【小説】捨て忘れた色 「回生」
「捨て忘れた色」ベースシナリオのどこかに入る物語です。
回生
目覚めると、目の前に生き物の気配があった。ぼやけた視界から現れたのは小さく寝息を立てている女性である。私の左腕を枕に寝ている顔には黒髪が幾筋かのラインを描いており、彫刻のようにも見えた。
化粧気のない顔には不安のかけらもなく、規則正しく呼吸をしている。小麦色か、むしろ茶色に近い健康的な頬は白い枕に映え、穏やかな夢を連想させた。寝起きの良くない私でも、覚えず口元が緩んだ。
私はこの女性を知らない。
少し頭が回り始めるのを感じながら腕を引き抜くと、彼女は顔を天井に向けて頭を枕に沈め、一瞬呼吸を乱したが、閉じられた目から長く真っ直ぐに突き出た睫は微動だにしない。頭の位置が落ち着くとまた規則正しい呼吸を続けた。
枕元に置いてあるメガネを取ろうとゆっくりと上半身を起こすと、彼女を隠していた布団がはだけ、そこに小さく膨らんだ右の乳房が顔を出した。首筋から胸にかけてのラインにも緊張がなく、安心しきった眠りに見える。
そのラインを横目に、壁にかかった時計がまだ7時過ぎを指していることを確認すると、普段と異なる状況を自覚し始め、布団をそっと全て剥ぎ取ってみた。
仰向けに横たわっていた彼女の全裸が白いシーツに浮かび上がる。。彼女の肌はカーテン越しの柔らかな朝日に晒された、、という受け身の材質ではなく、茶褐色が滲み出るように輝いている。その肢体には一房の緩みも斑もなく、朝の光を反射する凸部は一箇所の直線をも許さず曲線を描き、また凹部の影すら光を放っている。その肉体が作り出す陰影は、禅寺の庭園のような整いを見せている。
このような状況でその裸体を見ても、私は「この女性を抱いていない」自信があった。自分はいつもと同じようにTシャツとトランクスの姿である。昨夜は帰ってきてからビールを1缶飲んだ。しかし、酔った挙げ句に意識を失くすこともなければ、見ず知らずの女性と寝ることなどは一度もなかった。そして何より、昨夜は一人でベッドに入り、意識がなくなる瞬間まで完全に記憶していた。
私は半身を起こしたまま、しばらくその落ち着いた寝顔を見ていたが、軽く息を吐き、ベッドを降りた。その程度のベッドの揺れでは目を覚ましそうに無い。彼女の方に向かって1つ背伸びをして、再度その裸体に目を落とした。
ベッドの上でまっすぐに横たわっている裸体は、生々しい生気を放っているにも関わらず、肉欲をかきたてる要素は微塵もない。何か刺激を与えると、滞留しているエネルギーが爆発するような、もしくは獰猛な小動物が飛び出しそうな静けさを持っている。
、、覚えず、チェストの上の煙草を手に取った。私が煙草を吸うのは、何かしらアンバランスが生じた時だけである。そんな時はいつも煙草を吸いながら、自覚した不整合の理由を判定することにしている。
朝起きて身支度もせぬまま煙草を吸うのは、随分久しぶりのことだ。
ライターで火を点け、最初の一煙を小さく吐いた。煙草を持つ指が唇に触れた時、微かに震えているのを感じて、指先を見つめ直した。
「怯えている・・・?」
思わず口に出そうになる言葉を呑み込み、時計を見た。いつもと同じ起床時間である。二口程吸った煙草を灰皿に押し潰し、煙をゆっくり吐き出してベッドに腰掛けた。彼女はまだ動かない。動かないものを相手にするのが、一番面倒なことである。
おそらく、彼女を起こさなければ何も始まらない。起こすには刺激を与えなければならない。彼女の五感のうち最も敏感な感覚に対して刺激を与えるのが一般的である。
特にあれこれと考えず、事務的に処理するのがいいだろう。なるべく慣れないことはしない、に越したことはない。
まず、、いつも朝起きた時と同じように電気をつけてみた。
茶褐色の肌が反射する光が、窓越しの朝日から蛍光灯に変わっただけで、ぴくりとも動かない。表情も穏やかなままである。
彼女に関して何の情報もない今、
...触れる...
それが最も適しているように思われた。
...いつしかも同じような状況で、同じような覚悟をしたような。。。
私はゆっくりと右手を差し出し、彼女の頬を一部隠している黒髪をほどきながら、その耳元を撫でた。まぶたが少し震えた。髪から、頬をつたって首筋まで手を滑らせてみた。彼女の肌は温かかったが、摩擦などまるで無かった。しかし、それで用は足りたようだ。
褐色に輝く彼女は少し身震いをすると、ようやく重そうなまぶたをじっくりと持ち上げた。邪魔であろう長い睫を私に向かって伸ばしたかと思うと、その下に現れた大きな瞳を私の顔に向けた。焦点が私の目に合うと、体はまるで動かさずに、にこりと微笑んだ。黒々と濡れた瞳には、私の顔だけが浮かび上がっている。
私は彼女が驚くことを想定し、願ってもいた。その彼女が驚かない以上、驚くべきは私ということになる。しかし私には元来、驚く術がない。
私は常に、この世の大凡のことを受け入れる準備が出来ていた。今不思議に思っているのは物理的な問題だけである。いつ、どのようにしてこのベッドに入ったのか、ただそれだけであった。しかしそれすら、科学の虜でもない私を驚かせるには至らなかった。
彼女はひたすら私を見上げたまま、微笑みかけた。私も微かに笑みを返し続けた。彼女はその美麗な目で、茶褐色の頬に浮かぶ笑窪で、少し開かれた薄い唇で私を魅了しようとしていた。それに対して私は警戒をしている。自分の理解できないものを近くに寄せることは、はなはだ危険である。
早く彼女が何か喋るなりして、安心させてくれることを願ったが、彼女は何もことを起こす様子がない。もしや彼女は私とコミュニケーションがとれないのではないか、と不安になり、つい私の方が口を開いた。
「君は誰だい…?」
私は低い穏やかな声を出した、、つもりである。彼女はその言葉をすんなりと言葉として受け取ったらしいが、首をゆっくり縦に振り、一度まばたきをした。彼女のまばたきは目を閉じているかと思わせるほどに時間をかけ、それだけの動きにも密かな優雅を纏わせた。
「...り..ん.だ...」
そう聞こえた。
それを口から出すのに、彼女は唇だけを動かし、表情は全く変えなかった。その笑窪さえも微かに揺れただけである。開いた口が閉じる頃にようやくまぶたが開き、落ち着いたか、、と思うとその眼差しは私の目に据え付けられていた。
こちらの言葉が伝わっているとすると、おそらくは彼女の名前なのだろう。「リンダ」であれば、あまり日本では多くはないながらも、名前として聞いたことはあるし、その程度の疑問は今の私にとって全く問題とはならない。
「どうやってこの部屋に入ったんだい?鍵が掛かっていただろう?」
次のまばたきが終わるのを待って、また穏やかに言ったつもりであるが、彼女は薄い唇をぴたりと合わせたまま、笑窪の影を大きくさせると首を横に振った。私は意図的に苦笑いをし、困ったことを伝えた。
「どうしてここに来たのかな?」
彼女はまた優雅なまばたきを見せつけた後、目を一段と大きくして、唇を開いて音を出す用意をした。
「あなたを…、産んでみたの…」
その音を出し終えると、彼女は優雅に上半身を起こした。その小さな乳房は一瞬震え、すぐに横たわっていた時と同じ形に戻った。彼女は自分の全裸が光の下に露になっているのに、全く意を介さない風であった。
彼女が発したいくつかの言葉に、少し安心した。意味が理解できるかどうかではなく、少なくとも私と理解し合おうという影は伺えたからである。
「服…着たら?」
尋ねながら、ベッドの周りを探したが、何一つ衣類は落ちていない。彼女はそんな私を見ながら首を傾げているだけである。
振り向いた私にまたもや笑みを送り、自分の右手を目の前にかざして、その五本の指を親指から順番に動かし、それを眺めていた。
記憶喪失にでもなったのではないか、と一瞬思ったが、それにしては何もかもを覚えている風で、記憶をなくした不安の欠片も見えない。単におかしな子、と決め付けるには情報が少なすぎるし、おかしすぎる。
「家に、帰る…?」
また意図的に少し心配そうな顔を見せ、椅子に掛けてあった上着を彼女の肩にかけた。彼女はされるままにしていたが、その上着で胸を隠すこともしなかった。そして急に両手を上に突き上げて私を見上げた。上着が軽やかに滑り落ち、私は彼女の言葉を待った。
「ここにいるの…」
またもや鈴を転がすような声を出すと、意図せず笑窪を深めた。
これは、、おそらく「家」という概念すら持っていない。なんとも厄介なことになる…、と思ったが、私は今日も仕事があったから、着替えを持ってバスルームに入った。自分が着替えるのを彼女に見せないことが、どれほどの意味を持つのか分からないが、少なくとも今までの私はこうしてきたし、私の中の一般論として、それが最も安全で健全であった。
この時点では、彼女が私をリードしていることは否めない。私があたふたしている間、彼女は私であったり、この部屋であったり、今の状況であったり、、どれか一つでも理解したい、、、とは思っていない。
バスルームの鏡の前で着替えながら、彼女を常識の範囲で理解できるものとして考えようとしてみた。
今、ベッドの上にいる女性は、今までに見た人間とは明らかに違っている。違っているが、それ以上のものではない。
しかし…、自分の体を全く念頭に置かない女性を私は知らなかった。朝の光の中で裸体を隠さない女性は何人か知っている。それはよほど自信を持った女性か、私との関係がもはや何を隠す必要もないほど深い、という錯覚に落ちた女性か、、または羞恥心を意図的に捨てた女性であった。しかし、どの女性も、自分の肉体を意識していた。
肉体を誇示しているか、肉体で二人の関係を示そうとするか、または肉体を隠さないことが自分の精神的成熟であると誇示するか。。
いずれにしろ、全員肉体は意識にあった。実際、私自身もその一味である。
今、目の前に存在する女性の容姿は、相当に美しい。少なくとも世間の人間は美しいとする容姿だと思われる。そういう女性が自らの肉体を全く意識していない。それは今までの経験にもなかったことであり、多少の不安は禁じ得なかった。
それでも、ありとあらゆる人間を理解できるものとして分析し、咀嚼してきた。自らを鏡として、不可思議なものは都度一掃してきた。
結果、私は何者をも愛さない。
その副産物として何者をも憎まない。
それを自覚した上で、今回も彼女を分類する覚悟と自信はある。
身支度を整えると、バスルームを出て再びベッドルームに足を運んだ。彼女はさっきと同じ姿勢でベッドの上にいた。まだ全裸のままで窓を眺めている。カーテン越しの後光を浴びたその肌は、周りの様々な光を跳ね返し、この褐色こそ三原色の1つを担うのではないか、、というほどの存在感を放っている。
私は自然と彼女の隣に腰をかけた。彼女は私をまっすぐにみて、一度大きく開いた目を、わざわざ細めた。
「まだ、眠いかい?」
彼女は顔を横に振った。
「まだここにいるかい?」
彼女はゆっくりとうなずき、私もそれにうなずいた。
「私が伝わっているのね…」
その目はうっすらと潤んでいる。私は彼女の肩を軽くトントンと叩くと、再びうなずいた。彼女の肩は、か細いにも関わらず、骨がないかのように弾力を持っていた。それでいて、手を離した瞬間には全ての圧力を弾き飛ばし、まるで何もなかったかのように褐色を見せつけていた。
「部屋のものは好きに使っていいから、、」
彼女の生態が分からない以上、部屋を出て行け、、とも、部屋にいろ、、とも言えず、それくらいしか私側の選択肢はなかった。彼女はそれが聞こえたのか通じたのかどうか、特に表情にも反応を見せず、また窓の方に目をやった。
いつも通り壁にかけてあった出社用の鞄を片手に持つと、ルーチンワークとして同じく壁にかかったブレスレットを右手に巻き、机の上の腕時計を左手にからめた。そして、ルーチンワークにはない彼女に気づき、少し陰鬱な笑顔を与えて部屋を出た。
私はどのような表情も目の前の女性に対しては無意味であることにうすうす気づいていた。。にもかかわらず、肉体はその笑顔を作った。この女性に、肉体が何か異質なものを感じているのだろうか…。
もちろん私もそれを感じていたが、先ほどの指先の震えといい、肉体が反応するなどということは、ここしばらくの記憶にないことである。私は考えることを止めた。所詮、私の考えることは全て肉体に筒抜けなのだ。
玄関で靴を履き、ドアを開けて外を確かめ、再び振り返った。もう玄関からその女性は見えない。
「いってきます...」
彼女にも聞こえはしないだろうが、小さく呟いて外に出ると、いつも通りドアに鍵をかけた、、、が、もはや鍵などあまり意味をなさないことに気づき、もう一本煙草が吸いたくなった。
天気もよく、春先の風が吹き抜けている。バス停までいつも通りの歩幅、目線で歩き、バス停につくと腕時計を確かめ、バスを待った。
ここまで徒歩5分、そしてバスで14分程の所に会社はある。私が今の会社に入ったのは、この通勤の便利さが理由の一つである。8時に部屋を出れば、遅くとも8時30分にはデスクにつくことができる。
今朝も私がいつもと同じ、8時25分に感覚課の部屋に入ると、課長以外は全員揃っていた。誰に向かってでもなく挨拶をすると皆、目も向けず口々に挨拶を返してくれる。今日もその眠そうな声を頭に響かせながら自分のデスクに着いた。
「顔色が冴えないですね…、何かありました?」
、、突然に横から声をかけてきたのは、鈴木恵梨香という私の3ヶ月くらい後輩の女性である。背中まで流した長めの黒髪、ほっそりと色白の顔、しっかりと引かれた真赤な口紅は表情を隠すかのように濃い。
まだ若い、、と思われるが濃いめの化粧で愛想良く微笑んでいる彼女は、実は私と同じアパートの隣に住んでいるご近所さんでもある。
それでいて、出勤は同じにはならない、、と言うより、彼女が入社してすぐの頃に同じになったことがあってから、お互い気を遣わないよう、出退勤の時間はずらすことで合意していた。
斜め前のデスクからいたずらっぽく頬杖をついて、私に含み笑いを投げかけている。。が、これもいつものオフィスの眺めである。
彼女にちらりと流し目をくれ、背もたれに任せて大きく伸びをした。
「疲れてるようですね」
「心配もしてないくせに…」
言いながら立ち上がり、、恵梨香の肩を軽くトントンと叩いた。
「それじゃあ、暗室へ行ってきますから、課長によろしく」
誰に対してでもなく宣言すると、首を回した。肩が凝っているのが少し癪に障る。暗室に向かって歩き始めて一瞬振り返ると、それを待っていたように恵梨香が軽く手を振った。。それもまた日常風景である。
私の勤める会社はその事業内容が一風変わっている、らしい。。。何か目に見えるものを生産するわけではない。サービスを提供するわけでもない。
...妄想すること...
自体が私の仕事だとでも言おうか。正直なところ、私自身もこの会社がどうやって成り立っているのか、社会に何を提供しているのか理解していないし、あまり知ろうとも思っていない。「生計を立てる」ことに精一杯の私は、自分にできることで幾許かのお金が頂ける、、というだけで十分意味のある会社だった。
この会社の暗室とはオフィスの一角に建てられたシェルターのような部屋で、窓もなく、おそらく防音、遮光の施しがされたスペースである。暗室の入口の前には警備員が立っており、鍵の開け閉めをしてくれる。
警備員の前まで行くと、いつも通り丁寧にお辞儀をしてくれたので、私もいつも通りお辞儀をした。
「本日は『世界の全てが分かる図書館』となっています」
「承知しました」
警備員からその日のテーマを伺って暗室に入ると、ドアが閉じられる。この時点で外界の音はほぼ聞こえなくなり、気圧の関係か耳の奥に...ツー...と波が流れるようになる。
天井には裸電球がぶら下がっており、明るくはないがある程度の様子は見える。暗室らしく、床、壁、天井が黒く塗られている。7、8畳くらいのスペースの中心に飲み物が置ける程度のカフェテーブルがあり、入口を背にして三人がけのソファがある。全てシックに黒で統一されていて、他に家具はない。
テーブルに置かれた、1つボタンのリモコンが唯一白く浮かんでいる。
いつものようにソファに腰をかけるとリモコンに手をかけ、一度深呼吸をしてボタンを押した。
同時に電気が消え、文字通り暗室になる。
。。。
ここから、今日のテーマをベースに妄想を始める。
。。。
はずであったのだが、今日、まず最初に脳裏に浮かんだのは、光沢を放つ褐色の肌であった。
『あなたを、産んでみた…』だと、、、?
この時になって、急に今朝の出来事や交わした言葉が現実的な波となって襲いかかってきた。
私は覚えずもう一度ボタンを押した。
電気が点き、ドアが開かれて警備員の方が入ってきた。
「大丈夫ですか?」
私がこのような短時間で二度目のボタンを押すことは珍しいことなので、心配をしてくれたらしいが、その言葉を聞いて私は随分と安心した。
「すみません、、もう一度やり直しさせてもらえますか。。」
「もちろん、問題ないです」
ほどなく、ドアは再び閉められて静寂な空間となった。
今朝もこれくらい、お互いに気を遣った会話がしたかった。。
そんなことを思いながら、一度肺の空気を吐き切り、少し息を止めてからもう一度白いボタンを押した。