バーチャル世界のバーチャル子供 (トランスヒューマニズムとメタバース その4)
訳者より:たまごっちが都会でペットを飼えない子のための代用品かどうかなんて、意味のない議論なのでしょう。生き物を飼うという行為をヒントにしているとはいえ、たまごっちで育てているのは現実世界とは関係ないたまごっちなのだから。そういう「記号」の自己参照こそメタバースの特性なのだけれど、記号の親玉はお金というシステムで、ずっと前から「メタ」だった。つまり、メタバースは古い世界の延長なのです。チャールズ・アイゼンスタインの長編エッセイ「トランスヒューマニズムとメタバース」の日本語訳、今回はその第4回。(こちらに第1回、第2回、第3回。)
4. バーチャル世界のバーチャル子供
ユートピアの蜃気楼を永遠に追い続けるのは、おそらくは完全な制御や、苦痛の征圧、死の征圧が、人類の宿命だからでしょう。蜃気楼を追い求めるのが無益なのは言うまでもありませんが、たとえ今までより苦痛が減っていなくても、増していないぐらいは言えるのかもしれません。トランスヒューマニズム主義者の計略を忌まわしいものだと思いはしますが、それを止めることは、ここで私の目的ではありません。私がこのエッセイを書くのには、関連し合う2つの理由があります。第1には、その計略の基本的性質、その起源と野望、そして特にそれが結局は無益なのを明らかにすることによって、私たちがしっかりと目を見開き、選び取るか拒否するかを決められるようにすることです。第2には、人類全体がどんな選択をしたとしても実現可能な対案を説明することです。第3には、人類の切り離された魂が全て再び一つになる遥か彼方の未来を見据えて、この「別れ道の園」にある選択の場所から別れていく2つの世界を平和的・友好的な関係で結ぶというシナリオを提示することです。
おっと、そうですね、2つの理由ではなくて3つでした。第3の理由は先の2つを書いた後で初めて見えてきたのです。立ち戻って書き替えて、この段落を丸ごと削除することもできたでしょうが、もはや可笑しいほど自己言及になってきます[訳註1]。あちゃー! でも時には自分の思考の過程をシェアするのも良いと思います。
私の頭をよぎったのは、「メタ」という言葉が自己言及を指して使われるのが、物質から切り離されていることの一つの表れでもあって、そうすることで私たちは記号の世界に放り込まれるのだということです[訳註2]。活き活きとした、実体のある、質的な世界という無限の泉から切り離されると、もともとはそこから枝分かれした記号の世界を、私たちは共食いすることになります。私たちが作るのは物語についての物語についての物語。私たちが作るのは漫画本をもとにした映画をもとにした玩具についての映画です。記号は他の記号を表す記号となり、無限の螺旋を描く自己言及へと退行します。その気まぐれな無邪気さの下に、その軽妙な言葉遊びの下に、その数え切れないほど重ねられた抽象化の下にひそむのは、身の毛もよだつ真実です。私たちは何も気にかけてはいないのです。忍び寄る皮肉はポストモダンの社会に蔓延し、煽りに煽られたメタバースへの熱狂でさえも一時的にしか退けることのできない無感覚が、そこにはあります。
バーチャル子供という素晴らしいイノベーションを例に取ってみましょう。そう、読んで字のごとしです。「たまごっち子供」とも呼ばれますが、自律的AIソフトウエアのボット[つまり実体のないロボット]で、デジタルな世話や気づかい(そしておそらく、購入したアクセサリー)を十分に与えれば元気に育つようプログラムされたものです。それを主流メディアは、孤独や人口過剰、気候変動への解決策として売り込みます。先日の『デイリー・メール』紙の見出しはこんなものでした。「《たまごっち子供》の登場 〜あなたと一緒に遊び、あなたに寄り添い、あなたそっくりのバーチャル子供は、50年後には一般化し、人口過剰との戦いに役に立つだろうと、AI専門家が予測。」こういったソフトウエアについての記事(たとえばこれやこれ)には、奇妙なほどに疑いが欠けています。私にはそれが理解できません。私たちはもう2つに別れた現実バブルの中に生きているのでしょうか? 本当にそれで良いと人々は思っているのでしょうか? たまごっち子供について、私の心を最もかき乱し、唖然となるのは、それが何の断絶もなく「普通」になっていくことです。でもバーチャル化が一段一段と進むごとに同じ考えが私の頭をよぎったことを、認めないわけには行きません。たとえばテレビのリアリティ番組です。「これがコミュニティーの中で他人の物語に関わることの代用品になるなどということを、人々は本当に受け入れられるのだろうか?」
誇大広告や見た目の明るさにもかかわらず、その下には先に書いた皮肉や無関心、絶望が隠れているのを私は感じます。メタバースでのオンラインゲームやパーティーのどんちゃん騒ぎの中を、自分のアバターが行進するのを見て、人々は本当にワクワクするでしょうか? それともポストモダン社会から失われてしまったものの、一番ましな代用品というだけのことでしょうか?
ここで私は「ポストモダン」という言葉をわざと使っています。知的運動としてのポストモダニズムは、物質から切り離された記号の世界への没入とぴったり合致します。メタバースが具現化するポストモダニズムの教義とは、あらゆる物事は文章であり、現実は社会的に構築されたものであり、人は自分自身がそうであると主張するものにすぎない(なぜなら、「である」というのは主張に過ぎないのだから)というものです。同じことがオンラインのアバター世界でも当てはまります。外見と現実はイコールです。現実は意のままに際限なく改変できる構築物です。表象の世界に没入した人にとっては、誰の目にもそのように見えます。記号は、ひとたび記号化されると元のものを忘れ、それ自体が現実となります。商標は当初その物に価値を与えた物質的基盤とは切り離された価値を持ちます。(グッチと呼べば、そのハンドバッグは品質とは関係なく価値あるものになります。)やがてその製品はバーチャル・リアリティの中へと完全に消え去り、ブランドだけが残るのかもしれません。
政治でもほとんど同じことが起きています。重要なのは、レンズ、認知、イメージ、信号、メッセージです。現実の政治家本人ではなくデジタル・アバターに投票しているようなものです。政治家の選挙公約を誰も額面どおり受け取りませんが、記号として聞くのです。そんなわけで、公約が全く履行されなくても誰も驚きません。ジョー・バイデンの選挙公約を何か一つでも覚えていますか? 私は全く覚えていません。もしかして学生ローンの棒引きか何かだったでしょうか? 誰もそれを聞いて心が躍らなかったのは、政治家の言葉を割り引いて信用しないのは当然のことだからです。残念ながらそのせいで、もし目眩ましのイメージではなく政策そのものに投票するとしたら、一票を入れようという人などほとんどいないようなひどい政策を、政治家は実行できてしまうのです。私たちの注意を吸い取る記号が多ければ多いほど、情報をコントロールする者たちが大衆を操作しやすくなるのです。
最後に、無視しないでおきたいのが、あらゆる記号の王であるお金です。これも慣習によって実在しているに過ぎず、あらゆる物質的なものから完全に切り離されています。それはもはや金塊や寺院の穀物倉に寄付された小麦を示す記号ではありません。お金が象徴するのはお金だけです。したがって、それが意味するのは、富が物質や物質的な生産力と関係している必要はなく、物質や生態系の制約を受ける必要も全く無いということです。(ここで言っているのは米ドルのような、いわゆる「不換通貨」だけでなく、暗号通貨も含んでいます。) 他の記号のシステムと同じように、抽象化の塔はお金という基礎の上に築かれるのです。財務指数や、金融派生商品、金融派生商品の派生商品。
いま現在、抽象化の塔の全体は崩れ落ちそうに見え、親を失った物質世界はお金という偽りの現実に割り込んで、ネグレクトするなと訴えます。親を失った物質世界には、現在のシステムが幻想と物質的な拠り所を奪ってしまったもの全てが含まれるので、私たちが社会的混乱に直面するのは疑う余地のないことです。崩れ落ちてくるのは金融システムだけではありません。抽象化の塔には他にもたくさんの部屋がありますが、その中で居心地が良いと思う人はどんどん減っていきます。現在は、支配層、つまりわずかに残る古い「普通」という地下壕に居残った人たちが、選択を迫られます。地下壕のさらに奥へと逃げ込んで、増え続ける下層階級への支配をさらに強めるか、それとも塔を出て現実世界にいる私たちの中に加わるか。実際には、グローバル金融システム全体を手放すということです。債務を帳消しにすること、ドル経済覇権と植民地収奪を終わらせるということです。
支配層は2008年にも似たような選択を迫られました。彼らは支配を拡大強化し、中産階級と南側の途上国、自然界を空洞化させ、富の蓄積を続ける道を選びました。金融崩壊それ自体では、私たちを新たな世界へと産み出すことはありません。私たちは人類超越の計画を追い続けるという選択をする可能性もあります。計画のあらゆる側面が、その他すべての支えとなっています。金融を物質から切り離したのと同類なのが、メタバースがもたらす体験の脱物質化と、トランスヒューマニズムがもたらす人体からの分断です。この全ては実体の空洞化という同じ目的地に繋がります。したがって、そのようなイデオロギー信奉者が世界経済フォーラムのような機関にいる金融・政治の支配層と共生しているのも驚くことではありません。彼らが固守する未来で、私たちは分断の道を歩み続けることになります。でもそれが唯一の未来ではありません。
(第5回につづく)
原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/transhumanism-and-the-metaverse
訳註1:この文のことをこの文が書いている、という意味で自己言及。
訳註2:英語でいうメタは、ふつうは「メタ言語」のように接頭辞として使われ、超〜という意味なのだが、ネットスラングとして単独で使われる「メタ」はメタフィクション、つまり虚構の世界のこと。