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「パンデマニア」 第5部 チャールズ・アイゼンスタイン

訳者より:「安全安心」という言葉がセットとして使われだしたのは、福島原発事故の後、食品放射能汚染の「風評被害」に対する権威の反撃だったように思います。社会が恐怖に支配され、権威が言う「安全」が疑わしく見えたとき、私たちは「安心」を与えられて押さえ込まれたのです。私たちが「自粛」を受け入れてしまうのは、社会が恐怖に支配されているから。社会の神経症パンデマニアの再発を防ぐには、社会に満ちる恐怖のレベルを下げることだとチャールズ・アイゼンスタインは説きます。「パンデマニア」シリーズ、今回は第5部。(第1部第2部第3部第4部はこちら。)


パンデマニア 第5部

安全信仰

チャールズ・アイゼンスタイン著
2022年8月9日

社会がパンデマニアに弱くなる素地の条件を議論する、私の不定期連載を再開しようと思います。私が何を話しているのか分からなければ、前回のパンデマニアの投稿をご覧ください。この連載を再開する気になったのは、ここ数週間のやり取りで私がなぜこの問題を打ち切りたくないか思い出したからです。

ある男性が(ここではカイルとしましょう)、先週こんな話を聞かせてくれました。彼は介護施設の管理者でしたが、仕事を続けるのに必要だったため特に疑うこともなくmRNAワクチン接種を受けました。2回目接種の直後、彼はアナフィラキシー反応を起こし緊急治療室に運び込まれました。彼は辛うじて命を取り留めました。その後、追加接種を受けることがスタッフ全員に求められたので、彼は仕事を辞めざるを得ませんでした。彼は自分の経験をSNSでシェアしましたが、彼の投稿はコミュニティー基準に違反したとして削除されました。数ヶ月後に彼はワクチン有害事象報告制度で自分の症例が報告されているか検索してみましたが、ありませんでした。カイルは自分の身に起きたことについて怒っているようには見えませんでしたが、制度に対する彼の信頼が回復することはおそらく決してないでしょう。私が話した他の人たちは彼ほど平静ではなく、憤慨していて、忘れて赦すように言われてもその激しい怒りは弱まらず、コロナ政策を実行した人々は説明責任を全く果たさないので、このようなことが二度と起きないなどとは考えられないのです。

この怒りの矛先は罪のない人々や表面的にそう見える標的へと簡単に向けられてしまいます。まるでパンデマニアなど起きなかったかのように何も考えず平常に戻ることの危険性は、この怒りがお互いに対する憎しみを燃え上がらせる危険と同じぐらい重大です。じつは、パンデマニアの最も衝撃的な側面は社会の分裂だったのです。教会、クラブ、学校、家族さえも、戦い合う陣営へと分裂しました。表面的な説明や間違った非難に逃げ込むことなく、この大失敗を評価できるでしょうか?

私はパンデマニアの再発を防ぐのに少しでも役立てばと思ってこの不定期連載を書いています。私の見るところ、腐敗した官僚を権力の座から下ろしたり、医療・製薬・規制機関を改革したりするだけでは不十分です。私が問いたいのは、そもそも彼らの人心操作に対して私たちの社会をこれほど弱くしたものは何だったのかということです。私たちがこれほどまでコロナの狂気に服従し、これほどまで進んで嘘を信じ、これほどまで易々と下劣で独断的で不合理な政策を黙認するよう仕向けたものは何だったのかということです。

最初に検討した2つの条件は、敵に対する執着と、群衆倫理と集団形成でした。そして続く第3の条件は…

公衆衛生政策をめぐる論争が、目標は病と死を最小化することだという前提を当然と見なす限り、必然的に、その他の価値観は安全という祭壇で犠牲にされます。

市民的自由が人々を安全に保つことはありません。パーティーやレイブが人々を安全に保つことはありません。ハグや握手、ライブ公演、祭り、合唱団、サッカーの試合が、人々を安全に保つことはありません。子供は遊び場より家にいた方が安全です。屋外にいるより画面の前に座っている方が安全です。コロナでなくても、これは全て本当のことです。

マスクやロックダウンが実際にコロナの発症や死亡率に影響を与えたのかどうかを私たちが議論するとき、もし効果があったならそうすべきだという前提を暗に認めます。私たちはリスクの最小化を公衆衛生の最上位の指針として受け入れます。それを受け入れると、私たちは永遠にマスクをし、ソーシャルディスタンスを保ち、ロックダウンをするべきだという結果になります。安全が生きる目的なら、そうしない手があるでしょうか?

ありそうもない話に聞こえるでしょうか? 様々な衛生当局者、特にWHO(世界保健機関)技術諮問委員会の新委員長スーザン・ミッキーがそうするように助言します。アンソニー・ファウチは2020年に、我々はもう握手をすべきではないと見解を述べました。もし私たちがあらゆることを安全のためにするなら、おそらくそれが正しいのでしょう。

本当は、前言撤回します。おそらくそれは間違っています。安全を追い求めることの皮肉は、一時的に成功を収めても、長期的にはもっと危険なことになるのが常だということです。一人一人が無菌カプセルの中で暮らしているという極端な例を考えてください。病原を媒介するものは何も入ることができませんから、感染症に対しては完璧に安全です。その一方で、仕事を失った免疫系は劣化し、通常なら無害な細菌が入ってくるとやられてしまいます。カプセルの住人は常に警戒していなければなりません。本当に安心することは決してないでしょう。

さらに、細菌が全く入り込まないと、有益な微生物群が外界との絶え間ない交流によって補充・調整されることがなくなるので、他の病気を患うでしょう。生命が孤立の中で繁栄することはありません。

コロナ・パンデマニアの間、完全密閉のカプセルに住んでいた人は誰もいませんが、それでも風邪とインフルエンザの伝染が減ったことで人々の免疫が弱まったという兆候があります。多くの人々はロックダウンが緩和された後に「風邪の親玉」にかかったと伝えました。パンデマニア後に高まった死亡率は、ワクチンによる害だけでなく、隔離から生じた全般的な免疫と健康の阻害が原因だった可能性があります。さらに皮肉なのは、今ではワクチン接種が人々をコロナにかかりにくくすることさえ怪しく見えます(そのウサギの穴への入口はここ[なぜCDCのデータ(とCDCそのもの)は信用できないのか]を参照)。

手短にいえば、安全へのこだわりは理不尽な結果につながります。それはあらゆる形の治安国家と同じことです。数多くの刑務所、大きな軍隊、海外での戦争を抱える国は、高い頻度の犯罪、家庭内暴力、自分に対する暴力(つまり自殺)に苦しむ傾向があります。

もし私たちがあらゆることを安全のためにするなら、大衆は何であれ安全を損なう脅威に訴えることで簡単に操作されるでしょう。私たちがその影響を受けないようにするためには、他の価値を認める必要があります。たとえば楽しみ、限界の探究、冒険、社交的なこと、触れあい、いっしょに笑うこと、いっしょに泣くこと、いっしょに息をすること、いっしょに踊ること。結局のところ、人生の目標は、いつの日かお墓に入るまで可能な限り安全に過ごすことではあり得ないのです。

そう言うと次のような反論が返ってくるのは明らかです。「自分で危険を冒すのはいいが、他人の安全を損なうようなことをするのは不道徳だ。他人を危険にさらす権利など誰にもない。」さらに、自分で危険を冒せば深刻な病に冒された人が使うかもしれない病院のベッドを占有する可能性があるので、何であれ危険な行動は他人をも危険にさらす可能性がある。

これは論点すり替えの論法です。ここでの論点は他人の福祉を無謀にも無視する最大限の自由ではありません。集団的にも個人的にも、私たちは安全以外の他の価値を認めなければならないということです。私の新著『コロネーション』の標題となったエッセイで、私は次のように問いかけました。

私の母が死ぬ危険を減らせるのなら、さらに言えば、私自身の危険を減らせるのなら、国じゅうの子供たちに春の間ずっと遊ぶことをあきらめてもらうと私は言うだろうか、というものです。あるいはこう問うてもいいでしょう。私自身の命を救えるのなら、人がハグと握手をする時代の終わりを、私は命じるだろうか。

私が言いたかったのは、集団的には、まさにそれを私たちは命令していたということでした。私たちがそうした理由は、安全を最高の徳として守ったからです。社会的接触や市民的自由などは「必須」ではないと理解され、それを犠牲にすることは小さな不便とされました。集団的には、少なくとも政治的合意の上では、私たちは可能な限り安全でいることにしたのです。

どんな状況のもとでなら、危険を最小化する人生を目指すということが意味を持つでしょうか? そうですね、もしあなたが不死の体を持っていたなら意味を持つでしょう。病気やケガを避けることであなたが永遠に生き続けることができるのなら。

永遠に生きることができるなどと本当に信じる人などほとんど誰もいないでしょうが、私たちの多くはまるで永遠に生きられるかのように行動します。そのため、臨死体験は人生を変えてしまうほどの力を持つことが多いのです。同じことが、愛する人の死や、自分自身が死の瀬戸際に立ったときにも当てはまります。このような出来事は現代文化が熱心に維持しようとする永続性という幻想を崩してしまうのです。

このことについてはもう書きません。死の恐怖症については『コロネーション』に詳しく書きましたしポッドキャストでもたびたび話しましたし、同じことを何度も言うのにはうんざりしているからです。言うまでもないことでしょう。人生の目標は生き残ることでは有りえませんし、そう生きようとすれば恐怖に満ちた息が詰まりそうな出来損ないの人生へと私たち自身を追いやることになります。

安全への熱狂と死への恐怖症は突然発生した不可解な狂気ではありません。これらは全てを包み込んでいる人間のあり方の一部分で、近代文明でその極限に達したのです。それは魂のない物質界に放り込まれた個別ばらばらの自己が、他の何にもまして自分自身を守ろうと切望するのです。自分が自身の伝記よりも大きな物語の一部だと知る者は、喜んでその物語のために命を賭けようとします。その最も良い例は、恋物語です。愛するということは、他者を自己の領分に入れることです。その人の個人を超えて拡げることです。あなたの痛みと喜びは愛する者の痛みと喜びから分かつことができません。それでももちろん私たちは生きたいと望みますが、愛する人にとってそれは絶対に最優先のことではありません。

そんなわけで私はこれまで長い間、環境運動は「私たちが今までのやり方を変えなければ、生き残ることはできない」という言い方を避けるべきだと警告してきました。本当の答は生きている世界と再び愛に落ち、それを資源やゴミ捨て場や土木工事の集まりとしてではなく、愛しいものとして見ることです。そのとき私たちは単に生き残るのではありません。私たちは繁栄するのです。恋人とパートナーになるときと同じように。

安全への熱狂と死への恐怖症は目的と情熱から切り離されたことの表れです。もしあなたが自分の命より大切なものを何も持っていないのなら、唯一の目的は命の保存しか残っていません。「私たちはなぜここにいるのか?」という問いにこの文明が出した答が崩れ落ちてしまったので、私たちの多くは個人としてもその問いに答えることが難しくなっています。個人の物語は集団の物語から紡ぎ出されるものだからです。

そうですね、パンデマニアの次の発作が起きないようにするという実際目的のためには、高いところまで昇りすぎてしまったようです。それではこの言葉で締めくくろうと思います。私たちは恐怖の利用に対して全般的に影響されやすくなっていますが、社会に流布している恐怖の程度を下げることで、この弱さを減らすことができます。恐怖に支配された社会は安全を約束する政策なら何でも黙って従います。どうすれば私たちの周りにある恐怖の程度を下げられるでしょう? 唯一の答はありません。それでも、私たち一人一人はその方法をもう知っています。


原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/pandemania-part-5


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