自分で立ち上げたVAZの代表を退任するまでのすべて
本記事は2021年3月21日発売予定『「ダメな自分”でも武器になる』(扶桑社)の第一章を引用したものです。
絶望しかなかったひきこもりアパート生活
2011年8月。猛勉強の末に勝ち取った大学合格、そして上京。入学からたくさんの友人ができて、憧れの東京での学生生活を謳歌しているはずだった僕は、ワンルームのアパートでひとり布団に寝転がっていました。
季節は真夏。外は猛暑だったけど、一日中つけっぱなしのエアコンのおかげで暑さすら感じない。思考が鈍り、感情の機微すらなくなっていくような日々。「友達を呼ぼう」と、背伸びして借りた少し広めのアパートにいながら、僕は何をするわけでもなく、毎日朝から晩まで誰からも連絡が来ないスマートフォンを眺めていました。
思えば僕の大学生活は最初から躓いていました。入学後に参加した、サークルの新入生歓迎会でのことです。新入生で溢れかえる会場には、スーツ姿に身を包んだOBも複数出席していました。
OBの男性は新入生に向けて「大手総合商社で働いている」、「会社の重要プロジェクトに抜擢されている」など、したり顔で自己紹介をしていました。
多くの新入生が彼らに群がり、「どうやったら商社に就職できますか?」と、目を輝かせながら質問しています。
OBの男性は「経済紙を毎日読みましょう」とか、「学生のうちは全力で遊ぶのも仕事のうち」などと、どこかで聞いたような回答をして、学生たちは手帳を開き、その一字一句を聞き漏らさないようメモを取っています。
僕はその光景を見て、正直、冷めてしまいました。
新入生歓迎会に参加する目的が「新入生の大学合格を祝福したい」ではなく、「経歴自慢をして悦に入る」だけの社会人。「この人に話を聞けば(大企業に入社できれば)人生の成功が約束される」と本気で思っている学生たち。
その構図を、僕はなぜか気持ち悪く感じてしまったのです。当時は僕も生意気で、斜に構えていたのでしょう。「こんな大人にはなりたくないし、こんな大人に群がる学生にもなりたくない」と、一方的に拒絶してしまいました。
周囲との違和感はその後も続きます。食堂などで同級生と会話をしても、話が合わない。そもそも高校時代に1年留年し、さらに1浪してから入学したので、周りの同級生と年齢差があったのも大きいのですが、それを克服しようと話を合わせる努力をしたものの、コミュニケーションがうまくとれません。
年下の同級生から「もっと森くんも遊びなよ」「大学生のうちに遊ばないとダメだよ」などと上から目線でアドバイスされ、「いや、学生のうちは遊ばないとダメって、どんなロジックだよ、それ」と反発し、周囲の空気を凍りつかせてしまう......。
次第に僕は「あいつ、何しに大学に来てるんだろうね」と言われる存在になり、いつの間にか周囲から孤立していったのです。
半年も絶たずに僕は、大学に行かなくなりました。キャンパスに居場所をなくし、時間を持て余していたのでアルバイトを始めます。
最初のバイト先は家の近くのコンビニです。未熟な頭で、「誰にでもできそうだな」と軽い気持ちで選んだ職場でした。
しかし、バイト初日から様々な業務マニュアルを叩き込まれ、覚える間もなく次の仕事の説明が始まる。いざ働き始めてもまったく作業をスムーズにこなせず、最初は優しく教えてくれていた先輩も、段々と高圧的になっていきました。
僕が不器用にレジを打つ横で、テキパキと作業をこなすおばちゃんからは冷たい目線が向けられます。結局、僕は1か月もたたないうちにクビになりました。
店長からの「お前ほど仕事ができないヤツは、今まで見たことがない」という言葉......今もそのときのイントネーションまで覚えています。
その後はカフェでもアルバイトをしましたが、そちらも1か月でクビです。コンビニのときと同じく、「お前ほど仕事ができない人間は、見たことがない」という一言とともに。
友人もいないし、居場所もない。せっかく東京に出てきたのに、やることすらない。しかし自分は本当に卑屈な人間で、「自分は周りの大学生より優秀だから、みんなができることができなくても大丈夫だ」とまで思っていました。
いや、そう自分に言い聞かせないと、存在意義が見いだせなかったのでしょう。
いくら強がってみても、実際には「これから、どうやって生きていけばいいのだろう」と、目の前が真っ暗な状態でした。
「最小限の努力で最大の結果を出せ」という教え
そんな生活が数か月続いた頃、奨学金を生活費に回している自分に嫌気がさし、「できることから始めよう」と、ようやく考え始めたタイミングで、人生を変える出合いがありました。
ひとつは前述した、SNSのタイムラインに流れてきた「配られたカードで勝負するっきゃないのさ......それがどういう意味であれ」というスヌーピーの言葉です。偶然目にした言葉でしたが、ハッとしました。
友人はいないし、バイトは2つもクビになった。でも、その原因をつくっているダメな部分も含めて自分自身なんだ、と。
それから僕は狂ったように本を読みはじめます。お金がなかったので中古本を買ったり図書館に通ったりするだけでなく、当時、埼玉県所沢市に住んでいた僕は、電車一本で行ける大型書店である新宿・紀伊國屋書店に通いつめました。
早朝の西武新宿線に乗り、電車に約40分揺られて新宿に着き紀伊國屋書店に入ると、閉店時間まで一心不乱に立ち読みを始め......500円のとんこつラーメンを食べて終電で帰るのが毎日のルーティンと化していました。
紀伊國屋書店には大変申し訳ないことをしたと反省していますが、当時は本当にお金がなかったのです。
約2か月は通っていたので、おそらく200冊近くの本を読んだと思います。面白いもので、たくさん本を読むと、世の中の解像度が上がっていきます。「自己啓発本はだいたい同じことを言ってるな」とか、「なぜ世の中にある仕事は年収が多いものと少ないものに分かれているのか」とか、「会社員と経営者の間にはフリーランスという働き方があるんだ」といったように、世の中を見るレンズのピントがだんだんと合ってくるのです。
そんな毎日を過ごしていると、もう一つの人生を変える出会いが巡ってきました。当時、僕は自分を奮い立たせて学生団体主催のイベントに参加していたのですが、そこで知り合った知人から「すごい人がいるから紹介するよ」との誘いがあったのです。
向かった先は港区にあるタワーマンションの一室。そこには経営者など数人が集まっていて、僕は知人から部屋の持ち主である人物を紹介されました。
それがのちに、僕が起業するうえでのメンターになってくれる人物、Aさんとの出会いでした。Aさんは広報戦略を立てる能力が抜群に優れていて、企業だけでなく政党からもPRを依頼されるほどの凄腕ビジネスパーソンでした。話を聞き出すのがうまい彼のトークに乗せられ、僕は初対面なのに自分の状況や考えを赤裸々に話していました。すると、彼はこう言ったのです。
「森くんは、僕に似ているね」
聞けば、今は凄腕PRマンとして活躍するAさんですが、頭を使って戦略を立てられる半面、生まれつき体が弱く、長時間の実務ができないという「弱み」を抱えていました。若い頃は、戦略の立案から実行まですべてを自分でこなそうとした結果、体に無理がきて、失敗する機会が多かったそうです。
だから僕は、最小限の努力で最大の結果を出す方法をいつも考える。身体的にできないことは絶対に一生できない。100mを9秒台で走ろうと思ってもムリでしょ?でも、ビジネスの世界では、戦略次第で『できないことが、できる』ようになるんだよ」
Aさんは僕に、「自分ができることに集中して、そこで一番になる生き方」を教えてくれました。人見知りなのに誰とでもうまく付き合おうとするなど、「苦手なことを克服しよう」と必死になっていた僕とは、真逆の生き方です。
「森くんが得意なことは何だと思う?」
「どういう生き方なら本来の自分を活かせると思う?」
そんな問いかけを、Aさんは何度も何度も繰り返ししてくれました。その日から僕は、なれもしない他人に憧れるのではなく「本来の自分を活かす」という行動指針を持つようになったのです。
元ひきこもりが「意識高い系の営業マン」になる
その後、僕はさらに学生団体の活動にのめり込むようになり、自分が代表を務める団体を立ち上げました。
すると、団体同士の交流を通じて、多くの経営者志望の学生たちと出会うことになったのです。実際に、今では彼らの多くが立派な経営者として活躍しています。
しかし、思い返せば当時の僕らは「意識高い系(笑)」と呼ばれる存在でした。なにしろ「自分が働く未来を考えよう」などと銘打ち、経営者を呼んでキャリアイベントを開いたり、当時ベストセラーになっていた『ワーク・シフト』(リンダ・グラットン著)を転用したワークショップを開いて「あなたも自分のキャリアを考えよう!」などと学生を勧誘していたのです。周りから「意識高い系(笑)」と見られるのも無理はないでしょう。
元ひきこもりから1年で「意識高い系(笑)」へと変貌したのは、我ながらすごいギャップだと思います。
しかし、当時の僕にとって学生団体は非常に居心地のいい空間でした。「遊ぶことがすべて」という学生とは相容れなかったけれど、「共通の目的意識」を持つ人たちとの活動は、とても楽しかった。
そして、代表としての活動を通じて、“人を動かす”という行為の魅力も知りました。少し前まではうまくコミュニケーションがとれないと悩んでいたのに、価値観が同じメンバーの前では堂々とビジョンや活動方針を語れたし、むしろ「自分はこうやって人を集めるのが得意かもしれない」とすら感じたのです。
そして、周りの仲間たちの話を聞くうちに「起業家」という道を意識するようになったのもこの頃です。学生団体と同じようにメンバーを集めて、ビジネスを始める―そんな将来像を描くようになりました。
経営者の道を考えはじめた僕は、営業代行の仕事を始めます。紀伊國屋書店で読んだ山のような本のなかでも『ダン・S・ケネディの世界一シビアな「社長力」養成講座』(ダン・S・ケネディ著)という一冊が特に印象に残っていて、その本には社長にとって営業力がいかに重要かという点が説かれていたのです。実際に何かビジネスを始めるにせよ、まずは「売る」という行為を実践しなければいけない、そう思いました。
学生団体の友人を通じて紹介してもらったのは、小売店に集客用ITサービスの導入を促す仕事でした。ITサービスを手掛ける会社と僕の間で営業代理店契約を結び、一件獲得するごとにインセンティブが入る仕組みです。
しかし、当然ながら営業の素人が数字を上げられるわけがありません。しかも当時は飛び込み営業が主体。当たり前ですが僕は学生で、格好は入学式で着たスーツ姿だし、見た目は異様に若いし、名刺を持つどころか、そもそも社員ですらない。これで売れるほうがおかしな話です。
ただし、「売り上げゼロ」が約2か月続いた頃に、考えを変えました。今までは社会人っぽさを演出しようとしたから学生という立場が「弱み」になっていたけれど、逆に学生らしさを前面に押し出せば「強み」になるのではないか―と、自分の中で仮説を立てたのです。
次の日からは早速、営業アポの入れ方を改めました。
ターゲットを担当地域の中小企業の社長に絞り、「早稲田大学で学生団体を主宰している者ですが、地域を盛り上げる活動にご協力していただけませんか?」と、学生らしさを猛アピール。
すると、いきなり学生が飛び込み営業をしてきたのを面白がってくれて、次々にアポがとれました。実際にお会いすると、学生団体の話を皮切りに、次第に「地域の商店を盛り上げるためのITサービスの導入も手伝っています」と、営業をかけていったのです。
この作戦は見事に奏功し、半年後の僕はヘタな社会人よりもアポを獲得できる営業マンになっていました。
「使い方次第で“弱み”は“強み”に一変する」
「戦略によっては勝てないものでも勝てるようになる」
そう思い知った瞬間でした。
また、営業代行で活躍できた理由はもうひとつあります。それは、僕が営業代行を始めた際に渡されたトークスクリプト(台本)を使わなかったことです。
最初は台本通りのセールストークを心掛けていましたが、いざ本番になると「次に何を話さなければいけないんだっけ......」と、順を追って話すことに精一杯になってしまい、パニックになってしまう。コンビニバイトと一緒で、やはり僕は用意されたマニュアルを守るのがどうしても苦手だったのです。
「マニュアル通りではなく自分の言葉で話さないと、僕は“熱”を伝えられない」
そう気づいてからは、マニュアルを完全に無視。自己流のセールストークを展開し、めきめきと営業成績を伸ばしていきました。
かつては「話し方が理屈っぽい」と同級生に嫌われた僕ですが、理路整然とサービス導入のメリットを語る口調は、セールストーク向きだったようです。「コンビニバイトでは戦力外だった僕にも世の中では輝ける仕事があるんだ」と、救われた気持ちになりました。
1社目での失敗。借金1000万円を抱えた大学生
営業代行で自信を得た僕は、起業の道を探し始めました。そう聞けばアクティブな学生という印象を抱かれがちですが、実際は自信を得た半面、将来的に就職して「会社員」として働く自分がどんどんイメージできなくなっていったのが本音です。
営業代行の仕事は様々な商材を扱うことで順調に売り上げを伸ばし、多い月には50万円超のインセンティブを得ていました。
しかしある日、商談の場でお客さんから「このサービスは契約した初月から契約料が発生するんだね。一円も売り上げが伸びてないのに契約料を負担するのはキツいよ。実際に使って売り上げが増えてからの成果報酬じゃダメなの?」と言われて、「たしかに......」と思った僕は、言葉に詰まってしまったのです。
営業マンとしては、お客さんの不利益を無視してでも売り続けたほうが、一時的に成果はあがります。しかし、僕の中では一度違和感を覚えたサービスを売り続けることに抵抗感が強まってしまいました。
恐らく将来、会社員として働けば組織の一員としてこういった違和感を無視しなければいけないシーンがやってくる。それが自分に続けられるのだろうか......。
そこで僕は、「それなら自分が売りたくなるようなサービスをつくればいいんだ」と考えたのです。すぐさま学生団体を通じて知り合った仲間たちに、自分のビジネスプランや起業ビジョンを語ったところ、「一緒にやろう」という協力者を得ることができました。
そして創業したのが、1社目の「アットファクトリーズ」という会社です。
アットファクトリーズで手掛けたビジネスを一言で表すなら「ショート動画で飲食店の集客を助けるサービス」です。創業した2013年当時は、「V i n e(バイン)」というショート形式の動画共有サービスが日本に上陸したタイミングでした。若い世代を中心に急速に人気を獲得しだしていて、僕の周りにもハマっている友達が何人もいました。
そこで、ショート動画で飲食店をPRする「@mikke(アットミッケ)」というサービスを考えたのです。
もうひとつ、当時のビジネストレンドに「O20」という概念がありました。これは「オンライン・トゥ・オフライン」の略で、ネットから店舗などリアルの場に消費者を誘導することです。
つまり、アットミッケは「動画サービス」「O2O」という、2つのトレンドを合わせたビジネスプランでした。
具体的には、ビーコンという位置情報をキャッチする装置とスマホアプリを連動させて、アットミッケ経由で送客した分だけ“成果報酬”として店舗側からもらう仕組みです(営業代行時代の経験を反映させたのは言うまでもありません)。
アットミッケのサイト&アプリ内ではショート動画で店舗をPRしつつ、お客の側はスマホアプリを使って店に行くと来店ポイントが貯まるシステムでした。
このビジネスプランは非常に好評で、創業前にはメンターのAさんを通じて個人投資家から200万円の創業資金を調達することもできました。返済の義務がある「デット・ファイナンス」と、返済の義務がない「エクイティ・ファイナンス」の違いすらイマイチわかっていなかった当時の僕ですが、「リスクをとったほうが自分を追い込んで頑張れるだろう」と、デット・ファイナンスでの借り入れを決めて、創業資金に充てたのです。
しかし、結論から言うと、アットミッケは大失敗に終わります。いや、大失敗はまだ聞こえのいいほうで、大失敗するまでもなく終わりました。いざ開発がスタートしても、200万円では十分なサービス開発などできなかったからです。
さらにほかのランニングコストも追い打ちをかけます。
アットミッケではショート動画を作るのに実際に僕らが店舗に行って撮影し、編集を行っていました。まさに人海戦術です。タダで動いてもらうわけにもいかず、どんどん人件費がかさみます。
そして当然ながら当初はユーザーがゼロです。誰も使っていないサービスを店舗に広めるのにも、僕らには十分な営業リソースも提案力もありませんでした。
営業代行時代に知り合った複数の社長さんや、日本政策金融公庫からの追加融資を受けましたが、借金は雪だるま式に増えていき、気づいたときには僕は「借金1000万円の大学生」になっていました。
そこからは返済に追われる日々です。どうやってお金を返していくかを考えた結果、一緒にサービスをつくっていたメンバーに開発を任せ、僕は営業に徹するかたちで、ホームページの受託開発にビジネスモデルを切り替えることに。早速、失敗からのキャリアスタートとなり、当時は住居兼オフィスの1LDKのアパートに8人が住み込み、毎月5万円の生活費という極貧生活でした。
でも、不思議とその生活を苦しいと感じたことはありません。むしろ、「この失敗経験が絶対に次につながるはず」と、成長している実感があったのです。今にして思えば、それは自分が「得意だ」と信じるもので勝負していたからこそ、充実感を得られていたのでしょう。
アットミッケは無残な結果に終わりましたが、「事業を立ち上げる」「会社を経営する」ということの基礎が学べて、現在のキャリア形成の基盤になりました。
インフルエンサー事務所「VAZ」の鮮烈なデビュー
生活費を切り詰めながら必死に受諾制作をこなして、なんとか借金を返すメドが立った頃、改めてアットミッケの失敗要因を分析しました。
そもそものビジネスプランが自分の強みを活かしきれていなかったのです。ショート動画を使って店舗のPRをしたり、成果報酬にするという発想はよかったけれど、実際にサービスをスタートした後にどういったコストが発生するのか、運営にどれほどの人員や資金が要るのか、その見積もりが甘いままに見切り発車していました。
たとえるなら、リクルートのような大企業が新規事業として参入するサービスを、資金力も十分な開発リソースもない大学生の僕が始めてしまったわけです。
だからこそ、次の事業では学生という立場の強みをもっと活かそうと思いました。それは、自分を含めて情報感度の高い若い人たち―つまりトレンドに敏感な人材が周囲にたくさんいることです。
彼らは流行りのプラットフォームにいち早く飛び乗り、次に来そうなコンテンツを素早く嗅ぎ分けます。そういった周りの人材を活かすためには、プラットフォームをゼロから作るよりも、すでに流行っているプラットフォームから良いコンテンツを探し出し、それを活用したビジネスで稼ぐほうがいい。
いや、むしろ資金がない学生という自分の弱みを強みに変えるには、それしかないと思ったのです。
そうして次の挑戦に選んだのが、VAZです。2015年当時、動画配信サービスのYouTubeを通じて、自ら動画をアップすることで世間の注目を集める「YouTuber」が人気を獲得し始めていました。
今でこそインフルエンサーやYouTuberといった職業が市民権を得ましたが、僕がVAZを創業した当時はまだ黎明期でした。「インフルエンサーなんてまがいものだ」すぐに人気がなくなる」という声もありましたが、僕の目には世の中が無視できない大きな“うねり”が見えたのです。
大人たちはたいして見向きもしていませんでしたが、すでに若い世代はインフルエンサーやYouTuberに熱狂している。その光景を見て、「スターの定義が変化する」という直感がはたらきました。
今ではテレビに出まくっている芸能人はスター扱いですが、戦後にテレビが普及してからしばらくは、「舞台や映画に出る俳優が一流で、テレビに出る俳優は二流」とされた時代がありました。
そうした歴史が、テレビとネットに主語を変えて繰り返すと思ったのです。
ただ、当時からすでにYouTuberのプロダクションは存在していました。今も業界最大手として君臨する「UUUM」です。
日本を代表するYouTuberのHIKAKINさんも所属しており、今からまったく同じタイプのプロダクションを立ち上げたところでUUUMの牙城を崩せないことくらい、起業家見習いの僕にも理解できます。
そこで注目したのが、YouTuberとは対照的に、ショート動画を投稿していた「ショートムーバー」たちです。“6秒動画”と言われていたVineや、動画共有SNS「MixChannel(ミクチャ)」で人気を得ていた投稿者たちに声をかけ、UUUMとは一味違ったプロダクションを立ち上げようと思ったのです。
「UUUMとは直接的な競合をせずに、自分たちも成長できるポジションをとる」
それがVAZを立ち上げる際の基本戦略でした。僕は得意なことを活かすうえでは、どの場所で能力を発揮するかという「ポジショニング戦略」が非常に重要だと思っています。
そのうえで、当時の僕が考えたポイントは2つ。
まず「UUUMが急成長した理由」を分析すると、やはり設立時にHIKAKINさんをスカウトしたのが大きかった。つまり、業界のトップタレントが所属しているという事実が、あとに続く有望なYouTuberを引き寄せたのです。
プロダクションビジネスの明暗は、やはりここだと思いました。UUUMがまだカバーしきれていない、Vineやミクチャで人気のタレントたちに所属してもらうにしても、やはりショートムーバー界のトップに相当するような人を口説く必要があったのです。
そしてもうひとつのポイントは、大勢のショートムーバーの“ハブ”になっている人物を探すことでした。
人気があったショートムーバーたちの情報を最も押さえていて、彼らとコミュニケーションがとれる人物は誰か―そう考えて探し当てたのが、VAZの初期メンバー・Sさんです。
たとえ僕がSNSのダイレクトメッセージを通じて投稿者に声をかけたとしても、ほとんど返信はないでしょうし、返信が来ても「ていうか、あなた誰ですか?」と断られてしまうのは明白です。だから、最初からトップ・ショートムーバーとつながりのある人物に任せようとしたのです。
自分がすべてに手を出すよりも、役割分担をしたうえで”得意な人”に任せたほうが、圧倒的に早く結果が出せる——これはメンターのAさんから教えてもらった「最小限の努力で最大の結果を生む」という哲学にも基づく考えでした。
僕がスカウトにまであれこれ手を出すと、むしろ逆効果になると思っていたのです。
Sさんが最初に声をかけたのは、Vineで大人気だった「もちくん」というタレントです。現在は音楽家として活動しています。Sさん経由で話を進めてもらい、最終的には僕も加わり交渉したところ、もちくんはVAZに所属することを決めてくれました。
彼がVAZに所属することは、大げさにいえば、UUUMにHIKAKINさんが所属するようなものです。VAZの快進撃は、ここからスタートします。
一方、その頃の僕は投資家からの資金集めに奔走していました。僕が得意なのは、営業代行時代に培ったプレゼン力と、商談の場で「人をその気にさせる」ことです。スカウトの分野には手を出さす、自分の能力は資金集めに集中したほうがいいと考えていました。
そうして出会ったのが、VAZに初めての投資を決めてくれた、アドウェイズの取締役・西岡明彦さんです。西岡さんとは、まだ僕が借金を抱えているときに、たまたま参加せてもらった飲み会で知り合いました。
その飲み会は、有名企業の役員と若い起業家の交流会のようなもので、参加者には若くして大型の資金調達をしている起業家の方もいました。
しかし僕は、ただの起業家見習い。実績もないので肩身が狭く、まったく存在感がなかったと思います。
ただ、交流会が終わった後に、西岡さんの気まぐれで「家に遊びにくる?」と誘ってもらい、結局その日はお世話になることになりました。
都心のタワーマンションから見える綺麗な夜景を眺めながら、「自分と年齢が変わらない起業家たちが、あれほど成功しているなんて......」と、悔しさをかみしめたことを今でも覚えています。そんな話を西岡さんとしていると、彼は「これからきっと、動画インフルエンサーの時代が来る」と、次のトレンドを話していました。
僕はこの話を、資金集めの最中に思いだします。現状を伝えようと、慌てて名刺を探し、「事業の相談があるので会っていただけませんか?」と、連絡しました。
これは後日聞いた話ですが、西岡さんは話を聞くことすら断るつもりだったそうです。仮にも上場企業の役員が、とりたてて実績のない大学生から連絡をもらったところで、ただの時間のムダだと感じてしまうのは当然です。ただ偶然にも、西岡さんが時間に余裕のある日だったのが救いでした。
しかし、焼肉店でテーブルを挟みながら、「西岡さんが言っていた、動画インフルエンサーの事務所を立ち上げました」と報告すると、彼の顔色が変わりました。
もちくんをはじめ、すでに30人ほどのインフルエンサーたちが所属を決めてくれていたので、その結果に驚いたのだそうです。
西岡さんは、その場で投資することを決めてくれました。
実を言うと、インフルエンサーがVAZに所属してくれたのは、西岡さんのおかげでもあります。今だから言えることなのですが......投資が決まる前から、西岡さんの名刺をチラ見せしながら「上場企業から投資が決まるかもしれない」とハッタリをかまして、インフルエンサーたちを勧誘していたのです(皆さん、あのときは本当にすみませんでした......)。
とはいえ当時の僕は、成功への道をひた走るのみです。
所属が決まったタレント全員に、事務所に入った報告を動画で一斉に告知してもらい、話題を一気にかっさらおうと狙いました。企画名は「ファーストVAZ」。
この試みは大成功し、たった4時間で動画の合計再生数が約16万回にのぼり、ツイッターでは「#VAZ」がトレンド入りして、投稿のインプレッションが100万回を超えるなど、想像以上の結果になりました。
さらに西岡さんからの紹介で投資会社から2000万円の投資も決定。かくしてVAZは、設立からわずか2か月後に大手企業2社から計3000万円の投資を得られたのです。
ショート動画からYouTubeに「戦場」を移す
タートダッシュに成功したVAZですが、創業1期目を終える前に、早速経営の危機に立たされることになります。なんと、経営を支えてくれていたプラットフォーム・Vineがービスを終了してしまったのです。
ツイッターで配信していたタレントの動画も徐々に飽きられはじめ、再生回数は伸び悩み、創業1年目から冷や汗をかきながら経営することになったわけです。
しかし、そのタイミングで所属タレントたちがYouTubeでの動画配信をスタートします。プラットフォームは変わっても、ショート動画出身だからこその強みが発揮できるのではないか。そう考えて全員で「戦いのフィールド」を移したのです。
実は当時、「このままいけば、来月には倒産する」という局面すらありました。人件費とオフィス代、そしてクリエイターのサポート費用が重なり、新たな取引先を獲得しなければ立ちゆかない状況だったのです。
とはいえ、あれだけ「一緒に頑張ろう」とタレントを口説いておいて、「潰れてしまいました」なんて口が裂けても言えません。一人の営業マンとしてタイアップ案件の獲得に奔走し、なんとか危機を乗り越えようとする日々を過ごしていました。
しかし、こんな状態で経営を続けることはできません。次の資金調達に向けて、新たな手を打つ必要がありました。
そこで注目したのが、新規事業の立ち上げと、にわかに人気を獲得しはじめていた「関西YouTuber」たちのスカウトです
「MelTV」立ち上げと、ヒカルとの出会い
新規事業とは、人気雑誌『Popteen』の動画版をコンセプトに立ち上げた、「MelTV」です。
『Popteen』が人気の理由は、その世界観にあります。美容やファッション情報を網羅していることが大事なのではなく、モデル同士の触れ合いや、ライフスタイルが覗けることに人気の秘密がありました。
言ってしまえば、ファンブックに似た要素があるのです。
そうした構造を参考に番組をつくったところ、「MelTV」は急成長しました。
解説から瞬く間にチャンネル登録者が40万人近くになり、「MelTV」の成長とともに、出演していたタレントの人気も高まっていきました。
当時出演してくれていた「ねお」や「ゆん」(現在は『ヴァンゆんチャンネル』でも活動中)は、今では登録者数が100万人を超える人気タレントになっています。
ちなみに、「ねお」は参考にした本家『Popteen』の専属モデルにもなりました。今でこそYouTuberがファッション誌の専属モデルになる事例は多いですが、ねおはそのトップバッターです。
そして、VAZの認知を一気に広めることになったのが、もうひとつの「関西YouTuber」たちの活躍です。特に、人気YouTuber・ヒカルの存在がとても大きかった。彼を抜きにVAZを語ることはできません。
まだ事務所に所属していなかった関西YouTuberたちに、VAZに所属してもらおうとヒカルにメッセージを送ったときのことを、今でも鮮明に覚えています。
連絡をとると、ヒカルは「関西まで来てくれるならいいよ」と返信をくれました。ただ、実際に役員と一緒に姫路駅を訪れたところ「本当に来たんか」と言われたことも覚えています(笑)。
打ち合わせ場所は近くのサイゼリヤです。彼の車に乗せてもらい、その際に「ヒカルさんのYouTube、最近すごく伸びてますね」と声をかけると、「当たり前やろ。俺は天才なんだから、そんな当たり前のこと言わんといてくれや」と一蹴されました。当時から髪の毛の半分は金髪で、正直、めちゃくちゃ怖かった。
サイゼリヤでは、事務所としてのVAZの構想を説明しました。ただ、ヒカルはそれにはまったく興味がないようで「俺は事務所に所属するYouTuberになりたいわけじゃないんです。YouTuberをスカウトするような言い方はやめてもらえますか」と言われてしまいました。
彼は「僕が興味があるのは、森さんが今後、VAZをどんな会社にしていきたいのかというビジョンです」とも付け加えました。それから僕が考える今後の世の中の変化や、そのなかで「社会に新しいエンターテインメントの価値を提供したい」というビジョンを熱く語ったところ、なんやかんやで盛り上がり、気がつけば深夜3時頃まで一緒に飲んでいました。
ヒカルは常に、未来のことを考えていました。時代の変化に臆することなく、新しくて、冒険的なチャレンジをすることに興味を持っていました。
だからこそ、一人で戦うよりもVAZと組むことで、もっと大きなアクションが起こせると感じてくれたのでしょう。
最後に飲んでいた居酒屋で、ヒカルは「契約します」と一言。後日、東京のオフィスを訪れてくれたヒカルは契約書の内容も読まずにハンコを押そうとしたので、僕が「一応確認したほうがいいですよ」と言うと、「もう決めたことなので、目をつむって押します」と、彼はそのまま契約書に捺印しました。
さらに「俺が関西の人気YouTuberを集めてくるので、VAZの中に新しい事務所(レーベル)をつくりましょう」と、提案までしてくれました。そうして生まれたのが、ヒカル、ラファエル、禁断ボーイズで結成した「NextStage」です。
急成長に組織が耐えられなくなった日
「NelTV」の躍進、既存タレントの活躍、そして「NextStage」の発足により、VAZの知名度は一気に向上します。
設立当時から所属してくれていたスカイピースも、以前にも増して爆発的な人気を獲得していました。
女性YouTuberとして、日本でトップクラスのチャンネル登録者を誇る「まあたそ」の所属が決まり、渋谷109のポップアップストアでは、一日の1店舗あたりの過去最多売り上げを更新するなど、文字通り「飛ぶ鳥をも落とす勢い」でした。
当時のVAZが成長できた要因は、とにかくYouTube業界ではそれまでになかった施策を打ち続けたことに尽きます。UUUMはトップYouTubeが所属することで成長を続けていましたが、同じ戦略をとっていたのでは勝ち目がない。
そこで新しいメディアの理論を考えたり、プロダクションの中にレーベルを立ち上げてみたり、新たなるトップスターを輩出することを目指し続けたのです。
当時の雰囲気をたとえるなら、まさにお祭り状態です。数億円規模の投資が入り、メンバーがどんどん増え、所属タレントも増えていく。お祭り騒ぎの熱狂のなか、毎日夢中で働いていました。
2年目には社員数が一気に増えて、いつの間にか60人規模の会社に。オフィスも設立当初から借りていた物件が手狭になり、月の家賃が何百万円の港区・青山の一等地にある新オフィスへの引っ越しも進んでいました。新オフィスは内装もVAZのロゴやイメージカラーを使った豪華なものにして、「時代の最先端企業」という印象を、内外にアピールしようと考えていました。
当時の売り上げは月次で1億5000万円を突破。なんと前年度比1000%以上という、とてつもない成長ぶりでした。
僕自身も会社の外に出れば、誰かと会うたびに「すごいね」と褒められる。小学生のときにずば抜けて勉強のできた生徒が「神童扱い」されることがありますが、まさにそのイメージです。
アジアを代表するベンチャー・キャピタル「East Ventures」の創業者である松山大河さんに会った際に「僕は毎年、その年の失敗を振り返っているんです。創業期のVAZに投資をしなかったのは、失敗の一つだと思っています」とおっしゃっていただいたこともありました。
ただ、「VAZは勢いがある」という世間の評判とは裏腹に、僕の胸中は不安でいっぱいでした。
現在の成長を来年も続けられるとは限らないし、何よりほんの数年前まで僕はひきこもりの大学生です。「自分にそれほどの力があるのだろうか?」と、ギャップを感じることが何度もありました。
しかし、「勘違いしてはいけない」と自分に言い聞かせつつも、一方で「自分はすごいんだ」と勘違いしたい自分もいました。
そうでもしなければ、メンバーの前で、タレントの前で、メディアの前で、自信をもって進むべき道を示すことができなかったのです。
そして、不安は少しずつ形になっていきます。当時のVAZは絶好調という以外に表現のしようがない状態で、毎日のようにタイアップの依頼が来ていました。それは、営業担当が努力をしなくても、契約が取れてしまうような状態です。
すると、いつしか傲慢になってしまうメンバーが出はじめます。
金額の大きな契約だけに対応し、そうでない依頼には断りの連絡も入れずにオファーのメールを無視していたのです。
ただ、これは僕にも責任があります。「成長はすべてを癒やす」を合言葉に、とにかく事業の成長に心血を注ぐばかりで、組織づくりに関して有効な手をほぼ打ってこなかったのは、ほかならぬ僕自身でした。
VAZは気づかぬ間に、僕も含めて勘違いした組織になっていました。
お祭り騒ぎの熱狂を「自分たちは優秀なんだ」とはき違え、つくりたい未来ではなく、世間からの注目度や、勝ち組の会社に在籍しているという優越感にベクトルが向いてしまっていた。そこにはまともな制度や企業カルチャーが存在していなかったのです。
見て見ぬふりをしていましたが、社内に謎の政治圧力が生まれていたり、僕の前ではいい顔をしながら、部下には僕へのグチをこぼし続けるメンバーもいました。
タレントのマネジメントが僕らの役割なのにかかわらず、それさえ杜撰な状態です。タレントが自分の才能を最大限に発揮するために、「自由にやりたいことをやってもらう」という方針を掲げていたにせよ、会社としてもっとやるべきことがありました。
そんなある日、事件が発生します。
世の中を騒がせてしまい、多くの人に迷惑をかけてしまったのでご存じの人も多いかもしれません。メディアでも大きく取り上げられた「VALU炎上騒動」です。
*VALU炎上騒動とは*
「VALU」は2017年に始まったビットコインを使って擬似的な株式(VA)を売買できるサービスで、利用者が「自分自身の価値」を売買できるというものだった。当時VAZに所属していたYouTuber数人がVALUを始めたところ、知名度も影響してVAが値上がりし、連日ストップ高が続いていた。しかし、YouTuber本人が特に告知することもなく所持していた全CAを自ら売りに出し、VAが暴落。株主(VA保有者)のほとんどが損をするかたちになった。当然、YouTuberへの批判が殺到し大炎上に発展。本人たちはSNSで謝罪し、売却したVAを過去最高値で“自社株買い”を行うと発表したが、批判の声はなかなかやまなかった。
2017年8月某日。炎上騒ぎが発生した日は、新オフィスのお披露目の日でした。会社に向かうと、社員たちがみんな悲愴な面持ちをしています。全員がクレーム対応に追われ、床にはゴミが散乱し、社内にはとてつもなく重い空気が漂っている。
さながら「カオス」とでも言うべき状況でした。
逆風に晒される日々は、しばらく続きます。
タイアップ案件のクライアントへの謝罪回りを終えてオフィスに戻ると、あたり一面がまるで“動物園状態”になっている。「ゴミを捨てろ」と注意をすれば「なんだお前?」とばかりに睨らみつけられ、「VAZは潰れる」「本当にダメな社長だ」といった陰口が、あちこちから耳に入ってくる。
「組織体制がボロボロでも、勝ち組の会社にいるから大丈夫だろう」と不満を溜め込んでいたメンバーたちが、会社が負け組になりそうになった瞬間、一斉に手のひらを返しました。当時のVAZには、「会社を成長させたい」と心から願うメンバーがあまりにも少なかったのです。
そうなると不思議なもので、自分の打つ手打つ手がことごとく失敗するようになります。状況を打破しようと細かいマネジメント体制を見直したり、数字の管理を抜本的に改めたり、いちから自分でセールス資料を作ったり......、これらは本来、僕が「苦手だ」と感じている仕事ジャンルです。だからこそ、社内の「得意な人」に頼ってきました。
ビジネスプランの立案や人を巻き込むのが得意だと自分を理解していたつもりなのに、「どうにかしなくちゃいけない」と悪手を打ち、失敗すると「次はこれをしなくちゃいけない」と、また悪手を打つ。
失敗が失敗を呼び、「負のループ」から抜け出せなくなったのです。当時は社長の僕ですら会社に行くのが嫌になるほど、心を削られました。お酒に逃げてしまうこともあり、一時期はアルコール依存のような状態だったと思います。
取引先との契約は次々に切られ、炎上騒動後の数か月間でVAZは売り上げの約8割を失いました。
夢なかばでVAZ社長を退任。そして次へ
直なところ、今でもあれほどの危機をどうやって乗り越えられたのかわかりません。
炎上騒動からしばらくの間、毎日のように自分の能力のなさを恥じました。でも、どれだけ自分の不甲斐なさに絶望しようが、僕には「事業を前に進める」という選択肢以外なかったのです。
スタートアップの「あるある」ですが、課題は毎日のように発生し、その度にすぐ決断を迫られます。当時のV A Zは、ひとつでも判断を誤れば、もうあとのない状態でした。精神的にはギリギリでも、止まれば会社が終わるのです。
それに、僕を見捨てずに支えてくれたメンバーや、事務所を離れることなく「これからもVAZで頑張ります」と声をかけてくれたタレントの存在も大きかった。彼らに対して不義理なことはできない。リスクをとってVAZに残ってくれた選択に対し、絶対に報いなければいけない。
寝ても覚めてもVAZのことだけを考え、僕はひたすら新規クライアントの獲得に動き回りました。
すると、少しずつ騒動前の勢いが戻ってきます。組織管理をおろそかにしていた反省から、クリエイターのサポート体制を手厚くし、なんとか息を吹き返すための施策を打ち出した結果、少しずつ売り上げが回復してきたのです。
創業以来、最大の失敗を経験しましたが、それでもVAZは翌年に約14億円という過去最高の売り上げを達成しました。これは営業努力もさることながら、炎上騒動を吹き消すくらいにYouTubeへの猛烈な追い風が吹いていたということでしょう。
さらに勢いをつけるために、21の投資家から総額約11.5億円の資金調達を実施。この時期には「このまま頑張り続ければ......」という希望が見えていました。
しかし、どうしても既存のビジネスモデルを超える新たな施策が生み出せませんでした。新たな一手として就活支援サービス「バズキャリア」の立ち上げや、テレビタレントのYouTubeチャンネル開設サポートなどを実施するも、さほど成果が出ない日々が続きます。
そうした状況下、プロダクション事業の在り方にも変化が起きました。
YouTube業界内でタレントの独立が頻繁に起こるようになり、それはVAZも例外ではありませんでした。プロダクション事業は、所属タレントがすべてです。極端な話、人気タレントたちは、ひとりでも十分に食べていけるだけの影響力を持っています。
それでもプロダクションに所属する理由は、マネタイズの手段をディスカッションできたり、仕事を獲得する営業活動を一任できたり、煩雑なスケジュール管理を任せられるなど、Win–Winの関係になるからです。
インフルエンサーの多くは純粋なビジネスパーソンではないので、事務所に所属することで、自分にないものを補っているのです。
誰でも発信できて、つながり合えるSNS時代だからこそ、インフルエンサープロダクションは、所属タレントにもっと価値を提供していかなければいけません。前述のサポートにも価値はあると思いますが、そもそもひとりでも発信を行える彼らが、それでも事務所に所属するメリットを感じてもらうには不十分です。
そこで、新たな取り組みとしてスタートしたのが、“小さな編集部”という構想でした。これは、従来のようにYouTuberが「個人」として活動するのではなく、あらゆる分野の人材が集まり「小さなチーム」として所属タレントを伸ばしていくアプローチです。その第一弾としてメンバーを結集したのが、YouTuber・ねおが率いる「ねおチーム」でした。
チームには彼女と僕と3人のマネジャーに加え、YouTuberプロデューサーでVAZのCOO(最高執行責任者)の渡辺広輝が参加。さらに、「きゃりーぱみゅぱみゅ」や「ゲスの極み乙女。」、「WANIMA」らを世に送り出した音楽プロデューサー・鈴木竜馬さん(ワーナーミュージック・ジャパン執行役員)にも加わっていただきました。それによって、従来のYouTuberとしての活動だけでなく、音楽活動というフィールドにも打って出ようと考えたのです。
これからネットとテレビの境界線が溶けていくことは、誰の目にも明らかです。ネット発のインフルエンサーがテレビや雑誌といったマスメディアへと進出するだけなく、テレビを主戦場とするタレントたちがSNSに参戦し、ソーシャルメディアとマスメディアの境界線が溶けた世界では、「スター」の定義が曖昧になってきます。
つまり、これからはメディアの枠を超えた「スタービジネス」という大きな括りでの勝負になる、と僕は考えたのです。
そうした未来を見据えて、誰もが「VAZには所属する価値がある」と感じられる事務所にすべく、起死回生の策としてこのプロジェクトを発足しました。単なるタイアップ案件を受け流す存在ではなく、VAZに所属することによって、YouTubeから音楽業界やテレビ業界に“越境”するようなスターになれる場所にしていきたかったのです。
だからこそ会社の枠組みを超えて人材を集め、小さなチームを結成しました。
「小さな編集部プロジェクト」は、いわば、それまでのインフルエンサー市場の常識をぶっ壊すための試金石でした。
しかし、プロジェクトが実を結ぶ前に、僕はVAZを退任することになります。決め手になったのは、コロナ・ショックです。
VAZは、所属タレントのチャンネルから発生する広告収益を主たる収益源とせず、クライアント企業からの広告出稿で事業を成長させてきました。「事務所としてはタレントに対し、所属するメリットを最大限に提供したい」という信念を持っていたからです。
しかし、景気の悪化とともに企業による広告費は急激に減ります。タイアップ案件の中止や延期が相次ぎ、中長期視点で考えると、事業継続が難しくなる可能性が出てきました。
「VAZの未来を実現するために、何ができるのか」
「所属してくれているタレントの夢を叶えるために、何をすべきなのか」
必死に考えて、経営者の先輩に相談し、投資家を回り、経営陣と議論を重ね......と、目まぐるしく動き回った結果、僕の実力では、形勢を逆転する打開策を生み出すことはできませんでした。
最終的に導き出した結論が、代表を退任し、経営を株主である共同ピーアール代表の谷鉄也氏に託すことです。
それは、僕らが5年かけて築きあげてきたVAZが、今後も成長し続け、高みを目指すための選択でした。
かくして、僕の経営者人生の一幕が閉じます。
「成功」と「失敗」を経験したから伝えられること
創業してから6年間、朝から晩までVAZのことを考え続けてきたので、退任という意思決定はあまりにも悔しく、情けない。
しかし、辞めてからの1か月は気が抜けて放心状態でしたが、時間がたつとともに、次にやりたいことが見えてきました
そのひとつが、本の出版です。
思い返せば、ひきこもりになってどん底だった20代前半から、「得意なことで勝負しよう」と決めて起業家の道を選び、VAZを立ち上げ、時代の波に乗ってとてつもないスピードでの成長し、一転、そこからの急降下の両方を経験してきました。
成功もあったけどたくさんの失敗をしました。そして、その失敗からたくさんの学びを得ました。
そんなアップダウンの激しい僕の「人生の教訓」は、本書を読む皆さんにとって、何かしら役に立つのではないかと思ったのです。
その最たる教訓が、自分が本来抱えている「持ち味」は、使い方次第で足枷にもなるし武器にもなるということです。
大学生時代とVAZでの経験を通じて、僕のなかで自信をもって「得意なこと」と言えるのはたった3つだけです。
■フットワーク軽く「新しいもの」に挑めること
■「こんな事業なら儲かるのでは?」というビジネスプランを考えること
■「大きなビジョン」を語り、仲間や投資家を集めること
しかし、結局はこの「得意なこと」に全エネルギーを注いだからこそ、一定の成功を収められたのです。改めて振り返っても、「他人よりも苦手なことが多い僕が社会で戦うには、これしかなかった」と断言できます。
記事の最下部に、僕の人生と、そこから得た「ダメな自分でも武器になる」という教訓を書き綴った書籍のリンクを貼りました。
書かれている内容は、引きこもり大学生が会社を創業し、年商14億円へと成長させるも、自らの意思で退任せざるを得なくなった過去、そしてVAZの栄枯盛衰から学んだ「自分の強みと弱みを理解し、自分を変えることなく輝くための生き方」です。
いわば、僕の人生を形作る、究極の教訓が書かれています。
まだ30歳で、未熟な僕ですが、ジェットコースターのような起業家人生から得た教訓は、きっと皆さんの人生に役立つはずです。
ダメな自分に悩むすべての人の“救いの書”となるよう、すべてをさらけ出しました。ぜひ一冊、手にとってみてください。