小説『エッグタルト』第二十一章
放課後になり、部活も早めに終わり、家に帰る途中に川沿いで川を見つめながら三角座りをしている川野さんを見かけた。
「川野さん」
そう言いながら川野さんの横に座ると、川野さんはそばにあった石を左手で掴み取り、投げ始めた。
「川野さん、左投げなの?」
「右投げよ。右投げ、右打ち」
「いや、打つほうは聞いていないけど」
そう俺が言うと、川野さんは石を投げるのをやめ、少しこちらを見てからまた川の方に目を向けて、川を見つめていた。
「数学オリンピック、残念だったね。でも、人生、数学だけじゃないと思うよ。川野さんは頭がいいし、きっとこれからいろんなことができると思うよ」
「数学は、私にとって人生のすべてだったわ。お爺ちゃんが大学で数学を教えていたから、子供のころからお爺ちゃんの家に行っては数学の面白さを教えてもらっていたの。私も、一生懸命本を読んだりして勉強していたわ。お爺ちゃんにどうしてもいいところを見せたかったのだけど」
そう言うと川野さんは俯き、体を震わせ始めた。
「川野さん、大丈夫?」
「お爺ちゃんが亡くなったとき、病室の窓辺に食べかけのエッグタルトが置いてあったらしいの」
そう言うと川野さんは震えながら泣き始めた。涙をぼろぼろとこぼしていた。
「川野さん」
「お爺ちゃんのことが、好きだったから。凄く」
川野さんは目をぎゅっと閉じ、歯を食いしばりながら泣いていた。
「うわああっ」
俺は立ち上がり、叫びながら、ダッシュで川の中へと飛び込んだ。
大きな音と共に水しぶきが上がり、体が水の中に沈む一瞬の間に、ふと目を開くと、川の中はほんのりと黄色がかっているように見えた。水中も、意外と明るいのだな、と思い目を閉じた。
体が浮かび、立ち上がり、びしょびしょになりながら川辺に戻ると、川野さんは、あ然とした表情でこちらを見ていた。涙も止まっているように見えた。
「あなたって、頭がおかしいのね」
「だから、そんなにはっきり言わないでってば」
俺は膝に手をつき俯きながら答えた。
「なんか、びっくりして興ざめしちゃったわ」
「まさか、お菓子に何か盛っていたとかじゃないよね?」
「そんなわけないでしょ。大好きだったのに。寿命よ。老衰よ」
「そっか、ならよかった」
別によくはないでしょ、とでも言いたげな表情をして川野さんは口をつぐみ、俯いた。
「川野さん、そろそろ帰ったら? 俺、体がずぶ濡れだからもうちょっとここに残って川見てるよ」
「私も、もうちょっと残って石見てる」
そうしてしばらく、特に会話をすることもなく、ぼんやりとしていた。川も意外と海のように波ができていたり、ゆらゆらと揺れていたり、太陽の光を反射してきらきらしたりしているんだな、と思った。今まで、しっかりと見続けたことがなかったから気がつかなかった。
「私、そろそろ帰るわね。ちょっと元気でたわ。ありがとう。あなたも、もうしばらくしたら帰りなさいね」
「うん」
返事をして川野さんの方を見上げると、川野さんは、目を細めながら笑っていた。凄く優しい表情をしているな、と思った。
川野さんは振り返り、歩いて帰っていったので、俺は川に目を戻し、もうしばらく川を眺めていようと思った。