小説『エッグタルト』
「なあ、聞いた? うちのクラスの川野、数学オリンピックの日本代表に選ばれたんだって」
昼休みにいつも弁当を持ってやってくる、隣のクラスの山田が、ウインナーを頬張りながらそう言ってきた。
「そうなんだ。今年転校してきた、あの子か」
「そうそう、なんか、目立たないやつだなあと思っていたけど、変に頭がいいなと思っていたんだよ。冴えない感じだけどね。笑っているところとか、見たことないし」
川野さんは、高一の終わりに有名私立校を辞め、うちの公立校に転校してきたらしい。詳しいことは知らないが、顔は知っていたし、たまに廊下でもすれ違っていた。眼鏡をかけていて、いつも俯きながら歩いている、確かにあまり目立たない感じの女の子だった。
「なんか、凄いよね。頭がいいって。なんだか俺、憧れちゃうよ」
「山田だって、サッカー部で唯一の二年生レギュラーなんだろ。凄いじゃないか」
「そういうのじゃなくってさ、なんかこう、自分にないものを持っているって、いいじゃない」
「まあね」
数学オリンピックなんて、今まで聞いたこともなかった。オリンピックなんて言うくらいだから、世界中の猛者たちが集まってくるのだろう。我々には縁のない世界だ。
「太田は何をやっているんだっけ? 吹奏楽部で」
「俺は、シンバルとか」
「シンバルって曲の終わりとかにしか出番がないんじゃない? なんだか、退屈そうだね」
山田は笑いながらそう言った。
「それが、重要なんだよ」
山田とは、中学のときからの仲だった。この高校を選んだのも、お互いの家から近いから、という他愛のない理由だった。彼は文系人間な俺とは違って、運動がよくできるので、少し眩しくもあったが、そんな俺にいつも話しかけてくれるいいやつだった。
「まあ、あれだろ? パーカッションってパートなんだろ? 小太鼓とかも叩いてるって水野から聞いたよ」
「叩く系のなんでも屋だよ。あまり目立たないけどね。だからこそ、シンバルは重要なんだ。叩く回数が少ない分目立っちゃうからね」
「そっかそっか。あっ」
山田が廊下の方を見たので俺も見ると、川野さんが歩いていた。ちらりとこちらを見てから、また前を見てすたすたと歩いていった。
「今、こっちを見たよね。なんだか、知的な顔をしているよなあ」
「お前、さっきは冴えない感じとか言ってたじゃねえか」
「え? そうだったっけ? まあでもやっぱり改めて見ると、凄そうな感じがするよ」
「そうだね」
昼休みが終わるチャイムが鳴ったので、山田は弁当箱を片付け、席を立った。
「それじゃあね。また明日」
「おう」
山田は手を振りながら自分のクラスに戻っていった。顔立ちも整っているし、女子からも人気があるって聞くのに、なんでいつも昼飯を食べに俺の所に来るのだろう。人気者の心理はよくわからない。
昼休み終わりの授業は、現代文だった。授業が始まり、教科書を開いてはみたものの、どうも昔の人の書く文章は難しい言葉が多いな、と思い、あまり読んでみる気にならなかったので、窓からグラウンドで体育の授業をしている一年生たちを見ていた。
「おい太田、何授業中に窓の外を見ているんだ。ちょうどいいからお前、立って八行目から読んでみろ」
「はい」
くすくすという笑い声が聞こえたが、俺は視線を教科書に戻し、立って音読を始めた。どうも俺は先生に目をつけられやすい。
授業が終わると、クラスメイトたちが、先生に指摘されていたことをからかってきた。
「太田って真面目なのに、なんかいつも先生とかに怒られてるよな」
「うるせえよ」
確かに俺は昔から、何かと先生に怒られていた。なぜなのだろう。ちゃんと真面目に生きているはずなのだが。次の授業は、移動教室だった。移動する際、川野さんとすれ違った。そういえば、川野さんはなんの部活をやっているのだろうと思い、声をかけてみようかと思ったが、相変わらず俯きながら通り過ぎていってしまったので、その後ろ姿をぼんやりと見ていた。
授業を終え、部活が終わったころには、もう十九時を過ぎていたが、グラウンドを見ると、サッカー部はまだ練習中のようだった。サッカー部は都大会でもよくベスト16まで残るような、そこそこの強さがあるのだが、体育会系の部活は練習時間が長くて大変そうだな、と毎度思う。
山田は、二年生ながらFW(フォワード)のレギュラーらしい。一年生のころは、先輩たちから生意気だ、などと言われしごかれていたらしいが、熱心に練習をするので、今は周りから認められているらしかった。あ、またシュートを決めた。髪を靡かせながら。なぜ髪型まで格好がつくのだろうと、特に特徴もない自分の髪をつまみながらそう思った。山田は練習に集中していて、こちらに気づいていないようだったので帰ることにした。
帰る途中、コンビニに寄ってアイスを買った。当たり付きのやつだ。まだ当たったことはないけど、なぜかいつも買ってしまう。今日はどうだったかな。外れた。
誰か、アイスの当たりを引く確率論などを導いて俺に教えて欲しい。川野さんやってくれないかな。当たりを引いたところで、面倒臭くなって捨ててしまうかもしれないが。こういうものは、当たったという事実そのものが嬉しいものなのではないだろうか。当たったことはないので知らないんだけど。
寝る前に、今日山田から聞いた川野さんの数学オリンピックの話を思い出した。俺は、理系科目がてんで駄目なので、一体どんな世界なのだろうと皆目見当もつかないが、話す機会があればどんな感じなのか聞いてみようと思った。そもそもなんでうちの高校に来たのだろう。そういうことまで聞くのは野暮だろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、寝てしまった。
次の日、昨晩の猛練習で疲れ果てていた山田は、昼休み中に自分の席で突っ伏して寝ているようだったので、俺は早々に弁当を食べ、図書室へと向かった。特に読みたい本があるでもわけでもないのだが、昼休みの残り時間に教室で一人で過ごすのも嫌なので、そういったときはいつも図書室で本を読んでいるふりをして過ごしていた。
図書室で、さまざまな種類のスポーツについて説明している本があったので、読んでいたら時間潰しになるかな、と思い手に取った。ふと窓際に目を向けると、川野さんが一人座って何か本を読んでいたので、声をかけてみることにした。
「川野さん」
声をかけると、川野さんは急に声をかけられたことに驚いたのか、目を丸くしてこちらの方を見返してきた。
「あ、ごめん。突然話しかけちゃって。俺、太田って言います。隣のクラスの。君のクラスにいる友達の山田ってやつから、川野さんが数学オリンピックに出るって聞いたから、声をかけてみたいって思っていたんだ」
川野さんはまだ少し驚いた表情をしていたが、にやりと笑みを浮かべながら、こう返してきた。
「あなた、初めて話す相手によくそんなに正直に喋れるわね」
「あはは、そうかな。でも俺はいつもこうなんだ。ところで君はなんの本を読んでいるの?」
見てみると、料理の写真がたくさん載っているようだった。
「これは、その、レシピ本よ」
「そうなんだ、料理するの、好きなの?」
「好きではないのだけど、こういうの誰かが作ってくれたらいいなと思って」
「そうなんだ、数学が得意なんだったら、料理も得意なのかと思っていたよ。ほら、料理って手順どおりにやったら大抵うまくできるじゃない」
そう俺が言うと、川野さんは少し笑ったあとにこう言ってきた。
「数学はね、絵を描くようなものなのよ。常にルールに則ってやるものでは、ないの。偉大な数学者たちが、疑問に思ったことを法則にしてきたから教科書に載るようなものができてきたってだけなのよ」
「それじゃあ君は手順どおりに料理をしないの?」
「しないわね。だからいつも失敗しているわ。たまに偶然うまくいって、おいしいものができるのだけどね」
そう言って彼女はにっと笑ってきた。おい山田、なんか川野さん凄くいい笑顔するぞ、とあとで伝えてやろうと思った。
「じゃあなんでレシピ本なんか見てるのさ」
「料理がおいしそうだからよ。それにほら、このアップルパイなんて四角くて綺麗な形しているじゃない?」
「やっぱり君、なんだか変わってるね」
笑いながらそう言うと、川野さんはそう言われたことに驚いたのか、冷静な表情になり、本に目を戻してページをめくった。
「俺も、いろんなスポーツが載っている本を手に取っちゃったよ。ほら見て。このポートボールってスポーツ、知ってる?」
「聞いたことないわ。面白いの?」
「小学生のころやったことがあるけど、どんなスポーツだったのかも忘れちゃったな」
「何よそれ。なんでそんな本読んでるの?」
川野さんはまた少し笑みを浮かべながら聞いてきた。
「わかんない。昼休みって時間がないし、大して本も読めないだろ? だからいつも、なんか目を通しやすそうな本を手に取っては時間を潰しているんだ」
「なるほどね」
そう言うと川野さんはまた本に目を戻したので、俺も黙って本を閉じ、窓の外を見たりしていた。
昼休みが終わるチャイムが鳴ったので、教室に戻ることにした。
「じゃあね。昼休みはいつも図書室にいるの?」
「大体ここにいるわよ」
「そうなんだ、じゃあまた」
そう俺が言うと川野さんも本を閉じ、立ち上がって本を戻しに行った。
一緒に歩くようなタイプではないだろうと勝手に思ったので、俺も本を本棚に戻しに行ったあと図書室を出た。
翌日の昼休みに、山田は疲れ切っていた昨日とは打って変わって爽やかな表情をしながら弁当を持ってやってきた。
「お前、努力家なのはいいけど、あんまり練習やりすぎんなよ。もうちょっとほら、メリハリをつけろよ」
「そうかな? 俺はこんくらいが丁度いいんだけど」
そう言うと山田は、
「この席借りるね」
と、いつもどおりに隣の席の椅子を引っこ抜いて弁当を俺の机の上に置いた。
「一昨日かな、サッカー部の練習、見てたよ。お前、凄いよな。あれだけシュート決められて。何かコツとかあるの?」
「シュートの? コツかはわからないけど、ボールを足の甲の上にできるだけ長い時間乗せてから、斜めに足を引き抜いて回転をかけて、ゴールの右端を狙うんだ。そうしたら入りやすいよ」
山田は気軽にそう言ったが、何か凄いことを言っているような気がした。
「お前、やっぱりなんか凄いやつなんじゃないか?」
「そんなことないよ。何回もシュートを打っているうちにそれが一番いいような気がしたんだ。感覚の問題だよ」
山田の話を聞いて、昨日川野さんから聞いたことを思い出した。
「そういえば昨日、図書室で川野さんと話したよ。彼女、レシピどおりに料理をしないんだって。不思議だよね」
「お前、川野さんと話したんだ。俺も話しかけてみようかと思っていたけど、全然目を合わせてくれないからやめていたんだ。話してくれるんだね」
「なんか凄くいい笑顔をしていたよ」
「笑うんだね」
山田は凄く失礼なことを言っているような気がしたが、普段の川野さんはやはりそんなに笑ったりはしないんだな、と思った。なぜなのだろう。
「レシピどおりに料理しないのって、おかしいの? 俺、全然料理をしたことがないからわからないや」
「感覚で料理しているんじゃないかな? さっきお前が言ってたようなことと似ているんじゃない? 実は似てるタイプなんじゃないのか?」
「俺があいつと? そんなわけないよ。数学全然わかんないもん」
山田はそう言って笑っていた。俺は以前から、山田は何か凄いやつなんじゃないかとずっと思っていたが、普段の彼はあっけらかんとしているので、よくわからなかった。
高校に入学してから、昼休みのことだったか、一度彼に、
「シュート練習をしたいからボールを転がしてくれ。できればこの線より外側に転がして」
と頼まれたことがあったが、そのときは何かオーラを放っていた記憶がある。集中力が凄いのだろうか。もし線の内側に転がしてしまったら怒られてしまうのではないか、と恐怖に近い感情も感じた。彼が怒ったところはまだ見たことがないのだが。
「俺、もう教室に戻るね。実は数学の課題にまだ手をつけていないんだ。それじゃあ」
「お、おう」
そう俺が返すと山田は教室に戻っていった。普段は飄々としているが、サッカーをやっているときだけスイッチが入るのだろうか。ただマイペースなやつなのかもしれない。
山田の数学の課題の話を聞いて、来週に生物の小テストがあることを思い出した。俺は生物や化学がからっきし駄目だった。なぜ人体の内部なんぞを知らなければならんのだ。そう思いながらも、教科書を鞄から取り出して、昼休みの残り時間、読むことにした。
生物の小テストの前日になり、その日の昼休みに、テストに向けて勉強をしようと教科書を持って図書室へと向かった。
川野さんはいないかなと思い見渡してみると、先週と同じ窓際の席に、やはり何か本を読みながら座っていた。
「川野さん、本当にいつもここにいるの?」
今日の川野さんは何やらオーロラのかかった夜空の写真が載っている本を読んでいた。
「ええ、大体ね。この席が空いてたら。ここ、私のお気に入りの席なの」
「今日は、その、夜景の本? なんで読んでるの?」
「こういう所にいつか行ってみたいなと思って」
「そうなんだ」
俺は、先週山田に聞いたシュートのコツの話を川野さんに話してみた。
「先週、君のクラスにいるサッカー部の山田から聞いたんだけど、彼、シュートを打つときにボールをできるだけ長い時間足の甲の上に乗せてから足を引き抜くようにしているんだって。そうしたら入りやすいって」
「インパルスじゃない? ボールが足に当たっている時間が長ければ長いほど、ボールに伝わる力は大きくなるのよ。あなたの友達、物理が得意なの?」
「いや、彼も俺と同じで理系科目はからっきしのはずだけど。君、どこでそういうことを勉強するの? 授業でそんなことやったっけ?」
「元物理教師の人が教える打撃理論が載っている本に、そういったことが書いてあったわ」
「なんでそんな本読んだんだ」
思わず心の声が漏れてしまった。
「お父さんが野球好きで、部屋に本が置いてあったから読んだのよ。本当は男の子が生まれて、野球をやって欲しかったらしいのだけど、私が生まれて来ちゃったってわけ」
「そうなんだ、兄弟は、いないの?」
「私、一人っ子」
なぜ、下の兄弟はいないのだろうと思ったが、それは聞かないでおくことにした。
「君のお父さん、野球好きなんだね。俺も野球見るの、好きだよ。俺、西武ライオンズが好きだなあ。川野さんも、野球見るの好き?」
「ええ。好きよ」
「そうなんだ、好きな球団とかって、ある?」
「私、トロント・ブルージェイズ」
「大リーグなんだね」
川野さんは相変わらず変わっているなあと思ったが、俺は、ここに生物の勉強をしに来たという当初の目的をすっかり忘れていた。
「俺、あっちの机で勉強してるね。明日、生物の小テストがあるんだ。それじゃあ」
「またね。テスト、頑張って」
川野さんは本に目を戻してページをめくっていたので、俺は勉強をしに行くことにした。あとあと考えてみれば、川野さんに勉強を教わっておけばよかったなと思ったが、そのときは、そういったことは思いつかなかった。
翌週のある日、生物の小テストで散々な点を取ってしまったので、放課後、補習を受けていた。
丁度部活がオフだったのでよかったが、勉強をしてもこんな結果になってしまうというのは、さすがに悲しい。
「おい太田、なんでお前、小テストに全然答えていなかったんだ。四問しか解答していなかったじゃないか。お前英語の成績はいいんだろう? 加藤先生から聞いたぞ」
「すみません、興味のないことがどうしても覚えられないんです」
「お前そんな、はっきり言うなよ。もうちょっと頑張ってみてくれ。な? きっとできると思うからさ」
「はい」
生物の中村先生は、俺みたいに成績の悪い生徒にも気さくに話しかけてくれるので好きだった。いい成績を取れないことが内心申し訳なかった。
苦手な科目の単語などを覚えようとすると、教科書がぼやけて読みづらくなってしまう。いつこうなったのかはわからないが、俺はどうしてもこうだった。
ふとグラウンドの方を見ると、山田の姿が見えた。どうも後輩たちを集めて指導しているようだった。山田は、中学のときもサッカー部の主将を務めていて、自分でも指導をするのが好きだと言っていた。次期キャプテン候補でもあるらしい。
山田は指導する際も、独特な表現を使うので、後輩たちから「山田理論」などと揶揄されていたが、中学のときも、指導を受けたほとんどの後輩たちから慕われていた。
「おい! 太田! なんでお前はグラウンドを眺めているんだ。頼むから勉強に集中してくれ。小学生かお前は」
「すみません、頑張ります」
俺は慌てて教科書に目を戻した。そうだ、ノートだ。ノートに一つずつ単語を書き写してみよう。そうしたらなんとか覚えられるかもしれない。俺は、補習の残り時間、この意味のわからない文字の羅列たちを取りあえず書き写してみることにした。
補習を受けて、合格点を貰うまでに二時間もかかってしまった俺は、ようやく家に帰ることにした。俺は、集中力がないのだろうか。
帰る途中、「中岡子どもそろばん塾」という看板がついている建物から川野さんが出てくるところが見えた。
川野さんはこちらに気づかず向こうの方へと歩いていってしまったので、俺は、
「川野さーん!」
と後ろから声をかけた。
「わあ、びっくりした」
川野さんは驚きながらそう言って振り返り、立ち止まった。
「偶然だね。俺、さっきまで補習を受けていたんだ。この前の生物の小テスト、散々だったよ」
「あなた、本当に理系科目が駄目なのね」
「そんな、はっきり言わないでよ」
そう俺が言うと川野さんは少し申し訳なさそうな顔をしてこちらを見て黙ってから、前を向いて歩き始めたので、俺も続いてその横を歩きながら、こう尋ねた。
「川野さんって、部活とかやっていないの? この時間にそろばん塾から出てきたからびっくりしちゃったよ」
「やっていないわ。ここ、私が小学生だったときにお世話になっていたそろばん塾なの。放課後たまに来て、子どもたちに教えるのを手伝っているのよ」
「部活、やっていないんだね。子供に教えたりするの、好きなの?」
「ええ、好きよ。いつも数学の勉強をしていても気が滅入っちゃうから、気分転換も兼ねてね」
「どうして、部活はやらないの? それも気分転換になるかもしれないよ?」
「あまり、興味のある部活がなかったの。私、友達を作るのも下手だし」
「本を読むのが好きなんだったら、文芸部とかよかったんじゃない?」
「それもいいかもしれないわね。数学オリンピックが終わったら、入るかどうか考えてみるわ。ありがとう」
話している川野さんを見ると、友達がたくさんできそうな感じもするものだが、やはり今は、数学オリンピックの勉強に集中しているのだろうか。
「私の家、こっち側なの」
そう言って川野さんは立ち止まり、右の方面を向いて指差した。
「そうなんだ、俺、このまま真っ直ぐなんだ。それじゃあね。また学校で会えたら話そう」
「ええ、またね」
そう言うと川野さんはすぐに家のほうに向かってずんずんと歩いていった。振り返ったりするのかなと思いつつ歩いていく後ろ姿をしばらく見ていたが、そんな気配はまったくなかったので、俺もそのまま自分の家に帰ることにした。
翌月のある日の昼休みに、中間試験を控えていた俺と山田は、試験にどう対策するかについて話し合っていた。
「なあ、試験どうする?」
山田がぶっきらぼうに尋ねてきた。
「どうするってまあ、やるっきゃないな」
「理系科目やばいよな。特に数学がやばい」
そう言いつつ山田が赤点を取っているところを見たことはなかった。いつも赤点をギリギリで回避している。要領がいいやつなんだろうなと思う。
「お前そう言いつついつも赤点回避してるじゃんか。本当にやばいのはこっちだよ」
「お前は、現代文と英語ができるからいいじゃん」
「いやそういう問題じゃなくて、こっちはまじで理系科目が駄目なんだって。生物とかまったくわかんないし。留年とかないよな? うちの学校って」
「さあ、あまり聞いたことはないけど」
俺は文系科目はできたので、理系科目が駄目でもあまり言及されていなかったが、今年の理系科目、特に生物がまったくわからないので、不安になってきた。
「まあ、勉強したら済む話だよ」
山田は気楽にそう言った。赤点を全然取らないし、もしかしたら勉強もできるやつなのかもしれない。部活を真剣にやっていなかったら、案外有名な大学に行けたりするんじゃないだろうか。
「そうだね。今回はちょっと、頑張ってみるよ」
「おう、その意気だ。頑張りたまえ。わはは」
「お前……」
あまり調子に乗るなよ、と言おうと思ったが、今回は本当にこちらのほうが危険な状況で、なんとなく向こうのほうが上な気がしたので、今日帰ったら、それはもう滅茶苦茶に勉強してやろうと、そう思った。
中間試験を終えた翌週のある日に、試験の結果を受け取った俺は、生物の赤点を回避していたことに驚いていた。勉強、やってみるものだなと思った。数学は、赤点だった。
数学のテストの解答用紙を眺めながら廊下を歩いていると、山田がこちらに向かって歩いてくるのが見えたので、声をかけた。
「おう山田、テストどうだった?」
「まあまあかな。それより川野、全教科九十点超えだったんだって。やっぱりあいつ、ばけもんだな」
「数学はどうだったって?」
「九十八点だったらしいよ」
一問間違えたんだ、と思った。
山田の教室を覗くと、川野さんは席に座って窓から空を見上げながら、足をぶらぶらとスイングさせていた。公立校のテストでも、やはりいい得点を取れると嬉しいものなのだろうか。
「俺、数学赤点だったよ。生物はなんとかなったんだけどね」
「よかったじゃん。今度、俺が数学を教えてあげるよ」
「お前も、数学は大したことないだろ」
「じゃあ、川野さんに教えてもらったら?」
「そんな時間ないだろ」
「そうかな。なんかあいつ、いつも退屈そうにしているよ」
「いつ勉強しているんだろうね」
本当に、川野さんはいつ勉強をしているのだろう。数学をずっとやってきたからそんなに勉強する必要もないのだろうか。
そんなことを考えながらぼんやりとしていると、川野さんが教室から出てきたので、声をかけた。
「あ、川野さん! テスト、どうだった?」
「まあまあだったわよ」
普通、全教科九十点超えをまあまあとは言わないんだぞ、と教えてあげたかった。
「俺、数学で赤点取っちゃったよ。よかったら今度、教えてくれない?」
「うーん、私、勉強が大変だから、難しいわ。私もこう見えて忙しいのよ。期末は、頑張ってね。それじゃあ」
「そうなんだ、ごめん。またね」
そう俺が言うと、川野さんはにこっと笑ってから向こうの方を向いてすたすたと歩いていってしまった。
「あいつ、案外喋るんだな」
山田は少し驚いた顔をしてそう言ってきた。クラスでは本当にそんなに喋らないんだろうか。
「ていうかお前凄いよな、いきなり人に話しかけられて」
「まあね。なぜかこういうことはできるんだ」
「案外迷惑がられているかもしれないぞ?」
山田はそう言いながら俺の背中を叩いてきた。
「そうかもね」
そんなことを話していると、休み時間が終わるチャイムが鳴ったので、それぞれの教室に戻ることにした。
翌日、弁当を忘れてしまったので、惣菜パンを買いに行くために下の階へと向かっていた。階段を降りる途中にある窓を覗くと、外は雨が降っていた。
購買で焼きそばパンとサンドイッチを買い、階段を登っていると、上の階から水野が降りてきた。
「よっ、太田。数学、赤点だったんだって? 頭よさそうに見えるのに、相変わらずだよなあ」
水野は同じ学年だが、階段を隔てた向かい側の教室にいるので、普段はあまり見かけることがなかった。彼女も、中学のときからの同級生だった。バスケットボール部に所属していて、短髪にしており、男勝りな性格だが、美人だと思う。どうも山田に気があるらしい。
「山田から聞いたのか。お前こそ、テストどうだったんだよ」
「なんと、数学が満点だったのです」
「お前、凄いよな。勉強もできるのに、なんでうちの高校に来たんだ」
「そりゃだって、この高校バスケが強いから。私も、パン買いに行くんだ。それじゃあね」
そう言うと、水野は階段を降りていってしまった。中学のときから、美人なのに明るいやつだなあと思っていた。中学のときは水野と山田と俺の三人で遊んだりすることも多かったが、最近はめっきりなくなってしまった。運動部は部活が忙しいだろうし、水野は成績優秀なので、生徒会に入れと周りに言われているらしい。当の本人はあまりやる気がないらしいが。
みんな、何かしらの特徴があって凄いなあと思う。俺は、シンバルや小太鼓なんかをぼんやりと叩きながら青春を終えてしまうのだろうか。そんなことを考えていても仕方がない。せめて、周りの連中に負けないように勉強くらい頑張ろう。そんなことを思いながら、教室に戻った。
あくる日の放課後、俺は数学の補習を教室で受けていた。ふと入り口のドアの方を見ると、去年同じクラスだった大溝くんが入ってきた。
「おお! 大溝くん。ひさしぶりだね」
大溝くんは眼鏡をかけていて小太りではあったが、いかにも勉強ができそうな見た目のやつだった。
「おお、太田か。お前も、数学赤点だったの?」
「去年も数学の補習で会ったよな。眼鏡をかけているのなら、勉強が得意であれよ」
「お前それ去年も言ってたな、失礼だぞ」
「ごめんごめん」
黒板の方を見ると、数学の川村先生が問題を黒板に書き写していた。川村先生は、基本的に無言で問題を書き写し、書き終わったときに生徒に問いかけて答えるまでじっと待つタイプの先生だった。
「はい、ではこの問題をやってみてください」
まったくわからなかったが、川村先生は黙ってこちらを向き教壇の席に座ってしまったので、取りあえず解いてみることにした。
隣を見ると大溝くんも汗をかきながら問題を解答用紙に書き写し、解いていた。見たところすらすらと解けているようだ。どうも今回の補習では簡単な問題を選んでもらえたらしい。
俺も問題を書き写し、しばらく見つめたのちに解こうとしたものの、まったく解けなかったので、大溝くんの方を見ると、もう解き終わって立ち上がり、先生の所へと向かおうとしていた。
「お前、補習の予習をしてきたのか」
「当たり前だろ。補習なんかで時間を取られてたまるかよ」
「じゃあ赤点を取るなよ」
俺がそう言うと、大溝くんは、
「へっ」
と笑い、教壇の方へと歩いていった。大溝くんは解答用紙に丸付けをする川村先生を後ろから覗いていたが、しばらくするとその解答用紙を貰い受け、戻ってきた。
「間違ってたのかよ」
「そうみたい」
「相変わらずだなあ」
「お前も、早く解けよ」
「なんと、まったくわからないのです」
「教科書あるだろ。開いてみて解いてろ」
「相変わらず冷たいなあ」
そう言いつつ教科書を鞄から取り出し、開いて読み始めた。隣を見ると大溝くんも鞄をがさがさしながら、教科書を探しているようだった。今日の補習も長くなりそうだな、と思った。
週末の土曜日になると、吹奏楽部の部員たちは、外で筋トレをしていた。吹奏楽部でも筋トレが必要なのだろうか。謎である。俺はなぜか、小太鼓を叩いてみんなが筋トレをするのを応援する係だった。これも必要なのだろうか。まったくもって謎である。
筋トレが終わり、小太鼓を持って片付けに向かう途中、体育館で女子バスケットボール部が試合を行っているところを、入り口のドアが開いていたので見かけた。ちょうど水野が途中出場するところだったようなので、そのまま見続けることにした。
水野はPG(ポイントガード)というポジションらしい。シュートを打つ人にパスを出したり、周りの選手に指示を出したりする役割らしい。バスケのアニメを見てつけた知識なので本当にそうなのかはよくわからないのだが。まだ控えの選手らしいが、新チームからは確実にレギュラーに選ばれるだろうと言われているらしい。
水野は下級生なのにもかかわらず、先輩たちに積極的に指示を出していた。よく通る声だなあと思う。あっ、水野が出したパスからシュートが決まった。これはアシストというやつなのだろうか。あまりバスケに詳しくないのでよく知らないのだが。
シュートが決まったあと、ふと校舎の方を見ると、川野さんが校舎から出てくるところを見かけた。声をかけようかと思ったが、どうも浮かない顔をして俯いて歩いていた。それでも、なぜか声をかけたほうがいいような気がしたので、こちらに近づいてきたときに声をかけた。
「川野さん」
川野さんは声をかけられてからこちらに気がついたのか、はっと顔をあげてこちらを向いた。
「あら、偶然ね。今日は、部活があったの?」
「そうなんだよ。吹奏楽部なのに外で筋トレをしていたよ。よくわからないよね。本当に必要なのかな。川野さんは、今日何かあったの?」
「さっきまで、数学オリンピックについての打ち合わせがあったのよ。これから学校側でどうするべきか相談されていたわ。オリンピックまで、川村先生にいろいろと教えてもらえるらしいの」
川村先生よりも、川野さんのほうが数学ができるんじゃないかな、と正直思った。それでも、川野さんは川村先生の教えを受けるんだろうな、と思う。きっと、川野さんは、そういう性格だと思う。
「そうなんだ、いろいろ大変だね。でも無理せず、頑張って欲しいよ。俺、川野さんのこと、応援しているから」
「ありがとう。あなたって、優しいわよね。私、これから用事があるからもう行くわね。それじゃあ」
そう言うと川野さんは行ってしまった。川野さんの目の下には、少しクマができていたように思った。きっと勉強が大変なのだろうなと思う。俺も、もっと頑張ろうと思った。体育館の中をちらりと見ると、水野は相変わらず試合に集中していて、周りに指示出しをしているようだったので、俺は、小太鼓を片付けに行くことにした。
六月に入ると、吹奏楽部では、体育会系の部活の応援曲の練習を行っていた。この間の外での筋トレは、炎天下での演奏などを想定した体力づくりの一環でもあったらしい。なら夏場にやるべきなのでは? とも思ったが、いきなり夏に外で筋トレをしても倒れてしまうだろうし、いろいろと配慮されているのだな、とぼんやりと小太鼓を叩きながら思った。
「おい太田! ちょっと音がずれているぞ! 集中しろ!」
「はい。すみません」
周りの部員たちから少し睨まれたような気がした。吹奏楽部は中学のころから続けていたが、金管楽器や木管楽器をやる人がほとんどの中でパーカッションという特別なパートであり、また数少ない男子部員ということもあって、部内では浮いてしまうことが多かった。友達がまったくいないというわけでもないのだが、この時期の追い込みではみんなぴりぴりとしていた。
「太田、大丈夫か?」
隣で大太鼓を叩いていた岡田くんが怒られたことを心配して話しかけてきた。
「おう、いつも怒られているから平気だよ。心配してくれてありがとう」
「ならよかった」
岡田くんは大柄だったが気の優しいやつだった。大柄だったので大太鼓を任されていたようなところがあったが。がっしりとした体格ではあったが落ち着いた声で話すので周りの女子部員たちからも人気があるようだった。
部活が終わり、帰る途中に野球部が練習しているところを見た。うちの野球部は甲子園に出られるような強豪校ではないのだが、もし夏の予選でもいいところまでいって応援することになったら興奮するだろうなあと思う。もっとも、炎天下での応援になるので大変だとは思うが。プレーする選手たちのほうが大変だろうと思うし、頑張って欲しいなと思う。
冷静に考えると、甲子園に行けるような高校の吹奏楽部に入ることを目指して高校受験をすればよかったなあと少し思ったが、中学のころはそんな考えをまったく持っていなかった。単に山田についてくるような形で、この高校に入学してしまった。俺は何を目指して吹奏楽を始めたのだろうと考えてしまい、歩きながら、少し落ち込んでしまった。
翌日、弁当を食べ終わり、教室の外に出ると、同じタイミングで偶然川野さんも教室から出てきた。
「あ、太田くん。ちょうどよかった、ちょっとここで待っていて」
「お、おう」
そう俺が言うと川野さんは教室に戻り、自分の席で鞄をがさがさとしていた。そして、何かを手に取り、こちらに戻ってきた。
「これ、作ってみたの。よかったら、食べてみて」
唐突だな、と思った。
「ありがとう、これ、何?」
「エッグタルトよ。本に載っていたから作ってみたの」
そう言われたのでお菓子にされていたビニールの包装をとき、一口食べてみた。
「どう? おいしい?」
「おいしいけど、なんかちょっとしょっぱい気がするな」
「え? でも、レシピどおりに作ってみたのだけど」
「でも、おいしかったよ。ありがとう」
そうは言ったが、川野さんは不満げな表情をして少し俯いていた気がする。
「ならよかった。それじゃあ私行くわね。突然渡しちゃって、ごめんね」
そう言うと川野さんはまたすたすたと向こうの方に行ってしまった。いつも、すぐにどこかに行ってしまうなあと思う。と言うより、いつもどこに行ってしまうのだろうと思う。
俺は、川野さんに貰ったエッグタルトの残りをぼんやりと見つめていた。普通の女の子は、いきなりお菓子とかを渡したりはしないよな、と思った。凄く頭のいい人ってこういうものなのだろうか。
「おい太田、な〜にを貰っちゃってるんだ?」
そう言いながら山田が後ろから肩を組んできた。
「なんかいきなり川野さんにお菓子を貰っちゃったよ。食べてみる?」
「いらねえよ。お前が、貰ったんだろ?」
「いらねえって失礼だな。結構おいしかったよ」
「そうか、よかったな」
そう言うと山田は、俺の背中を軽く叩いて自分の教室に戻っていった。
俺も、教室に戻ることにした。思い返してみると、女の子に何かを貰うことは小学生のとき以来だったんじゃないかなと思い、内心少し嬉しかった。エッグタルトをもうひとかじりしようかなと思ったが、やめた。
翌日の放課後の帰り道で、途中にある病院のそばを、兄が白衣姿で歩いているところを見かけたので、後ろから声をかけた。
「あ、兄さん」
そう呼びかけると、兄はこちらを振り向いた。
「おう、弟よ。どうした? 学校帰りか?」
「そうなんだ。兄さんは研修か何かがあったの?」
「ああ、大学五年になったから病院での実習が始まったんだ。勉強だけでも大変だったのに、ひいひい言いながらやってるよ」
兄はあからさまに困った顔を見せながらそう言った。
兄は都内の大学の医学部に通っている医学生だった。勉強が不得意な俺とは違って優秀なので、親族が集まった時などはよく比べられて馬鹿にされることが多かったが、俺から見ても兄は憧れの存在だった。勉強がよくできて優しいので、年は少し離れていたもののよく構ってもらっていたのだが、最近はさすがに忙しい様子なので、話すことも少なくなっていた。
「そういえばお前ん所の学校の女の子、よくお見舞いに来ているから病院でちょっとした話題になっているよ」
「え、どんな子?」
「なんでも数学オリンピックに出るような優秀な子だって聞いたから、お前も知っているんじゃないか?」
川野さんだ、と思った。
「知っているよ。学校でも有名だし」
「やっぱりそうか。なんでも、お爺さんの具合が悪くて入院しているらしいんだ。いつもその子が一人でお見舞いに来るらしいんだよ。お爺さんも孫が可愛くてたまらないらしくていつもその子の話をするもんだから、院内でも有名人だよ」
川野さん、勉強だけでも忙しいだろうに、お見舞いにまで行っていたのか、と思った。ちょっとした息抜きにもなるんだろうか。ただ、お爺さんの具合が悪いとなると、きっと心配にもなるんだろうなあとも思った。大丈夫なのだろうか。
「そういえばお前、彼女とかできたのか? え?」
「いないよ。兄さんこそどうなんだよ」
「俺も気になる人がいるんだけど、勉強が忙しくってね。それにしょっちゅうサークルで知り合った女の子から連絡が来て、大変なんだ。医学部はやっぱりモテるのだよ。だはは」
兄はそう言っていたが、高校のころ片思いをしていたものの海外の大学に行ってしまった子のことをいまだにひきずっていることを俺は知っていた。
「それじゃあ、俺はもう行くよ。君も勉強など頑張りたまえよ。では」
そう言って兄は片手を上げ、向こうの方に歩いていったので、俺も帰ることにした。
翌週、完全に梅雨入りしてしまい、雨が降っていた日、校舎で水野と会った。
「あ、太田。聞いた? 川野さんのこと」
「おう水野。聞いていないなあ。最近あまり見かけていないし」
「川野さんのお爺さん、病院で亡くなったらしいの。川野さん、相当落ち込んでいるみたいよ」
よりにもよって数学オリンピックが近づいているときに。ショックだろうなと思った。
そう考えていると、川野さんが廊下の角から出てくるところが見えた。川野さんがこちらをちらりと見たので、
「あ、川野さん」
と声をかけようと思ったが、川野さんはすぐに俯いて真っ直ぐ歩いていってしまった。少し引きつった表情をしていた気がする。ショックで泣き続けていたのだろうか、泣いたあとのような顔をしていたことが、一瞬しか見えなかったがわかった。
「川野さん、行っちゃったね」
「学校には来ているけど、先生以外とはあまり喋っていないらしいわよ。しばらく、そっとしておいてあげましょう」
「そうだね。きっと凄くショックを受けているのだろうなというのはわかるよ」
俺はまだ身近な人が死ぬ、ということを経験したことがなかったので、わからなかったが、もし自分のお爺ちゃんが死んだらきっと落ち込むだろうと思うし、大丈夫なんだろうか、と心配になった。
窓の外を見ると、雨が強く降っており、灰色がかっていた雲が若干黒くなってきた気がした。雷が鳴っていた。
「あなたも、あまり気にしないようにね。川野さん、きっと数学オリンピックの準備で忙しいだろうから。それじゃあ私も、もう行くわね」
水野はそう言っていたので、俺は頷くと、水野は教室に戻りに階段の方へと歩いていった。水野が階段を登っていき見えなくなったところを見てから、俺も教室に戻りに階段の方へと向かった。
翌週のある日の放課後、外では相も変わらず雨が降りしきる中、小教室で川村先生の指導を受ける川野さんの姿を廊下から見かけた。川野さんは膝に手を置きながら、黒板に書かれた数式を説明する川村先生の話をぼんやりと聞いているように見えた。来月にはもう国際数学オリンピックの開催地であるイギリスに出発するとのことだった。
俺も、もう行こうと小教室を通り過ぎようとする際に川野さんの方をちらりと見ると、川野さんもこちらに気づいたのか一瞬目があったが、川野さんはすぐに黒板の方に目を戻してしまった。
部活が終わり、帰る途中、コンビニに寄ってアイスを買った。当たり付きのやつにはしなかった。なんとなくまた外れるような気がしたので、今日は単純にアイスの味を楽しもうと思ったのだ。そのほうがいいのかもしれない。ついでにお菓子もいくつか買った。
家に帰り、お菓子を食べながらぼんやりとテレビを見ていると、「芸能人が自殺した」というニュースが流れていて、なんだか気分が落ちこんだので、チャンネルを変えてアイスを手に取り袋を開けた。もう夏に入ろうとしており気温が上がっていたためか、アイスは少し溶けてしまっていた。
翌月、夏休みに入り、野球部が夏の予選の準々決勝まで駒を進めたので、吹奏楽部の一部はスタンドで応援をしていた。野球部が準々決勝に進出するのは約三十年ぶりのことだったらしいので、みんなお祭り騒ぎだった。
炎天のもとで応援するのは大変ではあったが、みんなで息を合わせて応援をするのは凄く楽しかった。プレーする選手たちを見て、これが青春なのか、などと思ってしまった。
金属音と共に、打球は左中間へと飛んでいった。ツーベースヒットになり、二塁ベース上で三年の先輩だろうか、選手がこちらを向いてガッツポーズをしていた。スタンドのみんなも盛り上がりながら、歓声を上げていた。
結果は、惜しくも二対一で敗北だった。選手たちは涙を流していたし、スタンドで応援していた女子生徒のうちの何人かも泣いていた。俺もこの先、涙を流せるほど熱中できることに巡り合えるのだろうか、と思いながら小太鼓を片付けるために持ち上げようとした際、ふと川野さんのことを思い出した。青空を見上げ、そういえば、数学オリンピックはどうだったのだろう、などと考えてしまった。もう帰国しているのだろうか。
周りでもあまり噂になっていないことから察するに、いい結果ではなかったのかもしれないなあ、と思った。川野さんがイギリスに出発したあと、川村先生の授業を受けていたときも、先生は少し浮かない表情をしながら授業をしていたことを思い出した。周りを見ると、ほかの生徒の多くも帰る支度を始めていたので俺は、小太鼓を持ち上げ、片付けるためにマイクロバスへと向かった。
暑さのピークを過ぎたのか少し涼しくなってきていて、夏休み中にも終わりが近づいていたとある日の夜、母さんと二人で夜ご飯を食べる機会があった。兄は塾講師のアルバイトで忙しいらしく、父さんも出張で大阪に向かっていた。
「あんた、学校で好きな子とかいないの? そろそろ彼女の一人でも作りなさいよ」
「いないよ。恋愛とか、よくわからないんだ」
「川野さんって子はどうなの? 仲がよさそうにしてるって水野さんのお母さんから聞いたわよ」
「水野か。あいつは本当になんでも喋るよな。川野さんは、よくわからない。なんか頭いいって聞いて面白そうだったから話しかけてみたんだ。友達みたいなもんだよ」
「でも、川野さんのほうからは気にかけられているかもしれないわよ」
「そうなのかな。そういうのは、よくわからないんだ」
本当は母さんに認めて欲しいんだけどな、と正直思った。母さんは、優秀な兄のことばかり気にかけていて、昔からあまりかまってくれていないような気がしていた。その代わりに、兄からはめっぽう可愛がられていたが、俺はどうしても母さんにかまって欲しかった。最近はもう気を引くのは無理なのかな、と半ば諦めかけている。兄が優秀すぎるから仕方がないのだ。そういうことにしている。
「母さんは父さんとどういう風に知り合ったの?」
「さあ、忘れちゃったわ。そんなこと。成り行きよ。人生、そんなもんよ」
「そうなんだ」
昔から、母さんは俺に対してやけにドライだな、と思う。普通はこういうものなんだろうか。そういうこともあってか、俺は恋愛についてまったくわからない節があった。もっと何か、ときめいたりすることがあるんじゃないだろうか。少なくとも、川野さんにはそういった感情を感じていないような気がしていた。本当は誰も、異性にときめいたりはしていないのだろうか。流石にそんなことはないとは思うのだが。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
「あんたは、もっと勉強しなさいよね。兄さんを見習いなさいよほんと」
「わかってるよ」
そう言って俺は食器を流しに置き、自分の部屋に向かった。夏バテ気味なのだろうか、少し疲れたので、取りあえずしばらくベッドで横になろうと思った。
夏休みが明け、二学期が始まり、教室に向かっていると、廊下に人だかりができていた。人だかりの後ろから背伸びをして覗いてみると、数学オリンピックの結果が張り出されているようだった。女子生徒の多くはもう結果を知っていたのだろうか、人だかりのほとんどが男子生徒だった。
何人かが教室に戻っていき、人だかりに隙間ができたので結果を見に前へ進むと、張り紙に川野さんの顔写真と、その横に数学オリンピックの結果が載っていた。
結果を見ると、一問目は、七点満点中の七点。二問目は、四点。三問目は、二点。四問目以降は白紙解答であったのか、すべてゼロ点だった。
川野さんのほかの五人の日本代表の生徒たちを見るとすべて男子生徒で、学校名を見ると関東や関西などの、どこかで聞いたことがあるような名門校ばかりだった。
金メダルが二人、銀メダルが二人、銅メダルが一人、と代表の男子生徒たちは全員メダルを獲得しているようだった。張り紙の隣に新聞記事も張られており、読み進めてみると、日本代表の一人がメダルを獲得できなかったのは七年ぶりのことであったらしい。
教室に戻ろうと右の方を向くと、階段から登ってきた川野さんの姿が見えた。普通に登校してきたようだったので安心したが、川野さんは俯いたままこちらを見ることなく、すっと教室の中へと入っていった。
きっと落ち込んでいるんだろうな、と思っていると、朝のホームルームが始まるチャイムが鳴ったので、俺も教室に戻った。
放課後になり、部活も早めに終わり、家に帰る途中に川沿いで川を見つめながら三角座りをしている川野さんを見かけた。
「川野さん」
そう言いながら川野さんの横に座ると、川野さんはそばにあった石を左手で掴み取り、投げ始めた。
「川野さん、左投げなの?」
「右投げよ。右投げ、右打ち」
「いや、打つほうは聞いていないけど」
そう俺が言うと、川野さんは石を投げるのをやめ、少しこちらを見てからまた川の方に目を向けて、川を見つめていた。
「数学オリンピック、残念だったね。でも、人生、数学だけじゃないと思うよ。川野さんは頭がいいし、きっとこれからいろんなことができると思うよ」
「数学は、私にとって人生のすべてだったわ。お爺ちゃんが大学で数学を教えていたから、子供のころからお爺ちゃんの家に行っては数学の面白さを教えてもらっていたの。私も、一生懸命本を読んだりして勉強していたわ。お爺ちゃんにどうしてもいいところを見せたかったのだけど」
そう言うと川野さんは俯き、体を震わせ始めた。
「川野さん、大丈夫?」
「お爺ちゃんが亡くなったとき、病室の窓辺に食べかけのエッグタルトが置いてあったらしいの」
そう言うと川野さんは震えながら泣き始めた。涙をぼろぼろとこぼしていた。
「川野さん」
「お爺ちゃんのことが、好きだったから。凄く」
川野さんは目をぎゅっと閉じ、歯を食いしばりながら泣いていた。
「うわああっ」
俺は立ち上がり、叫びながら、ダッシュで川の中へと飛び込んだ。
大きな音と共に水しぶきが上がり、体が水の中に沈む一瞬の間に、ふと目を開くと、川の中はほんのりと黄色がかっているように見えた。水中も、意外と明るいのだな、と思い目を閉じた。
体が浮かび、立ち上がり、びしょびしょになりながら川辺に戻ると、川野さんは、あ然とした表情でこちらを見ていた。涙も止まっているように見えた。
「あなたって、頭がおかしいのね」
「だから、そんなにはっきり言わないでってば」
俺は膝に手をつき俯きながら答えた。
「なんか、びっくりして興ざめしちゃったわ」
「まさか、お菓子に何か盛っていたとかじゃないよね?」
「そんなわけないでしょ。大好きだったのに。寿命よ。老衰よ」
「そっか、ならよかった」
別によくはないでしょ、とでも言いたげな表情をして川野さんは口をつぐみ、俯いた。
「川野さん、そろそろ帰ったら? 俺、体がずぶ濡れだからもうちょっとここに残って川見てるよ」
「私も、もうちょっと残って石見てる」
そうしてしばらく、特に会話をすることもなく、ぼんやりとしていた。川も意外と海のように波ができていたり、ゆらゆらと揺れていたり、太陽の光を反射してきらきらしたりしているんだな、と思った。今まで、しっかりと見続けたことがなかったから気がつかなかった。
「私、そろそろ帰るわね。ちょっと元気でたわ。ありがとう。あなたも、もうしばらくしたら帰りなさいね」
「うん」
返事をして川野さんの方を見上げると、川野さんは、目を細めながら笑っていた。凄く優しい表情をしているな、と思った。
川野さんは振り返り、歩いて帰っていったので、俺は川に目を戻し、もうしばらく川を眺めていようと思った。
二学期が始まりしばらくたってから、俺と山田と水野の三人グループに川野さんが加わることが多くなっていた。川野さんは、特に水野とはかなり仲がよさそうにしていた。コンタクトレンズにしたのだろうか、眼鏡を外しており、前よりも少し明るくなったような気がした。文芸部に入ることにしたらしい。
水野によると、川野さんは来年の数学オリンピックには挑戦しないことにしたらしい。以前は解けていた問題の解き方がわからなくなってしまったとのことだった。俺も、そのほうがいいのではないかという気がする。
三年生になり、卒業を前に一度四人でご飯に行く機会があった。山田も最初は川野さんのことを気味悪がっていたが、何度か川野さんに話しかけては面白がって笑っていた。川野さんが入ってから、グループの仲が中学のころのように戻った気がした。
ご飯を食べたあと、四人で東京タワーを見に行った。水野と山田は少し離れた所で東京タワーを見上げていたので、俺と川野さんも並んでそれを下から見上げていた。
東京タワーを見上げていたとき、ふと川野さんの方を見ると、川野さんは、それを見て何を思っていたのかはわからなかったが、純粋な目をして見ていたので、思わず俺も視線を東京タワーの方に戻してしまった。東京タワーは、ぼんやりと赤く輝いているように見えた。
高校での最後の学期もいつの間にか終わって、卒業式の日を迎えた。俺は、山田の助けもあり都内の中堅私立大学に現役で合格することができたので、そこに進学することに決めていた。その山田は、高校卒業後は知り合いのスポーツ用品店に就職することにしたらしい。
水野は、有名私立大学に合格し、そこに進学することにしたらしい。流石だな、と思った。川野さんの進路についてはまだ聞いていなかった。
川野さんは今後どうするのだろう、と考えていながら校庭に出ると、桜の木の下に川野さんの姿が見えた。
「川野さん、卒業おめでとう」
「あら、太田くん。あなたも、卒業おめでとう」
「川野さんは、卒業後どうするつもりなの? 俺は、都内のそこそこの大学の文系学部に合格できたから、そこで四年間ぶらぶら過ごすつもりだよ」
「私は、カナダにある大学の理学部に進学することに決めたわ。数学をもう一度だけ学び直してみたいと思ったの。その先のことはまだ決めていないのだけど」
「そうなんだ。海外の大学か。川野さんはやっぱり凄いね」
「そうだ、これ」
そう言うと川野さんはポケットから何かを取り出した。
「これ、今朝お母さんから貰ったの。あなたに渡したらって」
見てみると、首に着けるペンダントのようだった。
「俺、こういうのに疎いんだけど、何か特別な意味があるもんなの?」
「ううん、これは、ただのペンダントよ。友達の証として。あなたには、お世話になったから。もう、会えなくなるかもしれないし」
友達か、と思いつつそのペンダントを受け取り、少し見つめた後握りしめた。
「ありがとう、大切にするよ」
「それを見て、私のことを思い出してね。それじゃあ、私はもう行くわね」
そう言って川野さんはにこっと笑い、振り返って行ってしまった。本当にいつも、すぐに行ってしまうなあと思う。本当にもう二度と会えないのかもしれないなあと思うと寂しい気持ちになったが、歩いていく後ろ姿を見ていても、やはり振り返る気配はなかったので、俺も振り返り山田と水野に会いに校舎の方へと向かった。
高校を卒業したあとの春休みのような期間が終わり、大学に進学してからすぐに、以前からやってみたいと思っていたドラムを始めようと思い、大学の軽音サークルに入った。サークルに入ってから二日目に、新入生を歓迎するために、先輩たちがバンド演奏を行っていたので、それを見学することにした。
何組かの演奏を聴き終えたのち、そろそろ終わるのかなと思い、もう帰ろうかなと思っていたころ、三回生ぐらいだろうか、割と目立たない感じの見た目をしたバンドが準備をし始めたので、もう少し残ることにした。
演奏を聴いていると、ボーカルが思っていた以上に激しめに歌っていて、かっこいいなあと思っていたところ、左側でベースの先輩が俯いて首を振りながら演奏をしていることに気がついた。そのベーシストの先輩は、口をつぐみながらベースの演奏のみに集中しているような感じで、見ていると吸い込まれてしまうような気がした。全員がそうなっているのではないかと周りを見渡してみたが、ボーカルの方を見て手を振り上げている人もいたので、どうも違うようであった。
すべてのバンドの演奏が終わったあと、初日に知り合った先輩にベーシストの先輩について聞こうと話しかけた。
「先輩、さっきの俯いて首を揺らしながら演奏をしていたベーシストの人って、誰ですか?」
「お前、あいつが気になるの? あまり喋らないし、なんか怖いやつだぞ」
「彼氏とかいるんでしょうか」
「さあ、あまり知らないけど」
話していると、先ほどのバンドの先輩たちがこちらに向かって歩いてきたので、思わず声をかけてしまった。
「さっきの演奏見ました。先輩のこと、好きです。立ち姿がかっこいいなと思いました」
「あなた、いきなり告白は失礼じゃない? 新入生の子?」
「はい、ドラムをやろうと思っています。太田と言います」
「そうなのね」
ベーシストの周りの先輩メンバーたちも、なぜこいつに? というような表情をしていたが、ボーカルの先輩は笑いながら話しかけてきた。
「お前、こいつが気になるのか。こいつ、遠藤って言うんだ。見た感じ気が合うと思うよ。仲よくしてやってくれ」
遠藤さんって言うのか、と思っていると、遠藤さんも、
「よろしく」
と笑顔で言い残し、周りのメンバーたちと歩いていった。素敵な人だなあと思い、これからこの人についていこうと思った。これからの大学生活が楽しみになっていた。
新入生の合同練習の日、別のグループのメンバーと一緒に練習をして交流を深める機会があった。その中で俺は別のグループのギターの杉野さんという人と一緒になった。
「杉野さんって、こういうのいつ始めたの? 俺は、高校のときに吹奏楽部で小太鼓とかを叩いていた延長でドラムを始めようと思ったんだ」
「私は、高校のときに軽音楽部に入っていたわ。女子校だったの。高校のときのアルバイト先で知り合った先輩がここのサークルの人だったから追いかけるようにしてこの大学に入っちゃったわ。もう必死で勉強したの」
そんな会話をしていると、遠藤さんが練習室に入ってきて、入り口の所でこちらを見て手招きをしていた。
「行ってきたら?」
杉野さんはそう言っていたので、ひとまず練習をやめて遠藤さんの所に行くことにした。
「そうするよ、またあとでね」
そう言って手を振ると杉野さんも軽く手を振り返し、すぐにギターの練習に戻っていた。切り替えが早いなあと思った。
「太田くん、ちょっといい? 食堂で一緒にご飯でもどう?」
「はい、是非」
食堂は、多くの学生たちでごった返していた。
遠藤さんは、
「先に席を取っておくわね」
と言っていたので、俺は生姜焼き定食を頼みに行った。出来上がった生姜焼き定食を受け取り、席に向かうと、遠藤さんはかばんから手作りのおにぎりを取り出して食べていたのでその隣に座った。何か頼むわけではないのだろうか。
「先輩は、何か頼まないんですか?」
「私は、これでいいの。ダイエット中だから」
「そうなんですか」
遠藤さんは、黙ってもさもさとおにぎりを食べ続けていたので、俺も生姜焼きに手をつけた。大学の食堂だったのであまり期待していなかったが、物凄くおいしかった。
「ここのご飯、おいしいでしょ。あなた、反応がわかりやすすぎよ。表情に出てたわ。ここに通うといいと思うわよ。友達とか連れてね」
「そうします。先輩はそのおにぎり、作ってきたんですか?」
「違うわよ、いつもお母さんが作ってくれるのを持ってきているの」
「そうなんですね」
そう言いながら黙って生姜焼きをつっついていると、あまり喋らない俺を見かねたのか遠藤さんは話を繋げてきた。
「それよりあなた、さっきのギターを弾いていた杉野って子、私のバンドの渡辺さんって人と付き合っているのよ、知ってた?」
「いえ、知りませんでした。あのボーカルの人ですか?」
「そうよ、四回生のね。彼、杉野さんが高校生のころから付き合っていたの、凄いと思わない?」
「そう思います」
「そういう下調べをせずに、むやみやたらに行動しないほうがいいってこと。あなた、そういうのあまり気にしなさそうだから。渡辺さんもああ見えて案外怒ると怖いのよ」
「そうなんですね、気をつけます」
遠藤さんにそう言われ、少し反省した。確かに、昔からそういったことはあまり気にしていなかったなあと思った。女の先輩に忠告してもらえたことはあまりなかったので少し驚いたが、アドバイスはありがたかった。
「先輩、もし暇な日があったら、遊園地とか行きませんか?」
「だから、もうちょっと考えてからそういうことを頼みなさいよ。サークルの人間関係とか、よくわかっているの?」
「どうしても行ってみたいんです。駄目でしょうか?」
「まあいいけど」
「いいんですか? ありがとうございます」
意外とあっさり承諾してもらえたので驚いたが、嬉しかった。前から、女の人と遊園地に行ってみたいと思っていたのだ。そのあと二人で話し合い、次の月の最初の週の日曜日に遊園地に行くことになった。
「あなたって、子供みたいよね。同じ学科の友達とか、作っておきなさいよ? 頭のいい友達を作っておくことが重要なんだからね」
そう言うと遠藤さんは立ち上がったので、俺も、
「はい、そうします」
と返事をし、立ち上がって食器を返しに行くことにした。
大学の授業を受けていると次第にそれにも慣れてきて、サークルでもドラムの練習に打ち込む日々を送っているとすぐに、約束の日曜日を迎えていた。待ち合わせ場所で待っていると、遠藤さんはレザージャケットを羽織り、いかにもロックバンドのメンバーのような格好をしてやってきた。俺も、バンドを始めたということもあったので、そういったロックな格好をして来ようかと今朝迷ったが、結局、無難にいつもの上着を羽織ってきた。
遠藤さんは、遊園地に入るやいなや、
「あれに乗ってきてよ」
と塔のような絶叫系マシンを指差していた。そのマシンは、四人がけのシートに座り、ゆっくりと上に上げられたのちに急降下するタイプの物だった。
「先輩は、乗らないんですか?」
「私は、ああいうのが苦手なの。怖いけど、乗ったらどんな感じなんだろって昔から気になっていたの。試しに、乗ってきてみてよ」
「わかりました」
そう言われたので俺は列に並んだ。遠藤さんも、俺がマシンに乗る直前まで一緒に並んでくれていた。
「それじゃあ、私はあっちで見ているわね。頑張ってきてね」
頑張りようもない気がしたが、俺は係の人に誘導されシートの一番右側に座った。反対側の端には、少し年上のカップルだろうか、男女二人組が座っていた。シートはゆっくりと登っていき、登っていく途中に下を見ると遊園地全体を眺めることができた。たくさんの人でにぎわっていたが、ふと視線を上げると街全体の眺めも見えた。綺麗な眺めだな、と思っているとシートは頂上に達し、ガタンという音がしたあと急降下した。あまりの速度だったので、思わず目を閉じてしまった。
自分の周りからは、
「きゃあ〜」
という叫び声が聞こえていた。
シートから降り、ふらふらとしながら出口へと向かうと遠藤さんが待っていてくれていた。
「ふらふらしているけど、大丈夫? 登ったり落ちたりするとこ、見ていたわよ。なんだか、滑稽だったわ」
「次は、先輩も乗ってくださいね」
「じゃあ、私はあそこのジェットコースターに乗ってみるわ。なんだか行けそうな気がするの」
そう言うと遠藤さんはジェットコースターの列の方へと向かっていった。そんなに長い行列はできていないようだった。
「一人で、乗るんですか?」
「あなた、ふらふらじゃない。あそこの柵の所で見ていていいわよ。今度は、私のことを見ていてね」
そう言って遠藤さんは列に並び始めたので、俺も休憩がてら柵の方へと向かった。
ぼんやりと柵の所で待っていると、遠藤さんの順番が来たようだったので、ジェットコースターを眺めていると、遠藤さんが乗っている姿が見えた。遠藤さんは前の席の裏についているレバーに掴まり、
「きゃあ」
と声を上げていた。楽しんでいるようだった。出口から、遠藤さんは少し疲れた様子で出てきたので、俺も出口に向かった。
「ジェットコースター、ひさしぶりに乗っちゃったわ。案外楽しいものなのね」
少し歩くと、遠藤さんはまた違うアトラクションの方を指差していた。
「ねえ、今度はあれに乗ってみない?」
見てみると、マシンが水に突っ込んでいくタイプのアトラクションのようだった。
「いや、あれはやめておきます」
「えっ、どうして?」
「実は俺も、絶叫系マシンがあまり得意じゃないんです。それに、服が濡れるのもなんだか嫌なので」
「そうなのね」
見ると遠藤さんは少し残念そうな顔をして俯いていた。
「少し、向こうのカフェで休憩しませんか?」
そう提案すると遠藤さんも、
「そうしましょう」
と言っていたので、俺は売店でソフトクリームを二つ買い、先に席に腰かけていた遠藤さんに、一つを手渡した。
「先輩の恋愛事情って、どんな感じなんですか?」
「私は、大学に入ってから付き合ったり別れたりの繰り返しね。周りの大学生も、みんなそんなもんよ。太田くんはどうなの?」
「俺も、高校一年のときに彼女がいましたが、なんだかんだですぐに別れましたね」
「そういうものよね」
そう言うと遠藤さんはソフトクリームを持ちながら観覧車の方を見上げていた。
「ねえ、最後にあれに乗ってから帰らない?」
「そうしますか」
俺はソフトクリームを早々に食べ終えていたので遠藤さんが食べ終えるのを待っていると、遠藤さんもソフトクリームを食べ終えたようだったので、ソフトクリームのごみを捨ててから観覧車の方へと向かった。
観覧車の中では、二人とも終始あまり喋らなかった。
「落っこちたらどうなっちゃうのかな」
と遠藤さんは下を見ながら言っていたが、俺も高い所が苦手だったので、
「わかりません」
と言いつつ遠くの方を眺めていた。
観覧車から降りたあと、二人で遊園地の出口の方へと向かった。あまり会話がなかったので、盛り上がらなかったかな、と少し心配になった。帰りの電車でも、あまり喋ることがなかった。
「私、この駅なの。またサークルで会ったとき、よろしくね。今日は楽しかったわ。ありがとう、またね」
そう言って遠藤さんはこちらを見て小さく手を振ったので、俺も振り返すと、遠藤さんはすぐに前を見て電車を降り、駅のホームの階段の方へと歩いていった。
遠藤さんと遊園地に行ったあとも、遠藤さんとは何度かご飯を食べに行ったり、サークルでは遠藤さんの近くでドラムの練習をすることが多くなっていた。
ある休みの日に、ファミレスではあったが遠藤さんに誘われ、ご飯に連れていってもらう機会があった。
「ねえ、私たちって付き合ってるのかな」
遠藤さんは注文して出てきたパスタには手を付けずに話を切り出した。俺は、頼んでいたオムライスに早々に手を付け頬張っていたので、突然話を切り出されたことに戸惑ってしまった。
そういえば、自分たちは付き合っているのだろうか。好きですとは言ったものの、その後もあやふやな関係が続いていたし、遠藤さんは一緒にいてくれていることが多かった気がしたが、大学やサークルで見かけた際には周りの人たちからも人気があるように見えたので正直自信がなかった。大人の恋愛とはこういうものなのだろうか、と勝手に都合よく自己解釈し、合わせることにした。
「そうなんじゃないでしょうか。一緒にいることも多いですし」
「私のどこがいいと思っているわけなの?」
そう言いながら遠藤さんは、
「いただきます」
と言いパスタを食べ始めた。
「かっこいいなって思います。演奏しているときとか」
「だからかっこいいってなんなのよ」
遠藤さんはパスタを食べる手を止め苦笑いしているように見えた。女の人にかっこいいと言うのは失礼だっただろうか。ただ、周りを引っ張っていく姿や、こうやって俺を誘ってくれるところだったりは、もはや男らしくさえも見えた。そう言うともっと失礼なんだろうか。今まで先輩に相手にされたことがあまりなかったということもあり、ただ素直にそう思ったのだ。
「ねえあなた、好きな人がいるんじゃない?」
「どういう意味ですか?」
「なんか、顔に出ているわよ。それに、その首に着けている物も、あなたが選びそうな物でもないし」
そう言って遠藤さんは俺が首に着けていた、川野さんに貰ったペンダントを指差していた。
「これは、高校のときの友達に貰ったんです。確かに仲のいい女の子からでしたが、これを貰ったときにもはっきりと友達の証って言われちゃいましたね」
そう言いながら手に持ったペンダントを見て、高校のころを思い出した。
「ふうん、そうなのね」
そう言いつつ遠藤さんはパスタを食べ進めていた。
「ねえ、今日、私と寝て」
遠藤さんに突然そう言われ、驚き、オムライスを運んでいた手を止め遠藤さんの方を見返した。多分間抜けな顔をしていたと思う。
「何を言っているんですかこんな所で。周りに聞こえちゃいますよ」
「今、午後二時ぐらいでしょ? 大して人もいないわよ」
そう言って遠藤さんは左の手首の内側に着けた腕時計を見ていたので、俺も周りを見渡してみると、確かにほかのお客さんはあまりいないようだった。
「ラブホテルね。午後五時に、JR新宿駅で待っているから」
「ええ?」
思わず間抜けな声を出してしまい、ぽかんとしていると、遠藤さんは立ち上がり、パスタを少し残して伝票も置いたまま店の出口の方に歩いて行き、店を出て行ってしまった。遠藤さんが店から出て行くのを見たあと、俺もぼんやりとしながらオムライスを食べ終え、支払いを済ませて店を出た。
待ち合わせまでの時間を潰すため、取りあえず本屋さんに入り、並んでいる本をぼんやりと眺めていた。高校生のときに彼女とお遊び程度のことはしたことがあったが、憧れの先輩と、と思うと胸が高鳴った。大学生ってこういうものなのだろうか、と思うと多分違う気がしたし、遠藤さんは冗談で言ったのだろうか、などと考えていると約束の時間が近づいてきたので、待ち合わせ場所に向かうことにした。
ファミレスでの一件以降、遠藤さんはときどき、俺が住んでいるアパートの一室に来るようになっていた。実家から大学に通うには少し遠かったので、大学生活が始まってから、部屋を借りて一人暮らしを始めていたのだ。
夜ご飯を食べてシャワーを浴びたあと、テレビでお笑い芸人たちがネタを披露するネタ番組をやっていたので、二人でそれを見ていた。寝る前に特にやることもないので、一人でいるときはそうやって過ごすことが多かったのだが、今日は遠藤さんも一緒に見てくれていたので少し嬉しかった。
「私、歯を磨いてくるわね」
「はい」
遠藤さんは立ち上がり歯を磨きに行ったので、俺はネタ番組を見続けることにした。大きな大会で優勝した芸人や、ベテラン芸人たちも多く出演する、四時間もあるような番組だったので、もし一人で見ていたなら途中でテレビを消していただろうな、と思ったが、なぜか今日は見続けることができていた。やはり見たことのある芸人が多いな、と思っていると遠藤さんが不機嫌そうな顔をして戻ってきた。
「あなたがよく着けている首飾り、洗面台に置いてあったんだけど」
川野さんから貰ったペンダントだ、と思いはっとした。今日はポケットに入れておいたのだが、シャワーを浴びる際にポケットから出して洗面台に置きっぱなしにしていたことを忘れていた。
「さっき着替えたときに取り出してそのまま置き忘れていたんです。うっかりしていました」
「この前も机の上に置きっぱなしにしたりしていたわよね? 大切な物なんだったら引き出しの中にでも入れておけば?」
「なんで、そんなに怒っているんですか」
最近、ぼんやりとすることが増えていて、遠藤さんに些細なことで怒られることが増えていた。遠藤さんは癇癪持ちの気があった。
「中途半端なやつが嫌いだって言ってんのよ!」
遠藤さんはベッドのそばに置いてあった目覚まし時計を掴み取り、ベッドの上に叩きつけた。投げつけられた目覚まし時計はワンバウンドし、ふわりと宙を舞ったあと、壁にぶつかり、落ちた。
「危ないなあ。壊れたら、どうするんですか」
「知らないわよ。そんなこと、どうだっていいでしょ」
俺は突然のことに驚きながら、投げ捨てられた目覚まし時計を取りに行った。目覚まし時計を手に取り遠藤さんの方を見上げると、遠藤さんは少し俯きつつ、冷めた表情をしながら立っていた。
「私は、もう寝るから。おやすみなさい」
そう言って遠藤さんは布団に潜り込み、壁の方を向いて寝てしまった。俺は目覚まし時計を元にあった所に戻し、再びテレビの所に戻りネタ番組の続きを見ることにした。遠藤さんは一度寝ると言って寝たら微動だにしない人だとは知っていたが、流石にうるさいだろうなと思ったので音量を少し下げた。今日はこの番組を最後まで見てみようとなぜか思った。
番組を見終わり、俺ももう寝ようと思い、テレビを消して、遠藤さんの横に潜り込んだあとちらりと遠藤さんの方を見たが、やはり遠藤さんは微動だにせず、寝息を立てながら寝ていた。俺も、今日は悪いことをしたなあと思いつつ、ネタ番組を最後まで見て少し疲れていたので、すぐに寝てしまった。
翌朝、目覚まし時計はいつもどおりに鳴り響き、目を覚まして隣を見ると、そこに遠藤さんの姿はなかった。寝ぼけながら洗面所に顔を洗いに行ったが、そこにも遠藤さんの姿はなく、部屋に戻ってみるとテーブルの上に渡してあった合鍵が置いてあった。
大学に戻りサークルに向かったが、そこにも遠藤さんの姿はなかった。何日かたったあとに遠藤さんのことについて知っていそうな先輩に聞いてみたところ、ボーカルの渡辺さんの就職が決まったこともあり、バンドは解散することになったらしく、それもあってか遠藤さんやほかのバンドメンバーたちの姿もサークルで見かけることがなくなったとのことだった。
授業の合間などにも校舎内で遠藤さんのことを探してみたが、どこにもその姿は見当たらなかった。そういえば、サークル以外で遠藤さんの姿を大学で見ることはほとんどなかったな、と思った。たまに食堂で見かけることはあったな、と思い何度か食堂にも向かったが、そこにもその姿はなかった。大学も、辞めてしまったのだろうか。
遠藤さんとは会えなくなってしまったものの、サークルには通い続けた。単位も特に問題なく取り続け、余裕が出てきたので、アルバイトを始めたりもした。普通の大学生活って、きっとこんな感じなのだろうな、と思った。高校の部活を真面目にやってきたということもあってか、サークルでは気心が知れる友達も何人かでき、時間が流れていくのが速く感じた。そういったある意味淡白な大学生活を淡々と送っていると、いつの間にかそんな大学生活にも終わりが近づいてきた。
ある日、山田から連絡が来た。どうも水野と結婚することにしたらしい。結婚式に参加してくれないか、とのことだった。水野にとっては学生結婚であったし、凄い決断だな、と思った。親友からの招待ということもあったのでもちろん承諾した。
結婚式の日になり、結婚式場に向かうと、テーブルに自分の席が用意されていた。一つ隣のテーブルの席が空いていたので、もしかしたら川野さんも招待されていて、来るのではないかと思い、少し期待しつつ待っていると、水野の大学での友人たちだろうか、同い年ぐらいの女の子たち三人がグループでやってきて、三人ともそのテーブルに用意されていた席にそれぞれ腰かけた。
式も半ばになり、山田から、友人代表のスピーチを頼まれていたので、スピーチを行った。話している途中、思わず足が震えた。親友が結婚したという嬉しさもあったが、親友は自分よりも遥か先を行っているのではないかという悔しさも少しあったと思う。震えを悟られないよう必死でこらえながら、ばれていやしまいかと山田の方をちらりと見たが、山田は高校のころと同じような優しい表情でこちらを見ていた。水野は、前を向き少し下の方を見ながら聞いていた。心なしか足の震えが止まったような気がした。多分山田には足が震えていたことがばれていたと思う。
式が終わり、山田に、
「二次会に来ないか」
と誘われたが、
「ごめん、予定があるから」
と断ってしまった。本当は予定なんてなかったし、そのこともばれていたと思うが、山田は、
「そうか、残りの大学生活頑張れよ。お前も、就職してからは大変だと思うけど、お互い頑張ろうな」
と言って水野たちと共に二次会へと向かっていった。俺は、その後ろ姿を少し見たあと、帰るために電車の駅へと向かった。
帰りの電車の中で、山田の結婚式を振り返り、はたして自分も結婚できるのだろうか、などと思った。その前に、まずは就職活動を進めていかないといけないな、と思った。入りたい業界についてはなんとなく決めていた。大学の選択科目でプログラミングをかじってから興味を持ち、エンジニアを目指そうと考えていた。エンジニアを目指すため、教材などを使って個人的にも密かに勉強を始めていたのだ。
その甲斐があってか、大学生活に戻ってからも就職活動はスムーズに進み、無事IT企業から内定を貰うことができた。都内で受託開発を行っている会社だ。ほかの企業から頼まれたものを請け負い、それを開発することがメインの会社らしい。
大学を無事卒業し、俺はその会社に就職をした。会社では、プロジェクトリーダーの桑山さんという人から主に仕事について教わることとなった。現場をまとめるだけでなく、自身もエンジニアとしてかなりの腕があるらしく、プログラミングについてもいろいろと教えてもらえるとのことだった。
桑山さんはよく喋るタイプの人ではなかったので、業務が始まってからも実際には、プログラミングについて自分で検索をして勉強することが多かった。ほかにも、結局のところできるプログラマーの先輩に質問することが多かった。その代わりに、桑山さんにはよく飲みに連れていってもらったり、ゴルフの打ちっぱなしに連れていってもらったりもした。
ゴルフはやったことがなかったのだが、打ちっぱなしに連れていってもらった際には桑山さんの見よう見まねでクラブを持ちスイングをした。ほとんどかすったり詰まったりではあったが、それを見ても桑山さんは軽く笑うだけで、あまりバカにされたりすることもなかった。
桑山さんはヘビースモーカーであったのか、業務中もちょくちょく席を立ち、たばこを吸いに外に出かけていく際に何度か、
「君も吸うかい?」
と尋ねられたが、昔から喫煙はしないことに決めていたのでそのたびに断っていた。
割とカジュアルな会社だったので、業務中は、社員は主に私服で作業しており、割とだらしのない格好で作業している人もいたものだが、普段は私服の桑山さんも、たまにスーツを着て客先に出向くことがあり、そんな姿を見ると、普段と比べてとても輝いて見えた。
会社に入社してから一年がたとうとしていたころ、プログラミングも上達してきて業務にも少し自信がついてきた中、桑山さんが転職することになったという話を聞いた。詳しいことは知らなかったが、家族思いなところがあったので、家族の都合なのではないかな、と予想している。
そうこうしているうちに、桑山さんの出社最終日を迎えた。午後、いつもどおりに作業をしていると、桑山さんに突然声をかけられた。
「君はこの仕事に、向いていないと思うよ」
自分ではプログラミングも上達してきたと思っていたし、業務もある程度こなせるようになってきたと思っていたので、そういう風に言われたのは意外だった。引き継ぎ作業がひととおり終わり疲れていたのか、それとも作業しているところを見ていて普段からそういう風に思っていたのだろうか、それを聞いて思わず、
「なんでそんなこと言うんですか」
と言いそうになったが、桑山さんにはお世話になっていたこともあり、いつも優しく接してもらっていたので、
「えっ?」
というよくわからない反応をしてしまった。
それを見た桑山さんも、何も言わずに自分のパソコンに目を戻していた。
一日の業務が終わり、桑山さんは最後に、
「それじゃあね。俺が抜けてからも、頑張れよ」
と言い残し、席を立ったのを見て俺も、
「はい」
と返事をし、桑山さんがほかの社員たちに声をかけて回り会社をあとにするのをぼんやりと見届けたあと、残っていた作業の続きをするために少し残業しようと、パソコンに目を戻した。
会社では、プログラミングや新しい技術について日々学びながら作業をし、たまに失敗して怒られたりもしながら、結局新卒で入ったその会社を三年間勤めたあと、俺はSESという契約形態の会社に転職することにした。エンジニアとして客先の会社に常駐をして働くことが主な仕事となるらしい。こちらの働き方のほうが自分に合っているのかもしれないな、と思った。
転職先が決まったあと、山田に誘われて社会人のフットサルサークルに参加することになった。試合に出る際は、主にキーパーとして出場することにした。キーパーとして試合に出場していた週末のある日、ゴール前に立ち、ぼんやりと試合を見ていると、山田が先制のシュートを決めた。
「何つまらなさそうな顔して見てんのよ。友達がシュート決めたのよ。笑いなよ」
守備専門のポジションなのか、前に立っていた女の子が話しかけてきた。
「君だって、何もしていなかっただろ?」
「まあそうだけど」
そう言って彼女は笑っていた。笑顔の可愛い女の子だな、と思った。
試合が終わり、帰る途中、駅に向かって歩いているとき、試合中に話しかけてきた女の子のことを思い出していた。これから仲よくなれそうな気がした。
ぼんやりと歩いていると、駅が近づいてきた所で、誰かに声をかけられた。
「太田くん?」
突然話しかけられたのと、大人になり容姿が少し変わっていたので気がつかなかったが、見覚えのある顔だった。川野さんだった。
「川野さん? ひさしぶりだね。日本に、帰ってきたの?」
「ええ、先週にね。ひさしぶりに会えて、嬉しいわ」
ひさびさの再開に、感傷に浸っていると駅から外国人の男の人が手を振りながらこちらに向かってきた。それに気がついたのか、川野さんもその人の方を向きながら笑顔で手を振り返していた。
「あの男の人は、誰?」
「ジェームズよ。もうすぐ、結婚するの」
「はっ!?」
驚きのあまり、よくわからない声が出た。
「彼、日本語を話せるの」
「こんにちは。私の名前は、ジェームズです」
川野さんの隣までやってきた彼は、俺が川野さんの友達であると察したのか、握手しようと手を差し伸べてきたので、俺はそれに応じた。細身だったが握力が強かった。
ジェームズに、
「この人は?」
と聞かれたのに対し川野さんは、
「太田くんよ。高校のころの友達なの」
と説明していた。それに対し彼は、
「オーケイ」
とすぐに納得していた。突然のことであったのと、外国人と話すことがあまりなかったので、取りあえず、
「ナイストゥミーチュー」
と教科書英語で彼に対応した。
「川野さんは、これから日本で暮らすの?」
「ううん、日本には、彼と観光に来ただけなの。二週間ほど過ごしたら、カナダに帰るつもりよ。そこで暮らしていくつもりなの」
「そうなんだ。あはは。俺、もう行かなきゃなんだ。ひさしぶりに会えてよかったよ。日本、楽しんでいってね」
「ありがとう。私も、ひさびさに会えてよかったわ。元気でね。またね」
去り際に川野さんの顔を見ると、昔と変わらない優しい笑顔をしていた。ジェームズにも、
「シーユー」
と声をかけると、彼も、
「グッバイ」
と返してきたので、俺は早足で駅に向かった。もちろん急いで帰らないといけない理由などなかった。
電車に乗り込み、ぼんやりと窓の外を見ていると、東京スカイツリーが見えた。ジェームズとはどのように知り合ったのだろう、などと思ったが聞かないまま逃げるように電車に乗り込んでしまった。川野さんが結婚してしまうのだという事実にショックを受けていたのだ。
電車を降り、駅から出て、預けていた自転車に乗り、家へと向かった。帰る途中、日が暮れかけていて空が綺麗だったので、家の近くの川沿いで自転車を降り、押しながら帰ることにした。歩いている途中少し足がふらついた。
家に帰り、洗面所で手を洗うときに思わず泣いてしまった。涙がとめどなく溢れてきた。川野さんは、俺のことを初めて認めてくれた女の子だったんだ。
洗面所から出て荷物を床に放り投げたあと、俺はベッドに倒れこんだ。泣きながら、震えた声で、
「あ、り、が、と、う」
と呟いていた。少し落ち着いてから横になり、窓の方を見ると、カーテンの隙間から、光が差し込んでいた。