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くちづけ

5/6 Netfliex
きっかけ 友人のオススメ

物語の感想を書いていてこんなことを書くのは変だが、おもしろい時は「とにかく観てくれ、話しはそれからだ。」と薦めるのが効果的な1つの方法だと思っているがこの映画はそのタイプの映画である。

そしてそう薦めるもう1つの理由は、この映画が、人対人、家族、施設、街、社会、というすべてのコミュニティ単位に課題を投げかけ、あなたはどうですか?と最後に個人に問いかける映画であるというのが大きい。

今回はあらすじも正確に伝えたいので、
映画のあらすじhttp://www.kuchizuke-movie.com/sp/about/

舞台のあらすじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%A1%E3%81%A5%E3%81%91_(%E5%8A%87%E4%BD%9C%E5%93%81)

を参考に。

グループホームで働くことになった元漫画家の主人公と知的障碍を持つ娘がホームのみんなと、街と、社会と織り成すヒューマンドラマである。

僕が一番強く感じたのは、人を苦しめるのは、自分と他人の「思い込み」とそのズレではないかと感じた。

主人公は自分が余命いくばくもないことを知り、ホームレスの方の何割かは知的障碍の方である。や、警察に尋問された時にやっていません、と主張を貫き通せず収監されてしまう障碍者の方もいる。
だから今の社会で知的障碍の方が1人で生きていくのはとても困難である、というような情報を聞いて思い悩んでしまう。

そしてそんな頃、ホームも閉鎖を余儀なくされる。

しかし映画を観ているものからしたら主人公には多くの味方がいるように感じる。

私の今の身体の状態はとても悪く、長く生きられるかわからない。
だが私には気がかりがある、娘のことです。
本当に申し訳ないのだが、私がこの世からいなくなったあと、1人になった娘のことを気にかけてやって欲しいのです。

もちろん抵抗のあるお願いだし、言いにくい。
苦労も迷惑もかけてしまう。
だが主人公が最後に時間を共にした人たちはこの願いを鬱陶しいと退けるだろうか?
僕はそうは思わない。

では主人公はなぜ物語の中で誰にも気持ちを話せず、誰にも助けを求めることができなかったのか?

それは主人公(漫画家だが作品は思うように描けていない)と娘が社会に対して何か役に立っている訳ではなく、むしろ迷惑をかけて助けてもらっているという劣等感のような感覚に起因している。

つまり何かを提供しなければ何かをしてもらうのは心苦しいという思い込みが原因なのだ。
何かをしたからそこに居て良いというわけではなく、まず居て良いという安心感から、では何がしたいかが本来の順番なはずだし、何もしなくても良いという選択肢の確保ももちろん重要だ。

その安心感を彼が持てていたとしたら、提供したあとでないと助けを求めてはいけないという思い込みを緩めることができていたとしたら、結末はまた違う形になったのかもしれない。

この映画は1人1人違う人間達がかかわり合って暮らす社会の中の、1人1人の違いをその社会が、「障碍」と捉えるか、「違い」と捉えるか、「個性」と捉えるか、はたまた別の言葉で捉えるか、そしてその原因を個人に置くのか、家族か、コミュニティか、社会全体に置くのかを、今の時代を生きる我々に問うているような気がしてならないのだ。

なので冒頭で述べたようにみんなに観て欲しい。
みんなの問題だとみんなが思ったときが問題が良い方向に向かうきっかけになると思うので。

最後まで読んでくれてありがとう。

リアクションもいただけると大変嬉しいし、支えになっています。

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