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栽培と文化

訳者コメント:
 蒔かぬ種は生えぬ。働かざる者食うべからず。自明とも思えるこれらの原則は、農耕以前の狩猟採集民には無縁のものでした。自然は恵み深く、それを受け取るために必要なのは計画や努力ではなく、自然のパターンを親密に知っていることだけでした。
 田舎に暮らし、有機農・自然農を目指しながらも、その根底にある態度は自然をコントロールすることにあると気付かされます。依然として雑草は敵であり、鹿猿猪は敵なのです。縄文の暮らしは遠いなあ。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


2.8 栽培と文化

自然からの分断、そして世界をコントロールするテクノロジーの計画は、農耕から始まったものではありません。これまでダニエル・クインらの雄弁な主張は、エデンの園から労苦の世界へと追放されたことを、狩猟採集生活から農耕生活への移行と結びつけていましたが、むしろ農耕は以前から確立されていた傾向の画期的な加速を意味し、長い間蓄積されていた潜在能力が必然的に現れ出たものでした。

農耕によって、人間の領域は根本的に新しい領域へと拡大し、さまざまな動植物や自然の一部も取り込んでいきました。もはや飼い慣らされた世界は焚き火を囲む輪の中だけではなくなりました。農耕によって、私たちは全世界の飼い慣らしを始めたのです。

人類の上昇を現在の段階に向けて始動させたのが農耕だったので、農耕がどのように、なぜ始まったのかという問題は極めて重要です。文献に書かれている理論の多くは説得力に欠けます。不安理論の「不快で野蛮で短命」という仮説が間違っていることから、人口圧力と食糧不足に根拠を置く(つまり、食糧を生産すれば、同じ面積で食糧を採集するよりもはるかに多くの人々を養うことができるという)この理論には疑問符がつきます。狩猟採集民は人口の水準を調整する手段を持っていて、多くの場所で何千年もの間それを上手に使ってきました。人口が劇的に増加したのは、農耕を発生させた原因ではなく、農耕の結果だったのです。もうひとつの説は、氷河期末期の気候変動や二酸化炭素濃度の上昇によって古い生活様式が成り立たなくなり、新しい植物が利用できるようになったというものです[69]。しかしこれは、氷河期が終わる前から多種多様な生態系に生活していた狩猟採集民の急速な適応性を無視していて、いずれにしても、ある環境から別の環境への移行は採集から農耕への移行に比べればずっと難易度が低いように思われます。最も馬鹿げているのは、私たちが種を蒔くという考えを理解したのはごく最近だとするような説明です。採集の文化は植物の繁殖とその生育条件について高度に洗練された理解を持つものです。

農耕が地球上のいくつかの場所で独自に発生したという事実が示しているのは、それ以前にあったテクノロジーや考え方から自然に進歩したということであり、(間違いにせよ、輝かしい発明にせよ)起きなくてもよかった偶然などではありません。農耕はメソポタミア、中国(おそらく2ヵ所)、南アメリカ、中央アメリカ、米国の東部、そしておそらくニューギニアとサハラ以南のアフリカで別々に発生しました[70]。実際、農耕が発展しなかった場所のほとんどは、容易に家畜化できる動植物が少なかった場所です。わずかな例外を除いて、農耕を発展させることが可能なところでは最終的に農耕が発展しました。どういうわけか、後期旧石器時代に生きた私たち人間の本質には農耕の未来が組み込まれていたのです。

それが必然だったかどうかは別として、農耕は突発的な発明ではなく、ゆっくりと進む一連の発展が積み重なった結果で、自然に対する人間の考え方が徐々に変化していったことを示しています。私たちの二元論的な考え方では農耕は発明であり、はっきりした時代の変わり目であると考えたくなるかもしれませんが、ジャレド・ダイアモンドは農耕の起源を狩猟採集生活からの段階的なだったと、もっともな説明をしています。おそらく最初は、移動生活をする狩猟採集民が、現代の牛や羊などの祖先の群れを追いかけただけだったのでしょう。何世代もかけて、このような初期の牧童たちは重要な場面で餌を与えて保護するようになり、動物たちもだんだんこれに依存するようになりました。作物の植え付けの始まりは、種子を広くばら撒いたり、競合する植物を取り除いたりして、好ましい食物が優先的に育つようにし、その後おそらく何カ月かは野生の食物を求めて放浪しながら採集生活をすることだったのかもしれません。やがてこれらの植物も、意図的な交配であれ無意識の共進化であれ、植え育てる人の援助に依存するようになりました。いずれにせよ、栽培種のトウモロコシは人間の助けなしには繁殖できませんし、飼い慣らされたニワトリも野生で生き残れる可能性はほとんどありません。

動植と植物の家畜化が始まると、はるかに高い人口密度を支えるようになるため、もう後戻りはできなくなります。農耕は自然に対する人間の支配の原型ですが、人口が増え続ける中で、土地や人、動植物への依存を誘発し、とめどなくコントロールを強化することになります。

農耕への段階的な移行とともに、自然に対する人間の態度も変化していきました。狩猟は他の動物を対等な存在として見る態度と一致します。自然の働きは対等であり、食う者もいれば食われる者もいます。結局のところ、人間の狩人は動物の狩人と何も違いません。家畜化は生物種間に上下関係を押し付け、人間を動物たちのあるじ、支配者にします。当然この関係は自然の全体に投影され、自然は全て家畜化と支配の対象となります。しかし自然をまず概念的に物と見なすことがなければ、動物の家畜化という革新はそもそも起こり得なかったかもしれないという点も考えておく必要があります。このニワトリと卵の問題を解く鍵は、全ての生命体に現れている自他の分離の萌芽ほうがにあって、人間以前の時代にまでさかのぼります。家畜化は、それが単に新しい段階へと結晶化したものです。ゆっくりと変化してきたその姿には、前節までに詳しく説明した分断の他の要素も全て含まれていました。

農耕民と自然との新しい関係は、神について新しい観念を生み出しました。農耕などのテクノロジーが人間を自然から遠ざけるにつれて、神々も自然な存在ではなく超自然的な存在になりました。その変化は自然の力と密接に結びついた古代のパンテオンから始まって徐々に進みました。神々が自然から離れて抽象化されるにつれ、次第にその結びつきは支配へと進化していき、やがて神は地上の(つまり自然の)領域から完全に切り離され、ニュートン力学の時計仕掛けの世界の創造主となりました。同時に、私たちが自然の調和や循環との繋がりを失うと、ギリシャ神話や旧約聖書を典型とするような気まぐれな性格を神々は持つようになりました。したがって、生贄を捧げることによって神々を鎮め、幸せに保たれなければなりません。これは古代の農耕や牧畜の文化に見られた習慣ですが、狩猟民族にはないものでした。

初期の文明で生まれた怒れる神は、善悪や罪の概念とも結びついています。トウモロコシは良いが、雑草は悪い。ミツバチは良いが、イナゴは悪い。羊は善、狼は悪。テクノロジーは善を促進し悪をコントロールすることで自然に打ち勝ちます。自然に当てはまることは、人間の本性にも当てはまります。自己は良い部分と悪い部分の2つに分けられ、後者は文化というコントロール技術によって克服されます。

狩猟採集民にとって土地の気候条件のあらゆる変動に適応するのは簡単なことだった一方、農耕民たちは干ばつやひょう、イナゴなど、収穫の妨げとなる脅威に翻弄されました。狩猟採集民の資源は事実上無限で、人口もかなり安定していた一方、農耕文明が経験した飢饉や伝染病、戦争は全人口を壊滅させ、予防しようとする試みはことごとく失敗に終わりました。ここには、今年がどんなに豊作でも来年はどうなるかという、人生そのものに織り込まれた避けようのない絶えざる不安の源がありました。また、科学と技術のそれぞれには、理解とコントロールを高めようとする動機がありました。自然を支配する企ての中に暗黙のうちに存在するのは、欠乏とそれへの脅威です。欠乏に直面した私たちはポジション争いに明け暮れ、際限なく激化する競争に耐えています。そしてこの競争は、私たちの貨幣制度、生物学の理解、そして人間の本性についての前提に組み込まれています。

逆説的ですが、農耕は自然の(人間にとっての)食料生産性を高めた一方で、現代の労働の概念も導入しました。食料はより豊富になりましたが、同時に手に入れ難くもなりました。農耕によって、私たちは明日の食料を得るため今日働くことが求められました。これはテクノロジーの逆説の代表的な例ですが、楽で快適、安全安心という目標を目指しているにもかかわらず、われわれを破局の瀬戸際に追いやったのです。

農耕は自然を休みの状態から引き離して維持するのが仕事なので、必然的に努力を伴います。私の庭でアザミやゴボウや草を育てるのに何の仕事も必要ありませんが、それは1千平方フィート[数十坪]という広さの土地は自然にそうなる傾向にあるからです。でもキャベツやケール、ニンニクを育てるには様々な仕事をしなければなりません。群生する植物を引き抜き、ウサギやウッドチャック[リス科マーモットの仲間]を防ぐ柵を立てるなどです。蒔いた種しか刈り取れないという自明の理は、農耕以前にはありませんでした。その前には、私たちは種を蒔かなくても刈り取ることができたのです。自然は根本的に恵み深いものでした。狩猟採集民にとって、自然の恵みという摂理に労力や計画はほとんど必要なく、自然のパターンについての理解がありさえすればいいのです。原始世界での生存は親密さの問題であって、コントロールの問題ではありません。

農耕の出現は狩猟採集社会を特徴づける贈与ギフト精神の終焉を加速させました。狩猟採集民が獲物や食用植物を大地の恵みと見なすのに対し、農耕民は作物を労働力との交換品と考える傾向があり、その交換条件を常に自分の利益になるよう仕向けることが彼の目標となります。もはや食物は世界が自由に与えてくれるものではありません。狩猟採集民は我々がエコロジーと呼ぶ贈与ネットワークの一員であるのに対し、農耕民はそのネットワークから自らを切り離し、そこから必要なものを引き出そうとします。ですから、ダニエル・クインは狩猟採集民を「のこす者(leaver)」、農耕社会を「取る者(taker)」と呼びますが[71]、前者は「与える者(giver)」という方が良いかもしれません。やがて人間どうしの間にも奪い取り交換するという新しい関係が現れ、お金と財産が登場する舞台を整えました。

土地から生計を立てようと努力する必要があるとき、人間と自然との関係は敵対的になりがちです。土地は自然に雑草や害虫、そして一般的に生産性の低い基本状態へと流されていきます。農耕というテクノロジーで私たちはこのような事態を防ごうとします。自然との間には戦線が引かれます。いま私たちはより持続可能な生活を求めていますが、環境保護主義者が地球上で最も破壊的な力だと嘆く対立的な自然観は、文明の起源である農耕そのものに組み込まれています。自然の働きを止めたり逆行させたりすることを基礎とするテクノロジーに、他の何を期待できるというのでしょうか? したがって、人類の自然との戦いに終止符を打つために必要なのは、テクノロジーへの全く異なる取り組み方であり、単に優れた計画や、事故の少なさ、先見の明、厳格な管理ではありません。

農耕が生み出したのは資源や資産としての大地という概念で、これは主に生産性によって定義されます。土地はしだいに内在する価値、つまり神聖さを失い、生産できるものに基づく外在的で条件付きの価値を持つようになりました。ここに初めて、良い土地と悪い土地ができました。この移り変わりはゆっくりとしたもので、新しいテクノロジーが私たちを元々の自然の巡りから一歩ずつ遠ざけるごとに、それは進んでいきました。原始的な農耕民は、狩猟採集民ほどではないにしても、土地と密接な関係にあります。新しいテクノロジーが進歩するたびに、私たちは自然の制約から一つ一つ解放され、その頂点として現代の工業的単一栽培に至りましたが、そこでは適切な投入資材さえあれば、どんな土地でもほぼ何でも栽培できます。砂漠にさえ花を咲かせることができます。

しかし、自然の巡りを無視できるのが一時的なものだということは次第に明らかになりつつあります。それを阻害すると、影響を次々と技術的対策を使って先送りすることはあっても、永久に退けることはできません。確かに、砂漠に花を咲かせることはできますが、その代償は膨れあがり、永遠に続くものではありません。いつかは自然な状態に戻ります。さらに、自然の巡りを妨げた影響は、長く続けば続くほど強まります。いま世界の農業地帯で加速する砂漠化は、自然の働きを永久に食い止めるのが不可能なことと、その企ての影響がいかに重大かを物語っています。まるで砂漠は否定できないというようです。

本来の神聖さではなく生産機能によって土地を評価する態度は、分業という形で人間社会に投影されます。農耕とともに、人間は機能によって区別されるようになりました。農民、兵士、金属細工師、建築家、司祭、王など、それまでにはなかった区別ができました。たしかに、農耕以前の社会には首長やシャーマンがいますが、希な例外があるにせよ彼らは狩猟や食料採集を免除されていたわけではありません。彼らは食料とサービスを交換することで仕事に特化したのではありませんでした。農耕社会で人々はますます一般的な機能分類に従って定義されるようになりましたが、この傾向は農耕が可能にした人口密度の激増による匿名化の影響でもありました。

農耕によって、よそ者という新しい区分が生まれました。それ以前の人類は、せいぜい500人程度の部族が15~20人ほどの集団で暮らしていました。500人の名前と顔を知ることは、特に生涯にわたって頻繁に付き合っていれば難しいことではありませんが、それ以上になると親類縁者という識別の構造が薄れ、必然的に「他者」の区分に入る人が出てきます。

狩猟採集民の集団や部族では、そして新石器時代の村でも、私たちはそれまで関わった人たちのほぼ全員から親しく知られていました。知り合った人々の全体が、私たちのアイデンティティや自己意識を生み出す緊密に結びついた人間関係の網を具体化していました。「私とは誰か」という問いへの答は、他にない個人として私たちをよく知っている人々との関係の中にありました。しかし社会の規模が拡大するにつれて、こうした個人的な関係は、商業や法律、宗教に支配された一般的な関係へと移行していきました。その結果、もともと匿名的で非人間的なこれらの構造にも、自己の感覚は依存するようになりました。

原始社会における人間関係の案内となるものは、他の人との相対的な位置を各人に与える親族構造です。社会の規模が拡大し、2人の人間がそれぞれの人間関係の網目の中に互いを位置づけられない他人になったとき、深刻な対立の可能性が生まれます。既知の人間関係の構造がない場合、ある種の非個人的な統治が必要となります。結局のところ、誰かを「自己」と認められないとき、その人は潜在的な競争相手であり、その利害は私たちと対立する可能性があります。実際問題として、相手が赤の他人なら騙さない合理的な理由はありません。彼はあなたの付き合いの輪とは繋がっていないので、しっぺ返しを喰うことはありません。だからこそ何らかの規制構造を上から押し付けることが必要なのです。

異なる集団に属する狩猟採集民が森で出くわすと、すぐに彼らはお互いの集団にどんな知り合いがいるか緊迫した会話を始め、それはしばしば非常に長いものとなって、お互いの関係を確認しようとします。やがて彼らは、一方がもう一方の義理の兄の甥の義理の妹のいとこであることを立証し、お互いを同じ人間関係の網目の中へと上手く引き入れます。その名残は、今日でも見知らぬ者どうしが話をするときに見て取れます。「台湾にいたんですか?台湾人の同級生がいたんだけど、○○さんを知ってる?」

見知らぬ者同士の出会いが一般的な場合、個人どうしの固有の関係ではなく、一般的な原則に基づく何らかの規定が必要になります。「全ての人は法の下に平等」なのです。明確な規範という形の法律は文明以前の民族には存在せず、その必要もありません。現代社会がますます匿名化され、より多くの生活機能を見知らぬ他人にお金を払って行うようになるにつれ、法の及ぶ範囲が生活の隅々にまで広がっていくのも偶然ではありません。一昔前なら非公式に解決されていた紛争も、今では文書化された規則に従って型どおりに処理されます。実際、何らかの正式な基準がなければ私たちが不安になるのは、見知らぬ人に文字通りすがままにされてしまうからです。この傾向は農耕から始まった疎外と脱人格化の必然的な帰結です。

分業が人間生活に持ち込んだ新しい種類の不安は「生きるためには働かなければならない」という考えに根ざしていて、現在この概念は「生計を立てる(make a living)」という表現に表れています。採集民は生存のために必要なこと以外にも、たとえば楽器の製作のような様々な芸術や工芸に従事していて、彼らの間にも技術や才能の差別化があったのは間違いありません。しかし、食料はいつも収穫でき、事前の計画があっても無くてもすぐ手に入りました。ふつう私たちは、余剰農産物が「農民以外の人々を他の技能に特化できるように解放した」ことを称賛しますが、そのとき気付いていないのは、農民以外の人々は自力で食料を手に入れる手段を持たないので、自分の専門職の奴隷となっていることです。自由は奴隷です。芸術は職業となり、その産物は商品となりました。仕事とは、芸術を矮小化し、劣化させ、堕落させたものに他なりません。経済的な必要性(生存を意味する隠語)に突き動かされた私たちには、「のらりくらりと仕事をし、たまに努力する時しばらくの間は大変な精力を発生する」ような働き方はもう不可能です[72]。さらに悪いことに、経済的利益のために作られた芸術は、十分良ければそれで十分なので、もはや芸術ではありません。匿名で食べ物やお金と交換され〈他者〉の手に渡ってしまうのに、なぜこれ以上良くする必要があるでしょうか?

初期の頃は、このような交換は完全な匿名ではありませんでした。お金は他の形の互恵関係を部分的に取り代えただけで、人間関係のほとんどは見知らぬ人とのものではありませんでした。さらに、自給農民の生活は依然として自然の巡りと密接に関わり、土に寄り添い、その維持に必要な知識と敬意は狩猟採集民と肩を並べるものでした。私たち現代人にとってガーデニングは自然を遠ざけるのではなく、より身近なものにしてくれるのは確かです。しかし、いったん始まれば農耕はそれ自体を土台に上昇していきました。テクノロジーが進歩し、人口が増え、管理体制が強化され、人間と自然という概念上の二分法が拡大しました。そしてついに、産業革命で頂点に達した〈機械〉という制度によって、仕事が芸術と一体だった本来の状態から現在の奴隷状態へと、仕事の劣化が完成しました。


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注:
[69]たとえばR.F.セージ [Sage, R.F.,] 1995, “Was low atmospheric CO2 During the Pleistocene a Limiting Factor for the Origin of Agriculture?” Global Change Biology, 1, 93-106 を参照。
[70] ダイアモンド [Diamond,] Guns, Germs, and Steel(『銃・病原菌・鉄』), p. 99. 農耕の必然性(家畜化可能な種が存在するあらゆる場所で農耕が発展したこと)は、ダイヤモンドの著書の主要テーマである。
[71] ダニエル・クイン [Quinn, Daniel.] Ishmael. Bantam Books, 1995.
[72] マルティン・グシンデ [Gusinde, Martin.] The Yamana, Human Relations Area Files, 1961. p. 27, cited by Sahlins, p. 28


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-2-08/

2008 Charles Eisenstein


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