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インターネットがなかった時代の感情
「最近の若い者は‥‥‥。」
いわゆるジェネレーションギャップといわれるもので、言われたこともあるし、思ったこともあるとおもう。
古代エジプトの象形文字にもそう彫られていたらしく、人って変わらないなぁ〜というエピソードの1つなのだけど、このジェネレーションギャップがうまれるのは、そのときの社会や社会を保つための決まりや道具が絶えず変わり続けていて、15年も経つと考え方や道具そのものが変わって、そこで味わう体験と感情も変わる。
体験と感情、つまり記憶こそがコミュニケーションの根なのだけど、前提を「同じを共有したい」と思ってコミュニケーションし始めた時にジェネレーションギャップは発生するのだと思う。
昨今だと工業化が進んで、新製品を絶えず生み出すのが宿命になったこともあり、道具の変化が早い。
音楽に関して言えば、蓄音機、レコードと生まれ、大衆はラジオで流れてくる曲を聴いていたものが、カセットが出て、録音も可能になり、CD→DAT→MD→MP3→iPod(大まかです)等々、「音楽を聴く」ということに関してだけでも、これだけ変化していて、聴くという体験やそれを通した感情もまたこの分だけ変化している。
そして昨今はこのジェネレーションギャップが5年の歳の差でもハッキリと出てくるようになった。
なぜか?
要因はインターネットの登場とテクノロジーの進化だ。
今後もこの変化のスピードは緩むどころか加速していくだろう。
だからこそ不変なもの、本質的なものの価値は今以上に高くなっていくはずだ。
この話しを書いたのは、「ローマの休日」(あらすじはググってください)を観たときに、インターネットで形が変わった、あるいは薄れた?感情を、強く描いていて、僕にジェネレーションギャップって何で起こるのかを考えさせるきっかけになったシーンがあったからだ。
そのシーンはラストシーン。
王女であることを知らずにオードリーヘップバーンと過ごしていた新聞記者グレゴリーペックは記者会見の場で再会する。
好意はありながら、住む世界の違いからか、街中の時間とはまた重みの違う時間が二人に流れる。
そして記者会見の終わりは二人の永久の別れ。
王女が去ったあともペックは記者会見場から立ち去らず、その映像を焼き付けているような描写で物語は終わる。
記憶に残したい、忘れたくない、また会いたい。
写メもGoogleもFacebookもInstagramもない時代。
あとで友達申請して、メッセージ送ろう、とできない時代の感情が胸を打つラストシーンだった。
けど、今の僕らはこの感情は感じないだろうか?
そんなことはない。
むしろ写メもGoogleもFacebookもInstagramも記憶に残すための、忘れないための、また会うための発明、装置だと思う。
だからこそこれらの発明は僕たちの生活に根付いているし、ローマの休日も今なお愛されている。
なので話しを戻すと、多くのジェネレーションギャップは、手段や方法、効率が表面的に変化しただけで、人が求める本質的な部分は大きくは変化していない。
なので話しをしている時にジェネレーションギャップを感じた場合は、人が耐えず変え続けている、人が変われない、大切なものの話しをしているのだと思うと、人類万歳という気分にならないだろうか、という花金の朝の提案でございました。
どうぞ皆様、楽しい花金をお過ごしくださいませ。