「働かない」ことはそんなに悪い事なのか?Bullshit Jobが蔓延する理由その1
引き続きBullshit Jobシリーズです。
このシリーズでは、なんでこんなにも「Bullshit Job:クソどうでもいい仕事」、つまり、意味のない仕事、そしてやっている本人もこんな仕事全く社会に貢献してない、と思ってしまうような仕事が社会にたくさんあるのか、ということについて考えています。そして、いわゆる「勝ち組」とされている人たち(高学歴、高収入、etc)がこういう仕事についている割合が高い、という矛盾についても考えてみます。
「失業していること」に対する強烈な嫌悪感
さて、その原因の一つとして「社会一般において「失業していること」があまりにもネガティブなレッテルを張られてしまう為に、不必要な仕事でさえも創り出すインセンティブが社会に生まれてしまっている」というものがあるのではないかと考えています。
昨日書いたように、現代社会では働いていないことに対する嫌悪感、忌避感がすごいなーなんて思うんです。
この嫌悪感はどこから来るんでしょう?
さらにいうと、この嫌悪感は合理的なレベルを超える気がしているんです。金の為に働くべきであるなら、ある程度金があればしばらく働かないという選択もありでしょう。社会に貢献する為に働くべきなのであれば、一定期間社会に貢献する為に働き、休み、また社会に貢献する為に働き始める、というようなライフスタイルがあってもいいはずです。なのに、それを許さない空気がある。
「働いていないこと」に対する嫌悪感のレベルが、合理的嫌悪感を超えて強い気がしています。
僕は以前勤めていた会社で、年収を8割にしてもらって週4日勤務にしてもらっていたことがあります。お金より時間の方が大事だと判断したからです。空いた一日は本を読んだり、勉強したり、運動をしたり、楽器を練習したりしていました。とても充実した時間の使い方だった気がします。でも、これでさえも奇妙な目で見られていました。(失業すらしていないのに。。。w)
「失業」に対する嫌悪感の原因
この嫌悪感の原因はいろいろ考えられそうです。一つは宗教的なものです。
儒教では勤労が美徳とされており、二宮尊徳とかがそれを日本に広めたりしたと思います。
ヨーロッパでは、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神なんかで労働の重要性が説かれたかと思っています。
さらには、経済的な要因も大きいでしょう。各国が経済成長率を競う現代においては、たくさん働いて、たくさん稼いで、たくさん使った人がGDP向上に貢献します。
Aさんは年収1000万稼ぎ、豪遊して年間900万使って、100万を貯金します。Aさんはたくさん働くのでそれなりにストレスも溜まりますが、お金を使ってストレス発散や遊び三昧なので、幸せでもあります。Aさんの幸せレベルは10です。
Bさんは年収300万で、ストレスフリーな仕事をしています。生活も質素で年間200万しか使わないので100万円貯金に回せます。豪遊はできないのですが、あまりストレスもないので幸せな生活を送っています。Bさんの幸せレベルは10です。
この時、AさんとBさんは個人のレベルでは全く同じQOLを保てていそうです。幸せレベルは同じだし、貯金額も同じで将来に対しても同じだけ準備できている。(厚生年金とかややこしい話は一旦おいておきます)
でも、経済成長に貢献しているのはAさんです。なので、経済成長を追求したい国としてはAさんのライフスタイルが望ましいものであるというイメージを世の中に浸透させたいはずです。
こうやって、いろんな要因がからみあって無職や働かないことに対する嫌悪感やネガティブなイメージが世の中に浸透していきそうです。そして、それに合理性は必要とされません。
宗教に合理性は求められませんし、経済成長至上主義も宗教みたいなもん(だと僕は思っている。笑)なので、そこに合理的な正当性は求められません。(合理的であることが必ずしも良いことだとは言っていません。宗教は人の心に平穏をもたらすうえで大事だと思いますし、経済成長にもポジティブな面はたくさんあると思いますので。)
雇用を生み出すことが正義となる
このように、失業状態に対する嫌悪感が強いと、各政党は、いかにして自分たちが失業率を下げられるか、雇用を生み出せるか、を競い合うようになります。実際、日本の政党で「失業率は上がってもいいからまずはクソどうでもいい仕事をなくそう!」という主張をしているところはないと思います。
政府は企業に雇用拡大を要請し、公共事業をやって雇用を創出します。
雇用創出は手段か、目的か?
でも、雇用の創出って手段ですよね?目的じゃないですよね?人々が有意義な仕事をして、社会が豊かになる、みんなが平和に幸せに暮らせるようになることが目的なんであって、雇用を創出することがゴールじゃないはずです。
でも、今は雇用の創出が絶対的な善=目的、になってる気がするんです。
同様に、働くことも手段であって目的ではないはずです。本来は。
もちろん、働くこと自体が生き甲斐だ、仕事こそが人生だ、という人は一定数いて、そういう仕事を得られることは幸せなことだと思います。そういう生き方を全く否定しません。
でも、本来は仕事は生きるための手段であるはずです。
狩猟採集民族は、生きるために狩猟採集をしてたわけです。もちろん、狩猟にハマりまくって狩猟の腕前を上げることに人生をかけてた変わり者もいたかもしれません。でもそれは例外的であって、狩猟(=仕事)は生きるための手段です。
目的と手段の逆転が「Bullshit Job:クソどうでもいい仕事」を創り出す
こうして、目的と手段が逆転してしまうことで、Bullshit JobであってもJobはJobなので、ないよりはあったほうがいい、ということになり、「Bullshit Job:クソどうでもいい仕事」が生み出されるのではないでしょうか。そのJobの質の議論はされません。雇用が創出されると失業率が下がり、定量的な改善が可視化されます。創出された雇用の質(どんな有意義な仕事が生み出されたか)は問われません。定性目標に定量目標がすり替わります。
結婚相手の仕事がBullshit Jobかどうかなんてどうでもいいんです。仕事でさえあれば。毎日出勤し、給料日にお金が入ってくればひとまず安心です。
子供の仕事がBullshit Jobかどうかなんてどうでもいいんです。仕事さえしててくれればメンツが立ちます。
自分の仕事がBullshit Jobであっても、失業しているよりは全然自尊心が保てます。
Bullshit JobであってもJobを創り出せば失業率は下がり、みんなが喜びます。
こうしてBullshit Jobは増殖していくのかもしれません。これが、Bullshit Jobが蔓延する理由の一つとして考えられるものです。
しかし、これだと、「勝ち組」がBullshit Jobについている割合が多いこと、を説明できません。
明日からはその謎を解明すべく、Bullshit Jobが蔓延する他の理由に関しても考えてみたいと思います。