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目的の本性(後)

訳者コメント:
 自然や生命の神秘を前に、それが自然発生するわけはなく、時計を作った職人がいるように、世界の「設計者」(つまり神)がいるはずだ、というのがインテリジェント・デザイン(知的な設計)の考えです。聖書の言葉を文字通り信じる「創造論」は世界が神によって6日で創られたとしますが、学校で進化論ではなく創造論を教えさせることに失敗した一部のキリスト教会が、代わりにインテリジェント・デザインを推進するようになりました。一見、これは世界に目的があることを認めているようですが、実は世界と神は別者で、神が意図を押し付ける前の物質には目的も魂もないという点で、機械論の科学と同じ分断という前提を持っているのです。
 この分断のパラダイムが崩壊し、再合一の時代に進むなら、私たちはどんな世界を作ることができるでしょう。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


前半から続く

原理主義運動は、ニューエイジの大部分や東洋から移入された精神性とともに、一つには科学が暗示する神聖さの喪失への反応であり、また「分断の時代」における科学と同じ根を持つ道徳的・社会的分断への反応でもあります。普通の物質世界には神聖さが欠けているという科学に同意するように、彼らはこの世から離れたスピリチュアルな領域を想像したり、東洋から移入した思想の場合、心の奥底に引きこもったり、儀式やヨガなどの「精神修養」をしたりします。それによって宗教は、物質世界がただの物質だという科学の機械論的な思い込みを助長します。このように考えると、インテリジェント・デザインという教義は科学に〈神〉を取り戻すことを意図していますが、実際には物理世界、つまり生命と人間の世界に魂が存在しないことを裏付けるという結果に終わっているのです。

科学者たちはたいていの場合、進化に意図や目的があるという話になると憤慨し、進化は生存と複製に基づくランダムな変異と淘汰のみから生じるというダーウィンの教条ドグマを粘り強く擁護します[15]。生物発生と進化に関する代替理論は、自己と世界に関する根強い文化的前提を覆すもので、したがって私たちの直感に反しています。より表面的なレベルでは、科学者の異説に対する反感は、創造論の様々な支持者による反科学的な攻撃と共通する連想から生じたものです。したがって、ダーウィニズムに代わるいくつかの選択肢の文化的、精神的な意味合いを説明する前に、私が今はっきりさせておきたいのは、(科学志向の読者から安堵のため息を誘おうとしているのには違いありませんが)、本書で創造論や「インテリジェント・デザイン」を主張するつもりはないことです。

それでも私はインテリジェント・デザインや創造論を支持する人々の動機に共感しますが、宇宙の明白な事実を受け入れない彼らを幼稚扱いするような、上から目線の共感ではありません。それどころか、彼らの究極の動機は、神聖さも目的も奪い去られた世界に対する真摯な抗議なのです。彼らが直感するのは、神聖さと目的は宇宙の本当の性質であって、人間が投影したものではなく、再びリチャード・ドーキンスの言葉を借りれば、「根本的には設計も目的も善悪もなく、盲目的で冷酷な無関心の他には何もないとしたときに期待される特徴と、正確に一致」した宇宙と正面から向き合えない人々の、迷信的な希望的観測などでもないことです[16]。残念なことに、インテリジェント・デザインの支持者自身も、科学の主流を握っている現実の本質に関する、より深く隠された思い込みの多くに支配されているのです。これは不思議なことではありませんが、それはこのような思い込みが、私たちが生きている文化そのものに、世界を説明するために私たちが使っている概念的な語彙に、現代の思想と言語の構造そのものに、しっかりと書き込まれているからです。

インテリジェント・デザインの信奉者は、無意識のうちに大きな奇跡を小さな奇跡に置き換え、大いなる神を小さき神に置き換え、大きな謎を小さな謎に置き換えているのです。彼らがやはり無意識に加担する宇宙の非神聖化は、現在主流の科学的な宇宙論を非常に不安視するものです。現在の正統派である無神論的な宇宙論や、生命の起源、進化論に対する彼らの反対は、実は表面的なものです。より深いレベルで、インテリジェント・デザインの支持者は現代世界から神聖さと意味を奪った二元論そのものを悪化させるのです。

典型的なインテリジェント・デザインの主張では、まずネオダーウィニズムのよく知られた、そして非常に現実的な難点をいくつか挙げます。次に、眼球や細胞代謝のような高度な構造が偶然に発現するのは有り得ないほど可能性の低いことを挙げ、このような構造は超人的な知性によって計画され導かれたに違いないという結論へと進みます。生物のように複雑で、緊密に協調し、奇跡的なものが、自然発生的に現れることはあり得ず、したがって意識的に設計デザインされたに違いないのです。

しかし、すでに設計という概念そのものが暗に含んでいるのは、還元論、二元論、機械論といったニュートン的な概念です。設計とはどのようにするのでしょうか? それは部品を組み立てるという還元論的なプロセスを通じて行うのであって、それぞれの部品自体にも設計が必要かもしれません。設計は階層的に要素へと分割され、問題は外部の知性によって扱いやすい断片へと分解されます。自然発生的な成長過程は「設計」とは見なされません。生物は自分自身を設計しませんし、親が子を設計するわけでもありません。二元論的な考え方に囚われている私たちは、複雑で高度に秩序づけられ緊密に結合したシステムが、外部からの導きなしに、どのようにして自力で生まれたのかを理解することは困難です。私たちの論理では、あるものに目的があるならば、目的を持って設計されたに違いないのです。目的を与えた者のいない目的、設計者のいない設計、芸術家のいない美を、私たちは想像することもできませんが、それが私たちと世界との関係だったからで、その起源は農耕が自然の自発的な善を栽培という押しつけの善で置き換えた時にまで遡ります。農耕の心理構造メンタリティーでは、労働によってのみ善が生まれるのであって、そうでなければ畑は雑草に覆われ家畜は野生化してしまいます。インテリジェント・デザインを動機づける論理は、工学技術とコントロールの論理でもあります。まさにこの論理が定義する〈テクノロジーの計画〉は、その破綻がますます明らかになっています。

私にとっては現実が自己組織化という性質を持つことの方がはるかに大きな奇跡です。なぜそうなっている必要があるのでしょうか? なぜ現実が退屈なまでに直線的なものであってはならないのでしょうか? インテリジェント・デザインの奥深くに隠されている前提は、宇宙の本質は美しくなく、生きておらず、魂を持ってもいないけれど、外部の神によってそのように作られたはずだというものです。神が何かを作るまで、宇宙はただの死んだ物質なのだ。生命が原始スープから生まれたのは、神がそれを引き起こしたからに他ならない。細胞も、臓器も、生物も、生態系も、それ自身で完璧に機能することは有りえず、物質にそのような性質は無いのだ。インテリジェント・デザインが想定する宇宙はスピリチュアルなものではなく、魂に欠けた宇宙なのです。あらゆる宗教の母であるアニミズム(精霊信仰)に、そのような二元論はありませんでした。アニミズムは、万物に霊魂が宿るという信仰と誤解されがちですが、実際には万物が精霊だと考えます。万物はそれ自体神聖であり、何かを持っている(あるいは暗に持っていない)から条件付きで神聖なのではない、というものです[17]。この章のねらいの一つは、アニミズムを現代科学の言葉に翻訳することです。

私がインテリジェント・デザインを拒否するのは、科学的というよりも宗教的な感情からで、そのわけは、生きている宇宙は創造性と秩序と美をはらんでいて、その驚異と不思議な力、そして今もなお続く奇跡は、切り離された創造主たる〈神〉に依存する条件付きの〈天地創造〉よりも、はるかに驚嘆すべきものだからです。生命細胞の複雑さを真に理解したときに生物学者が感じる半宗教的な畏敬の念は、「神がそのように作られたからそうなったのだ」という説明によって損なわれることはあっても、高められることはありません。ありえないような出来事が無目的に連鎖して生じたという従来の説明によっても、畏敬の念は損なわれるのと同じことです。秩序、美、生命の自然発生は、宇宙の法則の中に、そしてさらに深く数学の構造の中に書き込まれていて、非常に一般的な特徴を持つあらゆる非線形システムの中で繰り返されるものであり、そうなる理由は、そのようなものだからであり、それ以外にはありえないということの方が、はるかに素晴らしいのです。私が読者に提案するのは、神がいないために何も神聖でない平凡な宇宙ではなく、あるものは神聖で〈神〉のものだがその他は単なる物質だという分裂した宇宙でもなく、むしろ、全てが神聖で、意味をはらみ、神々こうごうしさが内在し、秩序や組織や美が最初から自然に生じ、それが設計者によって上から押し付けられるのでもなく、観察者によって内側から投影されるのでもなく、〈神〉が不可分の性質である宇宙なのです。自然の驚異的な複雑さと美しさは、科学が聖なるものを否定したことに対する慰めのご褒美などではなく、宇宙そのものが聖なるものだという証拠なのです。細胞生物学者が抱く畏敬の念は「半」宗教的なものではなく、まさに宗教的なのです。

上記の議論で明らかになる言葉の障害に注目してください。聖なるもの、スピリチュアルなものといった言葉を使うことで、スピリチュアルではないもの、俗世間的なものをも含む分割された宇宙という意味を帯びてしまいます。二元論は私たちの言語と思考に組み込まれています。切り離された領域が無いのなら、スピリチュアルや神聖とは何を意味するのでしょうか? 精霊信仰者アニミストである私にとって、あらゆる生物、自然のあらゆる過程、そしてあらゆる物質のひとかけらに至るまで、私自身から切り離された存在ではなく、唯一無二の存在だということなのです。電子でさえ同じ無個性な粒子ではなく、一つ一つが唯一無二であり、その振る舞いを原因に落とし込むことは永遠に不可能です。宇宙に「それ」は無く、存在するのは「あなた」や「なんじ」だけで、それぞれが全く唯一無二でありながら、私と汝は一体なのです。パラドックスを生み出すことなくこれを言葉にするのは不可能です。不可能なのです。なぜでしょう? 世界を分類し、抽象化し、分割することが、名前、表象、象徴としての言葉の本質にあるからです。ですから、それぞれの「汝」が唯一無二でありながら私と汝は一体であることを理解するために、言葉に頼らないことです。そうではなく、恋人の目を見つめましょう。あるいは、鳥に歌ってもらいましょう。

電子の一つ一つ、水滴の一つ一つ、小石の一つ一つ、あらゆるものの一つ一つが、したがって私たちの愛を受け取る資格を持っているのです。私たちは標準的で無個性なものを愛することができません。それができるのは抽象的な世界だけです。愛は個人的なものです。愛は〈あなた〉を唯一無二で完全なあなたとして見ます。〈あなた〉と〈私〉との違いが曖昧になるほど深い繋がりを知っています。宇宙のあらゆる存在、そして宇宙そのものが持っている目的は、あらゆる存在が持つこの唯一性、この神聖さの一つの姿なのです。その体験が、私たちの人生を愛とおそれとうやまいで満たすのです。

おそらく、高まりつつあるパラダイムシフトの重要性が明らかになっているのです。それが示すのは「分断の時代」の終わりであり、私が「再合一の時代」と呼ぶ新時代の始まりです。それが示すのは、私たちが知っている文明の終焉と、新しい文明の誕生です。私たちが知っている文明は、自然の飼い慣らしを止めどなく高めていくことで築かれていました。人類の上昇とは常に、人間の目的と人間の設計を生気のない現実という原材料に押し付ける企てだったのです。それが文明の壮大な企てであり、混沌に秩序をもたらすことでした。そして今、私たちが発見しつつあるのは、混沌からいずれ秩序が自然に生じ、秩序から混沌が、その混沌からより高い段階の新たな秩序が生じることです。陰と陽が螺旋のように上昇していくのです。辺境開拓者が自然を征服し秩序をもたらす時代は終わり、宇宙に秩序が絶え間なく展開する中で、人間の意識が果たすべき正しい役割を模索する方向へと向かいます。世界と人間の新しい関係は、恋人が愛する人と結ぶ関係と同じものになるでしょう。これまで何千年も続いてきたのは恐怖に基づくコントロールの関係でした。私たちのテクノロジーは、その関係の具体的な現れであって、そのほとんどが恐怖のテクノロジーでもあります。愛のテクノロジーとはどのようなものなのか、はたして想像できるでしょうか? 一つだけ確かなことがあります。私の言う献身的な関係とは、人類の衰退や石器時代への回帰を意味するものではありません。最愛の人への献身によって、恋人は自分自身を成長させます。愛とは犠牲ではなく、お互いを充足させることです。愛そのものが、切り離された自己という論理を否定します。

本質的に創造的で、本質的に目的のある宇宙は、外部の知性による設計も、有り得ないような偶然の連鎖も必要とせず、私たち個人の生活にとどまらず、人類という種の集合的な職務と運命に対しても広範な意味を持っています。このことは、本章の後半で「地上に」帰り、生物学にじわじわと忍び寄る新ラマルク説のパラダイムの要素をいくつか検証するときに明かされるでしょう。突然変異が実際にはランダムではないという証拠が増えつつあり、生物発生と進化と行動に関する「利己的な遺伝子」理論の説得力に疑問が投げかけられています。競争に基づくこのような世界観に代わって、共生、協力、そして種の境界を越えたDNAの共有を強調する新しいパラダイムが台頭しつつあり、個別ばらばらの生物学的自己の整合性がますます疑われるようになってきました。その代わりに生まれる新しい自己の概念は、人間関係を通じて定義され、落とし込みとコントロールという企ての影響を本質的に受けません。忘れないでほしいのは、文明の大伽藍の全体が、個別ばらばらの自己という私たちの認識から生じているということです。いま私たちは新しい自己意識の土台を築きつつあり、それゆえに新たな種類のテクノロジー、新たな種類の貨幣、新たな種類の文明の土台を築きつつあるのです。再合一の時代において、愛のテクノロジーとはどんなものなのでしょうか? 自然が手がかりを与えてくれます。



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注:
[15] 実際、謙虚で控えめだったダーウィン自身は、これが進化の唯一のメカニズムだとは言っておらず、それで多くのことが説明できると主張しただけだった。その意味で、ダーウィンはダーウィン主義者ではなかった。
[16] サイエンティフィック・アメリカン誌, 2002年2月号, p. 35. マイケル・シャーマーによる引用。
[17] あらゆる宗教の母体であるアニミズムの中心をなす同じ非二元論的な理解は、それとは逆の解釈にもかかわらず、何千年にもわたって世界の偉大な精神の導師たちによって共有されてきた。それは全ての現代宗教の中心に見出すことができる。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-6-04/

2008 Charles Eisenstein

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