい人は見かけませんでした。ヒッピー運動が盛り上がっていたのはもうちょっと前の1960年代で、ベトナム戦争が社会を覆っていました。日本にもベトナム反戦運動はあったらしいのですが、私自身がそのうねりを目撃することがなかったのは、対抗文化としての学生運動が過激化し自壊していった時期と重なるからかもしれません。日本は1970年の大阪万博に象徴される高度成長期で、進歩と発展のイデオロギーが押し勝っていたのでしょう。親たちが対抗文化に向ける冷めた視線を覚えています。そして今また戦いの暗雲が垂れ込める社会となり、主流文化を疑う価値観は再び意味を増していると思います。チャールズ・アイゼンスタインの長編エッセイ「トランスヒューマニズムとメタバース」日本語訳、今回はその第6回。(ここまで、第1回第2回第3回第4回第5回はこちらから。)


6. 並列社会

トランスヒューマニズムの未来に代わるものがあるとすれば、それは別の神話に基づくものであるはずです。でもその神話は、少なくとも物語と信条を構成している部分は、さほど重要ではありません。トランスヒューマニズムと超越主義に代わるものは、概して言えば物質世界との愛に戻ることです。人知を超えた創造というプロセスの中で他の生命たちの環に参加することこそ、人間の立ち位置なのだと受け入れることです。人類の超越を追い求めるのではなく、もっとまったき人間になろうと努めるのです。もう物質世界から逃れようとすることはありません。そのためにメタバースというデジタルの手段を使うこともなく、それをスピリチュアル化した世界に逃げ込むこともありません

ここで私が書いているのはそのことです。ここで私は、逃避から反転せよという呼びかけを概念化しようとしているのです。あなたがその言葉の裏にある肉声を聞き、声の裏にある肉体を感じ取ってくれることを望みます。

物質世界との愛に戻る人には、愛したものが思いもしないようなギフトをもたらすのが分かるでしょう。たとえば、私たちが隔離によって健康を維持しようとするのをやめ、微生物界や社会世界、自然界の風や水、日光、土との関係を抱きしめるなら、私たちが周波数、エネルギー、情報といった物質の繊細な特徴を認識するなら、病原菌を殺したり、体の一部を切り取ったり、体の働きを制御したりすることに頼らない、癒しの新たな展望が開けるでしょう。進歩をもたらすのは世界に秩序を押し付けることでなくても良いのです。もとから存在していながら表に現れない秩序の、ごくごく微細なレベルから、もっと大きなレベルまで、私たちが参加することによって、進歩はもたらされるのです。

1933年シカゴ万国博覧会のスローガンは現代の標語としても通用します。「科学は発見し、産業は応用し、人間は順応する。」これが必然だという信条は、これまで長い間テクノロジーの進歩という物語を織りなす重要な糸となってきました。科学とテクノロジーは進歩を続け、私たちはそれに順応するかどうか選択を迫られます。でも私たちは本当にそこまで無力なのでしょうか? 私たちはテクノロジーの道具に過ぎないのでしょうか? その逆であるべきではないでしょうか? テクノロジーの進歩を意識的に拒絶した注目すべき例は、数こそ少ないものの歴史の中に見つけることができます。19世紀初頭のラッダイト運動やその同時代のアーミッシュが思い浮かびます。ちょっと待って下さいね、今からこのタイプライターのリボンを交換しますからね。よし、と。脳コンピュータ・インターフェイスや、ウエアラブル・コンピュータ、人間の遺伝子操作、メタバース、モノのインターネットは必然的なものだと言うなら、そのことであなたには選択肢が無く、一般大衆にも選択肢は無いと宣言するのも同然です。おや、誰がそんなことを言うのでしょう? 選択の可能性を言わないでいる人がいたら、その人です。世界経済フォーラムのような選挙で選ばれたわけでもないエリート組織が、ある未来は必然的だと宣言するとき、この理屈は堂々巡りになります。もしかすると、完全な情報が与えられ、主権のある民主社会でなら、それは当てはまらないかもしれません。中央集権的な制度の権力を強化するようなテクノロジーは必然だと、中央集権的な制度が宣言するなら、そこに疑いの目を向けましょう。

おそらく人類の少なくともある部分は、物質から離れて上位に登るための探索を続けるのが必然なのでしょう。ユートピアへの野心が無駄だとしても、その探索によって創造性と美しさの新たな領域が見いだされるのは疑いありません。結局のところ、交響楽団や、映画、ジャズカルテットはすべて、以前からあったテクノロジーに頼っていて、それは人類が自然から離れていく過程の一部でした。美と愛と生命は抑えつけることができません。マトリックスの支配がどれだけ強く息苦しいものであっても、それらは至るところで吹き出します。とはいえ、「それは私の未来とは違う」というとき、私は決して独りではないのが分かっています。もっと実体を伴い、もっと土の近くで、バーチャル世界よりも物質世界の中で、もっと多くの身体的関係を持ち、もっと自分の医食の源に近く、もっと場所とコミュニティーに根付いていたいと願うとき、私は独りではありません。私は時おりマトリックスを訪れることはあるかもしれませんが、そこに住みたいとは思いません。

そのような並列社会の可能性が視野に入りつつあるという価値観を共有する人は十分にいます。メタバースで人間らしさを探究する人がいてもいいでしょうが、私たちがそこに住むよう強制されるのはご免です。むしろ二つの社会はお互いを補い合う関係になるかもしれません。いずれは共生する2つの生物種へと分かれていくでしょう。

その一方を「トランスヒューマン人」と呼ぶことにしましょう。そしてもう一方は、私の勝手な命名を許してもらえるなら、「ヒッピー人」です。私が初めて野生のヒッピーを目撃して以来、ヒッピーには愛着を抱いていました。それは1972年、ミシガン州アナーバーの公園でのことでした。長い髪と髭を生やした人たちを指差して、「あれは誰なの?」と私は母にききました。「ああ、あの人たちはヒッピーよ」と、母は淡々とした口調で私に言いました。4歳の私はその説明で完全に満足していました。

当時、ヒッピーは進歩というイデオロギーに疑問を投げかけました。彼らは人間発達の別の道筋(瞑想、ヨガ、幻覚剤サイケデリック)を探究しました。彼らは大地に帰りました。自分でカゴを編み、自分の小屋を建て、服を作りました。

トランスヒューマン人の特徴はテクノロジーとの融合を進めることです。生存はもとより生命の働きがどんどんテクノロジーに依存するようになります。免疫は絶えずアップデートを必要とします。支援なしで出産することはできません。帝王切開は当たり前になります(これは既に起きつつあります)。やがて、胎児は人工子宮で育て、人工「ミィルク」を飲ませ、AI乳母うばが世話をするようになります。彼らは常時VRとARの環境で暮らし、お互いに別々のバブルの中からリモートで交流します。物質的な生命は幾世代かの間に衰えていきます。最初は、ウイルスなどの危険がどれほど蔓延しているかにもよりますが、隔離されたスマートシティやスマートホーム、個人用防護バブルから定期的に出てきます。時が経つにつれて、家から出る頻度はどんどん減っていきます。必要なものはすべて配達用ドローンで届きます。精密に制御された環境に慣れきってしまうと、調整されていない屋外では生きられないので、ほとんどの時間を屋内で過ごします。(人々がエアコン依存症になったので、これは既に起きています。アメリカ人は平均95%の時間を屋内で過ごします。)彼らはますます多くの時間をデジタルでバーチャルなオンライン空間で過ごします。これを便利にするため、テクノロジーは脳と身体に直接組み込まれます。非常に高度な生理センサーとポンプで生体の化学反応を常に調整して健康を保ち、まもなくそれ無しでは生きられなくなります。脳の中では、コンピューター神経インターフェイスのおかげで、考えるのと同じ速さでインターネットにアクセスでき、テレパシーのように会話ができます。画像と映像は視神経に直接送り込まれます。公式発表も脳に直接届けられ、広告業者はコマーシャルを流し込む時間に応じて料金を支払います。自分の中に生じたイメージと外から送り込まれたイメージの区別は、やがて不可能になります。デマ情報の取締りも神経レベルにまで伸びてきます。やがて、脳がAIやインターネットと融合し、認識する能力もテクノロジーに依存するようになります。(またもやこれは、おそらく文字の発明とともに始まった、古代から続く流れが継続しているに過ぎません。読み書きのできる人々は記憶能力の一部を文書記録として外部化します。文字を持たない人々が、一千行もあるような詩を一度聞いただけで復唱できるというのも、珍しいことではありません。)

この社会では、基本的な身体機能や、社会交流、免疫、生殖、創造力、認識、健康は、全て商品とサービスの領域に入ります。新たな商品とサービスは新たな市場を、つまり新たな経済成長の分野を意味します。経済成長は負債に基づく貨幣制度が機能するために必須のものです。ですからトランスヒューマン人の経済は現在の経済秩序を継続可能にします。

ヒッピー人はこの道筋を歩むことを拒むばかりか、2022年にはもう普通になっているテクノロジー依存をある部分では押し返します。これもすでに起きていることです。私の子供たちは私自身のときに比べて少ないテクノロジーの介入で誕生しました。ヒッピー人は製薬会社の健康製品から手を引き、高いリスクや短い余命を受け入れる場合もありますが、長期的にはより活力に満ちた人生を送ります。誕生は自然出産に戻ります(もう既に戻りつつあります)(2)。現代社会を特徴付ける高度な分業を、ある程度まで逆転して、食料を自分で作り、家を自分で建て、個人とコミュニティーが必要とする物を作り出すことに直接かかわる機会を増やします。グローバル経済への依存を減らし、テクノロジー依存を減らし、地域に根ざして生活するようになります。退化した心と体の能力を開発しなおし、新たな能力を発見します。あらゆる脅威や困難から自分を隔離するため日常的にテクノロジーを使うようなことはしないので、強さを保ちます。

ヒッピー人は生活の多くの部分を商品とサービスの領域から取り戻すので、慣れ親しんだ経済秩序がひっくり返った社会を作ります。生活の中でお金の役割は小さくなります。利子の付いた負債はもはや経済の基盤ではありません。金融の領域が縮小するのに伴って、共有、共働、交換という新たな方法が、成長するギフト経済の中で花開きます。

ヒッピー人は労働を、減らすのではなく正しく受け入れるべきものと見ます。効率に代わって美的感覚が、物を作るときの主要な指針となり、美的感覚は物の調達、使用、退役というプロセス全体を統合します。個人として、コミュニティーの中で、グローバル文化として、ヒッピー人の創造力は大きさよりも美しさ、安心よりも楽しさ、成長よりも癒しに捧げられます。

第7回につづく)

注2:これが簡単でないのは、自然出産を試みたものの結局は病院に行く羽目になった多くの女性なら証言できることです。何世紀にもわたって悪化した食生活、身体的な外傷、女性の身体の家父長支配の結果として、それを癒すのにも何世代かを要するでしょう。


原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/transhumanism-and-the-metaverse


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