鮫の水槽からの便り(チャールズ・アイゼンスタイン)
訳者より:RFKジュニアとともに連邦議会の公聴会に出席したチャールズ・アイゼンスタインは、案の定、群衆倫理が全開になって襲いかかるのを目撃しました。しかしこれが群衆倫理の発作であることを理解すれば、非人間化に反論するのは逆効果で、もっと別の方法を取らねばならないと語ります。
鮫の水槽からの便り
〜 群衆倫理とワシントンDCについての考察 〜
チャールズ・アイゼンスタイン
2023年07月27日
「鮫の水槽」とは、私が先日出席した連邦議会の小委員会公聴会のことを指した呼び名だったのですが、私はロバート・F・ケネディー・ジュニアを支援するため、また地球外から来た人類学者として原住民の儀式的慣習について学ぶため、変装して出席したのです。これが上から目線や決めつけに聞こえないことを願っています。慣れ親しんだものとは全く異なる現実に足を踏み入れる感覚を、私はこのように表現するのです。
私の「変装」は、儀礼的な言葉による闘いという公の場に出るときの、原住民の伝統的な服装から成っていました。この地の方言で「スポーツジャケット」と呼ばれる不要なアウターも含まれています。スポーツとの関係はよくわかりませんが、激しい運動をしなくても発汗を誘発することで、健康上の利点があるのではないかと思います。もうひとつ特筆すべき儀式の装束は、「ネクタイ」と呼ばれる、男性のみが首に巻く薄い絹のスカーフです。このアクセサリーの記号的意味は曖昧なものです。それは優位性を示すようです(地位の低いカメラマンたちは着用していませんでした)。しかし、これは暗黙の社会規範への服従、あるいは隷属の頸木だということも示唆しています。このような公聴会にTシャツ姿で現れるのは、地位の高い者のすることであって、低い者のすることではありません。
とにかく、最初は公聴会を鮫の水槽と呼ぶのは少し気が引けましたが、それはこの堂々たる魚たちの行動を公聴会での出来事と同一視することで、鮫に対する否定的な固定観念を広めたくないと思ったからです。議員たちに喩えられることを、鮫は喜ばないかもしれません。おやおや、意地の悪い冗談でした。私も鮫の水槽の感性に毒されてしまったに違いありません。
私が公聴会で目撃した社会力学は、あまりにも人間的なものでした。私がルネ・ジラールを研究したことは、この出来事を理解するのに役立ちました。
ジラールは哲学者であり、神学者でもありましたが、2つの主な考えが良く知られています。それは、模倣の欲望と、供犠の暴力です。後者は、報復的な暴力という原初の社会問題に端を発していると彼は言います。復讐の連鎖はエスカレートし、より多くの人々が血で血を洗う抗争に巻き込まれ、最終的には誰もが敵味方に分かれます。これが発生するのは特に社会がストレスを受けているときで、それは(悪天候、不作、疫病など)完全に外部要因によるものかもしれません。
この内輪もめが社会を引き裂かないように、人々は非合理的だが効果的な解決策にたどり着きました。一致団結を呼ぶ暴力行為の中で、両陣営とも都合の良い犠牲者や犠牲者集団に矛先を向けますが、それは非人間化された下層階級であることが望ましく、社会の完全な構成員ではない人々であるが故に、その死が新たな復讐の連鎖を引き起こす可能性は低くなるのです。殺害され、血の欲望が解放され、行動の必要性が満たされると、再び平和が訪れます。犠牲者を殺すことで問題が解決したのだから、犠牲者が問題の原因だったに違いないと、典型的に倒錯した人間の論理によって、人々は結論づけたのです。こうして犠牲者は、神話や伝説の中に、悪役や怪物として記憶されました。
ほとんどと言わないまでも多くの古代文化では、社会的な調和を維持するために、供犠の生贄を殺すことで、このような殺害を制度化し先制的に用いていました。これは別のところで論じたように、死刑の起源であり祭の王の起源でもあります。
この習慣の遺産として、誰が受け入れられ誰が受け入れられないか、誰が内集団で誰が外集団か、誰が人気者で誰が変な子かということに、人は見事なほど敏感になったのです。原始的な社会的反射は、議会堂と同じように校庭でも働きます。変な子と遊んでいるところを見られた者は、自分自身が変であるという汚点を背負うことになります。関係すると罪になるという結びつきは供犠の力学の特徴です。野次に加わる熱意が足りなかっただけでも、その人に疑惑の影が差します。最も安全な道は、他の誰よりも激しく、その変な子を非難することです。あるいは魔女、ユダヤ人、共産主義者、反ワクチン主義者、陰謀論者、また現在いわれている呼び名の対象であれば誰でもかまいません。これを私は〈群衆倫理〉と呼びます。ここで「良い」とされるのは、広まった呼び名に同調し、それを呼ぶことに加わり、象徴を掲げ、スローガンを口にし、仲間集団の意見を固守することです。
マッカーシー時代には、共産党員が出席する会合に同席しただけでキャリアが台無しになりました。実際に共産主義者でなくても構いませんでした。「旅の道連」、「共産シンパ」、「赤かぶれ」のレッテルを貼られるだけで十分でした。誹謗中傷の力は客観的事実とは無関係でした。ひとたび疑惑が広がると、慎重な人なら念のため急いで被疑者から距離を置くでしょう。
私が出席した議会の公聴会で、委員会の民主党はこの戦術を展開し、ロバート・ケネディを反ユダヤ主義者と呼び、さまざまな関連を使って、彼を白人至上主義、イスラム脅威論、シナゴーグ虐殺、人種差別暴力と結びつけました。彼が明らかに反ユダヤ主義者でないことなど問題ではありませんでした。彼は最も熱心な親イスラエル政治家の一人です。(この問題に関して彼の意見には賛同できません。もし私がこの問題でどちらかの「側」にいるとすれば、それはイスラエルとパレスチナ両国の平和活動家の側です。)しかし、群衆力学では生贄が実際に罪を犯している必要はありません。
たとえ生贄が何か罪を犯していたとしても、非人間化で非難するような罪、つまり完全な人間以下だという罪はありません。誰にもそんな罪はありません。だからこそ、群衆力学が動き始めるのを目の当たりにしたとき、多くの人は原始的な憤りを覚えるのです。それは原初の不正義なのです。
そのあと私が耳にしたコメントのほとんどは、このような憤りを表していました。非人間化の戦術は、公聴会であれ、より広いメディアの世界であれ、もう上手く働かないようです。このような戦術の失敗がもっと普通になってくれば、未来は明るいです。なぜなら、これこそエリート層が大衆の政治的エネルギーを自滅させるのに使う方法だからです。
群衆倫理を利用し、それに乗じて権力を取ることに長けた、ある特定の性格があります。そのような人々は、次の不可触民の兆候を示す人物を、群衆が常に探していることに気づいています。遊び場のクールな女の子たちの首謀者が「サラにばい菌が付いている!」と言うと、他のみんなはどうすればいいか分かります。サラが実際に「クーティー」を持っているかどうかはまったく問題ではありません。(その言葉はもともと「シラミ」の意味でしたが、私が小学生の頃は、誰もそんなことは知りませんでした。私たちが知っていたのは、この言葉が仲間はずれを意味するということだけでした。)
大人の世界では、私たちは「ばい菌」の代わりに、白人至上主義者、人種差別主義者、反トランスジェンダー、陰謀論者、ニューエイジ運動屋、反ワクチン主義者、性犯罪者などとして非難されます。このような非難に対する防御法はなく、実際には反論を試みても、その関連性をさらに証明するだけです。なぜなら、思い出して下さい、誰が不可触民かを示すのは告発そのものだからです。その真偽に異議を唱えたところで、何の解決にもなりません。
現代の最高の皮肉は、敵対者の非人間化に使われる上記の蔑称の多くが、それ自体で非人間化の行為を表していることです。人種差別、女性嫌悪、同性愛嫌悪、反ユダヤ主義は、特定の他者を完全な人間ではないと見なします。相手を非人間化するためにそのような言葉を使うと、そもそも人種差別などの原因となっている文化・精神的な場を強化することになります。
現在では、群衆倫理の生贄にされる者が、文字通りリンチされたり、殺されたり、火あぶりにされたりすることはありません。しかし、昔からあるこのような比喩は、実際に起きていることを伝えています。その力学は同じであり、その結果も同じように、物質世界からの抹殺ではないにせよ社会からの追放で、その手段はデプラットフォーミング[情報や意見を共有する場(プラットフォーム)を削除することで個人やグループをボイコットすること]やキャンセリング[SNS上で過去の言動を理由に人物を排斥すること]、そして沈黙の強要です。ひとたび合図が送られると、その結果起きるヒステリーはまるで鮫に餌をやる狂乱そのもので、群衆内の一人一人が生贄の上に折り重なり、集団内受容を求めて我先に食い付こうとします。
ふつう群衆力学には誕生から消滅までのサイクルがあります。生贄を犠牲にすれば、社会の調和が再び訪れます。しかしそれが起こり得るのは、生贄の下層階級が小さすぎて実質的に抵抗する力を持たない場合だけです。現在、この社会には2つの大きな派閥があり、互いに群衆戦術を使おうとしています。現在のデジタルな公共空間における論争の隠された意味はこのようなものです。「あっち側の奴らは許せない。最低で、嘆かわしい…人間以下だ。」両方の側が強化するのは、歴史的にしばしば暴力の発作を引き起こしてきたのと同じ、この基本的な合意です。
このパターンは逆転できます。群衆倫理に対する解毒剤は、人間一人ひとりの完全かつ平等な人間性を理解し、その理解を広めることです。それは、人をレッテルに落とし込むような、都合の良い蔑視的な戯画表現や固定観念を使わないことです。その代わりに、私たちの人間性を最も高く表現する余地を与えるような、互いの物語を持つことです。そのためには、ある種の徹底的な礼儀正しさ、寛大な解釈へのこだわり、勝利よりも他の何かを優先させる意志が必要となります。
非人間化の戦術は強力で、戦争でも政治でも広く使われています。政治的な世界では、勝利よりも上に何かを置くのは直感に反することです。自分は善玉の側にいると誰もが確信しています。したがって、自分たちの勝利は善の勝利ということになります。しかし、それは妄想です。他の誰よりも根本的に優れている人などいませんし、誰一人として他の人より優れた資質でできているわけでもありません。
勝利でなければ、他の何を祭壇に捧げましょうか? あなたに代わってその問いに答えようとは思いません。それはあなたと神との間のことです。私が言えるのは、私にとって、自分が神聖視しているものを思い起こし、それに献身することこそが、他者を非人間化し、他者を他者にし、古来の人間対人間の戦いを永続させようとする反射的な気持ちを抑えるのだ、ということだけです。その反射は強いものです。周りに同調して非難すれば安全だと感じさせてくれます。でも、私はもうそれを終わりにしようと思います。価値ある勝利は、別の手段によって実現しなければならないのです。
原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/bulletin-from-the-shark-tank