小説『三分間』全編
夕日が沈んでゆく。夕日が沈む際は、空がオレンジ色に見えるよな、とふと思った。昼頃には、空は青く見える。夜は、太陽が昇っていないから黒だな。そんな当たり前のことを思うのだが、理由はなぜだろう。きっと世界のどこぞの国の科学者がその理由を解明していて、インターネットで調べたりしてみたら、その理由が出てくるのだろう。ただ、僕はそんなことで理由を知りたくはなかった。理由とは、人間がでっちあげた概念にすぎない。
夕焼けはオレンジ色に見えるからオレンジ色なのだし、昼は空が青いから青いのだ。僕は何を言っているのだろう。そもそも、オレンジ色ってなんだ? どこの誰がこの色はオレンジだと決めた? ああ、なんとなくこのみかんの色と夕焼けの色は似ているな、じゃあ夕焼けはオレンジ色なのか、と決めているのだろうか。うん、そういうことにしておこう。
僕はいつもこんなくだらないことを考えて、時間を浪費している。本当は、勉強したり、自己研鑽か何かをしないといけないのだろうが、現実逃避だ。いつも学校帰りにひとり山に腰掛け、ぼんやりと空を眺めつつ、物思いに耽る。
いつも空のことを考えているわけではない。例えば、今夜のおかずはなんだろうな、とか、巨人か阪神だったら、どっちがいいかな、とかも考えている。深いテーマだと思う。最近は、阪神が好きだ。阪神は、いつも人々に元気を与えてくれる。六甲おろしを、歌いたくなる。ここで突然立ち上がって歌い出したら、僕は異常者に見えるだろうか。きっとそうだろうな、やめておこう。
すっかり夕日が沈んでしまい、ああ、また意味のない一日を過ごしてしまったなと、自分の愚かさに絶望する。うん、自分に厳しすぎだな。いい一日を過ごせたということにしておこう。
僕は立ち上がり、帰る準備をする。教科書の入ったリュックサックを背負い、尻についた汚れをはらう。そして、全速力で山を駆け下りる。ウォー! いかんいかん、街に攻め込むわけでもあるまいし、なによりダッシュで山を駆け下りるのは危ない。それもやめておこう。普通に歩いて降りることにした。
暗い山道を歩いて下っていくことは、とても怖い。ひとりだと尚更だ。いつどこで獣が襲ってくるかがわからないからだ。生憎、僕はポケットに入るタイプのモンスターを連れていない。いつ敵が襲いかかってきても、バトルを始めることはできないのだ。なんとも悲しい人生である。ただ、獣に襲われるのを黙って受け入れるしかない。
お尻に噛み付かれて、ズボンでも破けたら恥ずかしいだろうな。せめて、パンツだけは守っておきたい。生尻を晒すことはごめんだ。生尻を晒すことは、生き恥を晒すことと同等であると、その瞬間気づいた。大学に入ったら論文で発表しよう、そう思った。
街へ降りると、すでに家々の明かりが点々としていた。サンバ隊が、サンバを踊っている。とても楽しそうだ。ブラジルではきっとこんな光景を毎日見られるのだろうなと思うのだが、現実はそんなに甘くはない。
僕の街では、サンバカーニバルが毎晩開かれてはいないのだ、という事実に気づくまで、二、三分かかった。なんとまあ愚かな人間がいたものだ。サンバを踊っていたのは、僕の空想の中だけであった。脳内では、いつもサンバカーニバルが開催されている。大変な日常ではあるが、そんなに悪くもない。サンバは、楽しいものだ。
家に帰ると、明かりはついていなかった。まさか、親は神隠しにでもあってしまったのかと思ったが、そうでもなかった。親は、外食をしに出ていったようだ。ひとり息子をほったらかして、呑気なものだ。食卓には、カップラーメンが置かれていた。勘違いしてほしくないのだが、親との関係は良好だ。良好だと思う。そう思いたい。僕はカップラーメンにお湯を注ぎ、三分間、異次元に飛ぶことにした。
異次元には、色々な生命体が存在している。僕のお気に入りは、喋る白ウサギ。赤い目をしていて、なにかといつも鼻を動かしているのだが、僕と目が合うと、いつも話しかけてくれる。
「おう、また来たのか坊主、今週何度目だ? 今週のジャンプはもう買って読んでいるんだろうな、さっさと内容を全部教えてくれ」
毎回伝えているのだが、僕はジャンプを購読していない。昔は家の近くのコンビニで立ち読みができたりしたのだが、今はビニールでしっかりと包装されていて、読めないのだ。
「なあウサギさん、異次元でのとうもろこしの収穫時期はいつだった?」
僕は尋ねた。
「馬鹿野郎、この世界にとうもろこしもへったくれもねえよ、てか、俺の世界じゃここは異次元じゃねえ。本次元だ。余所もんのお前からしたら異次元かもしれねえがな、俺から見たらここが本物の世界なんだよ。失礼なことを言いくさんな」
真っ当なことを言うウサギだな、と思った。確かにそうだ。ここは彼にとって、いや彼らにとっては本物の世界なのだ。慌てて訂正する。
「すまなかった。ウサギさん、この世界でのとうもろこしの生産量はどんなもんだったかな」
ウサギは、黙っていた。黙って、どこかを見つめている。あたたかい風が、そよいでいる。この世界には、僕とこのちっちゃくて白いウサギの、二人だけしかいないのではないか。そんな気がしていた。
白ウサギに別れを告げた僕は、この世界での街に向かうことにした。街はいつも賑わっている。サンバカーニバルが開催されていることを期待したが、ここでも開催されていないようだ。空を見上げると、シロナガスクジラがふよふよと浮かんでいた。どうもこの世界では、生き物が宙に浮かべるようなのだ。
僕も以前浮かべるかどうか試してみたのだが、無理であった。その代わり、宙を走れる自転車があり、それに乗って空中散歩をすることができる。誰かにぶつかっても怪我をさせることはない。なぜなら、ふよふよと進んでいくからだ。一度、空中で自転車を手放し地面に落ちたらどうなるだろうと思ったことがあるが、まだ流石に試していない。自転車屋さんも、何も言っていなかった。
どうもこの世界では、金銭の流通が行われていないらしい。どの商品も極めて流動的だ。すべての種類の生命体が、ものをシェアし、食べ物も分け与えているようなのだ。りんご屋のクマがおらよっとりんごを投げ渡してくる。僕は右手でりんごをキャッチし、齧った。うまい。
とうもろこしはないのだろうか。ウサギはないと言っていたが、街でもまだとうもろこしは見たことがない。なぜ自分がとうもろこしにこだわるのか、理由はよくわかっていない。ウサギをからかうつもりで言ったのかもしれない。
先に進むと、シロクマがなにやらうまそうなスープを作っていた。色は、黄色い。コーンスープか? と思った。しかし、ウサギはとうもろこしなどないと言っていたので、きっと違うのだろう。シロクマにスープを貰い、飲んでみる。味は、なんとも言えなかった。
少なくとも、とうもろこしではないなと思った。改めて、ウサギはいいやつなんだな、と思った。ただ、そのスープを飲み干すと、ぐわんと周囲の景色が変わる感覚があった。地面が崩れるような思いがした。景色が目まぐるしく変わり、気がつくと紫色の世界に来ていた。そこは、異次元の中の別の世界線だった。
紫色の世界では、先ほどののどかな世界とは異なり、工業化が進んでいるようだった。機関車が煙をあげる。漆黒の煙をあげる機関車は、ずんずんと進んでいく。運転手はいないようだった。
あの機関車は、どこに向かっていくのだろうか。とても気になったので、タイミングを見計らい、列車に飛び乗った。窓は外側から見ると黒く見えたので、気がつかなかったが、中には多くの人たちが乗っていた。みんな僕のことには見向きもせず、ぺちゃくちゃと喋っている。僕に気づいていないのだろうか。車内を進んでいくと、ひとりの青年と目があった。
「なあ、君、この列車に乗るの、初めてだろう。そんな装いをしているよ」
どんな装いだ、と思った。彼は、ブルーの眼をしていた。僕の世界の人で例えると、欧米人だろうか。ただ、肌はもっと白く、そばかすのような赤い斑点が頬に目立っていた。
きっと仲よくなれそうだ、そう思い、そいつの目の前の席に座った。
「この列車は、海に向かっているんだ。みんな、海に行くのさ。海はどろどろしているんだが、悪くない。みんな変わったものが好きだなあと思うが、俺もなんだ、そういうのが嫌いじゃないんだ」
そう言うと彼は懐からたばこを取り出し、火をつけた。えらく大人びた青年だなと思った。窓を開けようかと手をかけたが、窓は開かないようだ。煙が車内に立ち込めるが、誰も気にする様子がない。
僕は彼に尋ねてみた。
「あのさ、たばこの煙ってあれなんじゃないの? 体に悪いんじゃない? ほら、受動喫煙だなんだって言うじゃないか」
「受動喫煙? なんだいそりゃ」
彼は素っ頓狂な顔をしていた。受動喫煙という概念がそもそもないのか、この世界線ではまだ知られていないのかはわからなかった。本当は彼も知っていて、すっとぼけているだけなのかもしれない。
「窓の外を眺めているとね、こう、木々が流れていくじゃないか。なんだか、そういうのっていいよね。君も、一本どうだい?」
そう言って、彼はたばこを手渡してきた。僕は、それを頂くことにした。たばこは吸ったことがなかったのだが、面白い味がした。彼はまだ何か喋っていたが、僕はなぜか眠くなり、たばこを一本吸い終わると、そのまま寝てしまった。
眠りに落ちる寸前に彼を見ると、やはり彼は、窓の外を眺めていた。
車内で目が覚めると、周りの乗客はもういなくなっていた。ブルーの眼をした彼も、すでに降りてしまったようだ。ふと窓際に目をやると、置き手紙と共にクッキーが置いてあった。手紙には、こう書かれていた。
——親愛なる友人へ、君と少しの間話せてよかった。お礼にクッキーをあげるよ。食べてみるといい。また、どこかで会えるといいね。
クッキーには、青や赤の模様が施されていた。独特な見た目をしていて、この世界で作られたものだな、ということが一目でわかった。彼が、作ったんだろうか。
僕は、そのクッキーを食べてみることにした。うーん、もさもさしている。お世辞にもおいしいとは言えなかったが、彼の心遣いが嬉しかった。
ふと顔をあげると、車両の前半分がぼろぼろと崩れ去っていき、真っ白な光に包まれた空間が広がっていくのが見えた。また、別の世界に繋がったのだろうか。ただ真っ白で、何があるのかはまったくわからなかったが、進んでみようと思った。窓の外に目をやると、沢山の人が海に向かっていっている。この世界の海がどんなものなのかは気になったが、僕は、この真っ白な空間の方に進んでみたいと思った。人は、得体の知れるものよりも、得体の知れないものの方に興味があるんじゃないか。僕だけだろうか、そう思った。腰を上げ、新しい世界へと進んでいく。
真っ白な空間は、とても広かった。真っ直ぐ歩いていくのだが、なかなか景色が変わらない。ただ不思議と、不安はなかった。どこかで景色が変わってくれるだろうという、願望に近いものを感じていた。どれくらいの時間を歩いただろう、ようやく、ぼんやりと、景色が見えてきた。森だ、森が見える。真っ白な空間を抜けると、僕は、ロープウェイに乗っていた。振り返ってみると、もう真っ白な空間はなく、また談笑する人々で溢れていた。
ここは、どの世界なのだろう。もしかすると、僕が住んでいる世界に戻ってきたのだろうか。そんなわけはないな。ただ、談笑している人たちは、僕の住んでいる世界の人たちの見た目とよく似ていた。どうも空いている席はないようであったので、仕方なくそのまま立っておくことにした。
山頂に近づくと、突然激しい音がなり、ゴンドラが止まり車内の電気が消えた。
「なんだ? 停電か?」
車内が騒めく。次の瞬間、大きな音が鳴り、体が宙に浮くのを感じた。悲鳴が車内に響く。ゴンドラが、一直線に落ちていく。
ぼふっ、という音と共に、体が地面にめり込むのを感じた。どうも砂が口の中に入ったようで、砂を吐き出し顔をあげると、また紫色の世界が広がっていた。
「なんだ、また会ったね」
振り向くと、ブルーの眼をした彼がいた。
紫色の世界の海は、真っ黒だった。まるでゼリーのように、ゆらゆらと揺れている。
「そんなところで倒れているから、びっくりしたよ」
ブルーの眼の青年が話しかけてきた。
「列車が到着しても全然起きないもんだから、どうしたもんかと思ったよ。しかしまあ、君もなんだ、変わったやつだな」
そう言って彼は手を差し出した。僕はその手を取り、ようやく立ち上がった。彼は、列車で見たときと変わらず、洋服を着たままだった。どうやら泳ぎに来たわけではないらしい。
「水着に着替えないの? てっきり君は泳ぎに来たものかと思ったよ」
僕がそう尋ねると、彼はこう答えた。
「いや、俺は泳ぎに来るわけじゃないんだ。海はほら、どろどろしているだろう。いつもこうやって浜辺に座って、海がゆらゆらしているのを眺めているんだ」
「そういえば、君の名前はなんなんだい? 聞くのを忘れちゃってたよ」
「俺かい? 俺は、俺の名前を知らないんだけど、みんなは俺のことをロングコートって呼んでるよ。いつもそんな感じの服を着ているからかな。俺の周りでは、名前を持っているやつのほうが珍しいんだ。そのほうがなんか、自由でいいだろ」
よく喋る人だな、と思った。
「あいつらはなに? あの黒くてぴょこぴょこしているやつら。あいつらは、海に出たり入ったりしているね」
「あいつらかい? あいつらは、リトル、って呼ばれているよ。喋ったりはしないんだけどね。いつも楽しそうにはしゃいでいるんだ。子供みたいだよね」
よく見ると、リトルはそこら中にいるようだった。みんな小さくて、楽しそうに飛び跳ねながら走り回っている。
「魚釣りをしている人たちはいないようだね。船なんかも見られない」
「魚? なんだいそりゃ」
この世界では魚がいないのか、と驚き、また尋ね返した。
「魚っていうのは、ほら、海で泳いでいる生き物のことだよ。いないの?」
「こんなどろどろした海に? 生き物なんかすめないと思うけどね。すみたくてもこちらから願い下げだな。君、面白いことを言うよね。そういえば、見たこともない見た目をしていると思っていたんだ。君は、いったいどこから来たんだい?」
一瞬黙り、どう答えるかを考えた。そもそもここは、なんの世界なんだろう。僕はいつも、ウサギたちのいる世界が異次元だと思って、過ごしていた。新しく来たこの世界もまた、異次元なのだろうか。
「多分だけど、僕は別の世界から来たんだ」
そう言うと、ロングコートは大笑いしていた。
「別の世界か! 君って本当に面白いね! その、君の世界では、海に魚っていう生き物がいるのかい?」
「うん、海もどろどろしていない。きっと、魚にとってもすみやすい環境なんだよ」
「そりゃあいいな。もしかしたら、俺らの”世界”でも昔は魚がいたのかもしれないな。でも、あまりにも海がどろどろしているんで、嫌になって出てきてしまったってわけだ」
ロングコートは笑いながら言っていたが、それっぽいことを言うな、と思った。彼は続けてこう言った。
「こんな海を楽しんでいるのは、リトルぐらいだな。俺は入りたくても、洋服が汚れちまうんで、嫌だな。そういえば君、船が見えないとか言っていたけど、昔はこの海にも船があったんだぜ。なんでも、海の向こうには別の陸地があるんじゃないかって探検家が意気揚々としていたんだけどもね、あまりにも他の陸地が見つからないもんだから、結局みんなここに引き返してしまったってわけさ。面白いよね。それっきり、船をこぐやつは少なくなってしまったよ。あまりにも海がどろどろしているんで、船もすぐにぽんこつになってしまうしね」
別の陸地すらないのか。つくづく変な世界だな、と思ったが、こうやって語る彼は凄く楽しそうで、生き生きとしていた。
「ロングコートって、よく喋るよね。みんないつも、こんなによく喋るの?」
「まあ、俺らは、よく喋ると思うね。いつだって身のないことを喋っているよ。ただ、君はまた別だな。君はこの世界のことを知らないようだし、何より俺の話をよく聞いてくれる。話を聞いてくれる人ってほら、あまりいないじゃないか。なんだか嬉しくってね。あと君はあれだな、あまり喋らないんだね」
本当にべらべら喋るんだな、となんだか少しむっとしてしまったが、あまりにも楽しそうに喋るので、黙っておいた。本当にこの世界は一体、なんなのだろう。みんな、派手な格好をしているし、ほとんどの人たちが、浜辺でぺちゃくちゃと喋っている。
「そうだ、君、このあと、俺の家に来ないか。せっかく友達になれたんだ。お茶でもごちそうするよ。どうかな」
「いいのかい? じゃあ、喜んで」
ロングコートは悪いやつじゃなさそうだと思った。僕たちは、浜辺をあとにし、駅のホームへと向かった。そういえば、こんな紫色の世界にも、時間という概念はあるのだろうか。夕焼けは、何色をしているのだろう。太陽も何もなさそうな空を見上げて、そんなことを思った。
駅のホームにつくと、僕はやはり、時間という概念があるのかどうかが気になり、時刻表を探したが、やはりなかった。そんな素振りを見せる僕のことがやはり気になったのか、ロングコートが話しかけてきた。
「何を、やっているんだい?」
「いや、時刻表はないのかなと思って。そういえば、時計なんかも見当たらないし」
「時間を確認するものかい? ないよ、そんなもの。機関車が、来たときに乗るんだ。そういうものだろ?」
「そういうものか」
よくわからなかったが、納得した。時計ぐらいはあってもいいのではないかと思ったが、どうもこの世界では必要とされていないみたいだ。
機関車に乗って、ロングコートが住む街へと向かう。いったい、どんな街に住んでいるのだろう。きっとへんてこりんな街なのだろうな。ふと、ロングコートの様子を見てみると、やはり外を眺めていたので、僕も外の景色を眺めてみることにした。
外には黒い木々が並んでおり、それ以外は特に何も見られない。車は、走っていないようだ。道路がないのか、車がないのかはわからなかった。ロングコートに聞いてみようかと思ったが、やめておいた。どうも僕は、彼は喋りたいときに喋って、喋りたくないときには喋らないような、そういった体の人に見えたのだ。
もっとも、それは思い込みなのだろうが、外の黒い木々が流れていくのを見つめる彼のことを、今はそっとしておいた。
途中で止まる駅のようなものはなく、機関車はロングコートが住む街の駅に止まった。乗務員が切符を切ったりするのだろうかと思ったが、そのような人は誰もおらず、ロングコートも飄々と列車を降りていったので、それに続くことにした。
街では、やはりお店のようなものが並んでいたが、街自体はどんよりと沈んでいるように見えた。もっとも、ロングコートや街の人々はぺちゃくちゃと楽しそうに喋ってはいるのだが、なぜだろう。もし、これがゲームならBGMのようなものが流れているのだろうが、そういったものがなく、静かな空間の中で、人々が喋っている。
「ロングコート、あいつらは何? 店に立っているあの、人影みたいなやつら」
「ああ、あいつらかい? あれは、シャドウだよ。店に立っちゃいるんだけどね、全然喋らないし。俺たちが品物を選んで持っていくときもじっと見てくるもんだから、あまり好きじゃないんだよね」
この世界でも、金銭のやり取りは行われていないんだな、と思った。それではシャドウは何をモチベーションにそこに立っているのだろうか。コミュニケーションを取ったりするわけでもなく、ただ、お客が商品を持っていくのをじっと見ている。それでもどうやら、それがこの世界の秩序を保っているらしい。
ロングコートは、店にあるバナナを掴み、バレーボールのようにぽんぽんと上に投げては取り、投げては取りを繰り返していた。子供みたいだな、と思った。
「なあ、知っているかい? バナナって放っておくと黒くなっちゃうんだぜ?」
ロングコートが当たり前のことを言ってくる。
「知っているよ。そんなこと」
「不思議だよな、こんなに綺麗な色をしていて、実もこんなに張りがあるのに、放っておくと黒くてしわしわになっちゃうんだ。味も、なんだか渋くなる」
そう言ってロングコートはあからさまに渋そうな顔を見せてきたので、思わず笑ってしまった。
それを見たロングコートは、バナナをこちらに投げ渡してくるなり、ポケットをまさぐっていた。どうやら鍵を探しているらしい。鍵を取り出したロングコートは、丘の上の塔を指差して、
「あれが俺の家だよ」
と言った。周りには家らしきものがなく、背は高かったが少し寂しげだった。
塔に着き、中に入るのかと思ったが、入り口らしいドアはなかった。
「これに乗るんだ」
ロングコートはそう言って、僕たちは外付けのリフトに乗った。リフトに囲いはなく、一歩踏み外すと落っこちてしまいそうだったが、ロングコートは平然と街を眺めていた。
「こうやって、家に帰る前に、景色を眺められるんだ。いいだろう」
ロングコートは、街を見ながらそう言った。
「ロングコートは、どこかを眺めるのが好きなんだね」
「そうかもしれないな」
リフトが上までたどりつくと、入り口のドアがあった。
家に入ってみると、そこには窓がいくつかある、落ちついた空間が広がっていた。入って直ぐ右にはキッチンがあり、部屋の中央には暖炉があった。下へ降りられる階段も見えたので、この部屋の下にも階があるんだろうなあと予想ができた。一体何があるのだろう。
ロングコートはキッチンに向かうなり、お茶を淹れ始めた。なぜか、お湯はもうすでに沸いていた。
お茶と共に、列車に置いてあったクッキーがテーブルに運ばれてきた。それを見た僕は、列車の中で起きた出来事を話してみようと思った。
「ロングコート、このクッキー、列車で置いていってくれたものだよね。あのときはありがとう。これは、君が作ったものなの?」
「ああ、そうだよ。俺のお婆ちゃんの秘伝のレシピさ」
そう言うとロングコートはお茶を手に取り一口啜った。
「君も飲みなよ」
と勧めてきたので僕も応じてティーカップを受け取った。
「列車の中でこのクッキーを食べたあとにね、列車の先端が崩れ落ちて真っ白な空間が広がっていったんだ。そのとき思ったんだけど、このクッキーは、新しい世界に繋げるトリガーかなにかなんじゃないかな?」
僕がそう言うと、ロングコートは目を丸くしていたが、そこまで驚いてはいないようだった。僕が、別の世界から来たのだという話をしていたからだろう。
「俺は、ずっとこのクッキーを食べているけど、今の一度だってそんなことは起きなかったけどね」
そう言って彼はクッキーを口に放り込む。僕は周りを見渡したが、なにも起きなかった。僕もクッキーを頬張った。あのときと変わらない、なんとも言えない味だった。
「なにも、起きないね」
「ああ、そいつはただのクッキーだよ。そんなに、おいしくもないだろ? だけど、俺はこの味を変えたくないんだ。お婆ちゃんの秘伝のレシピだからね」
そう言って彼は、クッキーをもさもさと食べていた。彼は、食べるときはそんなに喋らないのだな、と思った。
ふと窓の外を見てみると、黒い大群が遠くの空に広がっていた。
「ロングコート、あの黒くて大勢いるやつらは何? 遠くの空に飛んでいる、あのあれ」
「あいつらは、鳥の群れだよ。鳥は凄く凶暴なんだ。だから、みんな鳥の群がらないところに住んでいるんだ。でないと食べ物とか全部奪われちゃうからね」
「襲ってきたり、しないの?」
「まあ、めったに襲ってくることはないね。あいつらはなぜかいつも、遠くの方で群れてるよ。だから俺たちはこの辺にすんでるってわけ」
「ふーん」
彼はクッキーを飲み込み、ティーカップを置くと、こう言った。
「そうだ、今日はここに泊まっていかないかい? この辺で泊まるところなんて、知らないだろ? まず風呂に入るといい。案内するよ」
「いいのかい? じゃあそうさせてもらうよ。ありがとう」
風呂は、下の階にあるようだったので、僕は彼についていくことにした。
風呂場に着くと、大きなバスタブにお湯がなみなみと入っていた。やはりお湯はすでに沸いていた。なによりも目を引かれたのは、バスタブの周りに置かれていた本棚だ。風呂場で本を読んでいるのだろうか。
「ここが俺ん家の風呂場だよ。広いだけが取り柄だけどもね、ああ、そこにある本も読んでみるといいよ。濡れたりしないから、大丈夫さ」
そう言われたので本を手に取ってみたが、なんの文字が書いてあるのかさっぱり分からなかったのでそっと本棚に戻した。
「着替えは外に用意しておくね、バスタオルもその辺のを使うといい。ではごゆっくりどうぞ」
そう言ってロングコートはドアをぴしゃりと閉めて出て行った。
風呂のお湯はやはり紫色だった。もしかしたら自分は魔法の世界に来ているのではないか、という思いに駆られてとても嬉しくなる。
風呂は、正直普通だった。特にやることもなかったので、本棚をぼんやり眺めたり、窓の外を眺めたりしていた。紫色の空が、果てしなく広がっている。自分はなぜ、この世界にいるのだろうか。この空の先には、一体何があるのだろう。きっとこういった思いが、世界の科学者たちを駆り立ててきたのだろう。知的好奇心とは、面白いものだ。
風呂をあがると、パジャマが置かれていた。ロングコートのものだろうか、少しサイズが大きめだった。ぶかぶかのパジャマを着た僕をみて、ロングコートは大笑いしていた。そんなに笑うこともないだろうに。
外は、若干暗めの紫色に変わっていた。夜ということだろうか。僕とロングコートは、長い時間談笑していた。彼の話はどれも面白く、飽きることがなかったのでよかった。僕も、できる限り自分の世界のことを話した。話している間に、眠くなってしまった。
「もう寝るとするかい? 寝室に案内するよ。元々お爺ちゃんの部屋なんだけどね、お爺ちゃんが死んじゃってから、客人用になったんだ。最近はそんなに掃除してなかったけど、割と綺麗な部屋だよ。さあ行こう。おやすみ」
寝室は、全然綺麗だった。少し埃っぽくはあったが、気にならない程度だった。いきなり来た客人にここまでしてくれて、本当にありがたかった。ベッドは、ふかふかだった。そして暖かかった。眠りにつくまで、僕は天井を見ていろいろと考え事をする。これは子供のころからの僕の癖だった。僕はこの世界にいつまでいるのだろう。ロングコートは本当にいい人だな。そんなことを考えているうちに、眠りに落ちてしまった。
深夜、寝室のドアを激しく叩く音がした。
「大変だ! 早く起きてくれ!」
ロングコートが叫んでいたので、僕は目を覚ました。
ベッドから起き上がって窓の外を見てみると、雨が降っているようだった。それもかなり激しく。嵐が来たようだ。
「どうも嵐が来たようなんだ。こんなことはしばらくなかったんだけどもね、嵐が来ると、鳥たちが混乱して街へ向かってくるんだ。とにかく、早く避難しないといけない」
ロングコートは慌てた様子で、コートを羽織りながらそう言っていた。
「さあ、君も着替えて、外に避難しよう。俺の、このコートを着るといい」
そう言って彼はコートを手渡してきた。コートはずっしりと重たかった。彼はこんなに重たいものをいつも着ているのか、寝ぼけながらそんなことを思った。
上の階に戻ると、かなり激しい雨音が聞こえた。かなり大きな嵐のようだ。雷も、鳴っている。薄っすらとだが、鳥の大群がこちらに向かってくるのも見えた。ロングコートが慌てふためく理由がわかった。かなりの量の鳥の群れが、こちらに押し寄せてきている。そのあまりの多さに、僕もぞっとしてしまった。早く、ここから逃げないといけない。
「さあ、こっちへ来るんだ。この窓から飛び降りる。なあに、心配ないさ。俺はいつもそうしているんだ。怪我はしたことがない。今日はちょっと激しい雨だから、どうなるかはわからないけどね」
ロングコートは窓際に足を掛け、にやりとしながらそう言った。かなり高い塔なのに、大丈夫なのだろうか。
「じゃあ俺からまず行くよ。それに続くといい」
そう言うと彼は窓から飛び降りた。彼のコートはたなびいていて、心なしかふわふわと降りていくように見えた。彼は、地面に着地した。なんともなかったようだ。
「おーい! 君も早く降りてくるんだ!」
彼は両手を振りながら叫んできた。きっと大丈夫だろう、彼を信頼し、窓から飛び降りようとした瞬間、黒い大きな円のようなものが下に現れた。それが見えた瞬間にはもう、僕は飛び降りてしまっていた。黒い円の中に、体が吸い込まれていく。
長い時間、真っ黒な空間の中を落ちていった。ロングコートは、もちろんもう見えなくなっていた。途中、体の向きが変わってしまい、頭から僕は落ちていった。このまま地面に激突してしまうのだろうか。上を見ると、もう紫色の世界は閉じていた。真っ直ぐ落ちていくのだが、ぐるぐる回転しているような感覚を、感じた。
気がつくと、僕は真っ黒な空間に倒れ込んでいた。どうやら、地面まで落ちてきたらしい。周りを見渡すと何もなかったが、遠くの方に、電灯のような、白い灯りが見えた。僕は、その方向に向かって歩いていってみることにした。
灯りの方へ向かって歩いていくと、足元に線路のようなものが見え、線路に沿って灯りも並んでいたので、辿っていくことにした。
進んでいくと、駅のホームが見えた。駅には、人影が並んでいたが、どの人も石のように固まって動かなかった。あくびをしている人、スマホを見ている人、新聞を読んでいる人、いろいろいたが、どの人も完全に固まっていた。
そんな人たちを見ていると、電車がやってきて停車したので、乗ってみることにした。車内の人たちも、やはり止まっていた。窓の外を眺めてみたが、真っ暗な景色が変わることはなかった。何も見えない景色。変わることはあるのだろうか。そう考えていると、突然視界が真っ白になった。
気づくと僕は白い空間の中をふわふわと浮かんでいた。上に上がっていくようだ。ぼんやりとその空間の中に身を任せていると、上の方に何かが見えた。白ウサギだ。白ウサギが、ぴょこぴょこと駆け回っている。なんだか、久し振りに会うような気がした。 懐かしい思いを感じ、目を閉じる。
目を開けると、綺麗な青空が広がっていた。僕は、草むらに寝転がっていた。
「何やってんだ! そんな寝っ転がって! ほら、あの、宿題とかやらなくていいのか? え?」
白ウサギがやかましく騒いでいる。
「そういえばそうだね。宿題とか、全然やっていなかった」
「もう帰んなよ! 親御さんも心配しているだろ!?」
「そうかもしんないね、まあ、うちの親たちは外に食べに出ていたけどね」
「お前、呑気だよな! おい!」
白ウサギはなんだか怒っていたので、僕はもう帰ろうと思った。
この世界から僕の世界に帰るには、森の奥にある階段を登って、その上にある扉を開くとよかった。そうすると、異次元から帰れるようになっていた。僕は、扉を開いた。
気がつくと、カップラーメンはすでに出来上がっているようだったので、夜ご飯を食べることにした。麺は、少し伸びていた。