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レ・ミゼラブル
レ・ミゼラブル
今回から最初にまとめを。
その後、詳しい感想を、にした。
まとめのところを読むだけで、何倍も作品を楽しめるように書いた。
【感想・まとめ】
時間のない方はこちらだけで大丈夫。
レミゼは、原作が時の洗練を受けているだけに、普遍的なテーマがあると思って観ていた。
そのテーマは、『愛とは何か?』
であり、レミゼの答えは、人を許し、寛容で、人の為に生きることが愛であるが、それは難しい。
だが、人は変わっていける。
というのがレミゼからのメッセージのように感じた。
主人公ジャンバルジャンの物語の数多ある決断の際に、彼が誰の為にその決断をしたかを気にしながら観ると、作品を楽しめると思う。
【本文・感想】
原題 Les Misérables は、「悲惨な人々」「哀れな人々」を意味する。
1本のパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンの生涯を描く作品である。作品中ではナポレオン1世没落直後の1815年から、ルイ18世・シャルル10世の復古王政時代を経て、七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の最中の1833年までの18年間を描いている。
とWikipediaに載っていた。
今回観た映画は、主演ヒュージャックマンのバージョンで、ファンタスティックビーストのニュート役のエディ・レッドメインも出演している。
映画、ミュージカル、舞台など様々な表現で幾度となく上映される名作中の名作。
原作が時の洗練を受けた作品だけに、今回この映画を観ながら一番思っていたのは、レ・ミゼラブルはなぜ世界中の人の心を打つのか?
ということだ。
もちろんそれは土地の慣習や法律、時代に左右されない、人が生きるなかで変わらないものが物語の中に散りばめられているからなのだと思うが、レミゼラブルの場合はそれは何だろうか?
と。
僕は、『愛とは何か?』であると感じた。
そしてレミゼラブルの答えは、慈悲を持ち、許して、まず与えなさい。
そして選択に迷った時は、人のための方を選ぶ。
まるで宗教の教えのような文章だが、宗教こそ最も普遍的で、最も長く、人類が伝え残してきた物語なわけだから、本質が刻みこまれているとも言える。
3つ印象に残ったシーンがあるので、そこでどう感じたのか書いていきたい。
男の名はジャン・ヴァルジャン。貧困に耐え切れず、たった1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していた。行く先々で冷遇された彼を、司教は温かく迎え入れる。しかし、その夜、大切にしていた銀の食器をヴァルジャンに盗まれてしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えたもの」だと告げて彼を放免させたうえに、2本の銀の燭台をも彼に差し出す。それまで人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。
とWikipediaにもあり、物語中では妹の子供のためにパンを盗んでいる。
もちろん手段は良くないが、誰かの為を思った行動ではあった。
それが法の元では良くないとされ、服役中、出所後も様々な場所で冷遇を受ける。
人は受けたものしか与えられず、無くなれば人のそれを奪うしかない。
しかし司祭様の、慈悲と愛に触れ、与えられたものを、かつて自分が持っていた誰かのために、という行いと心を思いだし、再出発をする。
この作品のもう1つの強いメッセージ、「人は変われる。」がこのシーンに込められているようにも思えた。
2つ目のシーンは、上記の数年後、バルジャンが社会で認められ、市長になり、工場も運営している立場になっている頃の話し。
フォンテーヌという元々自分の工場で働いていた女性が工場内のいざこざでバルジャンの知らぬところで職を失い、娘のために身を削って生きていて役人とトラブルになったところをバルジャンが出会い、真実を知り、救うも時遅く、フォンテーヌは亡くなってしまうが、娘 コゼットを任されたバルジャンは、コゼットと乗る馬車で自分を心の底から信頼してくれているコゼットを見て、恋愛を経験せずに生きてきたバルジャンには守るものが、信頼してくれる人が出来たことが、世界の色が変わって見える、この世界は素晴らしいと歌うバルジャンの姿が、ここまでの不遇を知る観客としては胸を打つシーンではないかと思う。
人のために生きる、人に頼られる機会が人の幸福の根っこにあるのだな、と感じられるシーンであった。
3つ目は、ジャベールという警官とバルジャンのシーン、並びにジャベールが橋から見投げするシーン。
ジャベールは乱暴に分かりやすく言うと、銭形警部だ。
ただ法に絶対の忠誠を近い、乱すものを許さない固く冷たい感じは、寛容な銭形警部とは違う点である。
しかしその頑な姿勢は彼の出自に影響していて、バルジャンが投獄されていた刑務所の囚人である両親に持ち、囚人の子として生まれ育ったのが、ジャベールである。
であるからこそ、ジャベールは法の、正義の番人となり、法を乱すものを忌み嫌ったのかもしれない。
法を乱すものを忌み嫌った大衆の冷遇を子の段階で受けていたから。
バルジャンは仮出所から姿を眩まし、別人となって、社会で認められる。
ジャベールはそのバルジャンを追い続ける。
人は変われないとするジャベールと、人は変われるとするバルジャンの対比がうまく作品に生きている。
バルジャンから見れば、逃れられぬ罪を具現化した存在のジャベールは疎ましいはず。
学生革命の最中、ジャベールは革命側に潜入するが、警官だとバレて捕まり、その処刑をバルジャンが執り行うことになる。
バルジャンからすれば、過去の自分を知る人間を、抹殺できるチャンスだが、ジャベールを逃がす。
君を恨んではいない、と。
ジャベールは一人、与えられた慈悲と愛に困惑する。
そして自分が拠り所にしていた法に対しても完全なものではないのかもしれない、と。
法に従うことで自分を守ってきた、自分の為に生きてきたジャベールにとって、人の為には時には法も破り生きるバルジャンは、憧れと嫉妬を同時に感じる存在で、だからこそ認めたくなかったのかもしれない。
ジャベールはこのあと橋から見投げしてしまう。
自分の為に生きてきたジャベールと人の為に生きようと決めたバルジャンの対比がまたここに出ていて記憶に残った。
他にもたくさんの印象に残ったシーンがあり、素晴らしい映画だったが、このような長文になったことからも分かるように、良い物語は人物や関係性が数珠繋ぎに絡みあっていて、現実世界の各々違う人間達がそれぞれの思惑で生きながら、それでも絡み合う現実の偶然性と関係性を濃く味わうなら現実だが、物語の中なら客観的に神のように味わうことができる。
それも安全に。
パスカルは、人の不幸は部屋の中でじっとしていられないことだと書いていたが、客観的に神のように物語を味わうことができる、その形は小説や映画には最早留まらず、技術の進歩により、外出せずとも人は物語に、コンテンツに、人生に触れられるようになった。
実際の外出は、現実の出会いは必要ないくらいに。
だが、人は出かけてしまう。
なぜか?
人は、愛されたいのだ。
頼られる機会を、人の為に生きる機会が欲しいのではないかと思う。
自分の為のみに生きるには人生は長すぎる。
そのようなことをレミゼラブルから学んだように思う。
いつの日か本場のレミゼラブルのミュージカルも観劇したい気持ちになった。
こんなに長い文章を最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
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