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夢を一度もかなえたことのない男

「まいったな…」
 ヤスオは頭をかきながら思わずつぶやいた。目の前には「Gibson」のロゴの入ったギターケースがある。
 会社の慰安旅行が近々あり、各部署で催しものを披露することになった。ヤスオは世界にもマーケットをもつ大手文房具・雑貨メーカーの静岡支社に勤めている。この不況のご時世でありながら業績もよく、その成果報酬として今回旅行が組まれることになった。
 正直、休みの週末に組み込まれたこの旅行にいくことだけでも少しわずらわしい気持ちがありながら、さらに余興として何かをやらなくてはいけない。その企画が持ちあがったとき、ヤスオはなんとか影をひそめて役回りを持たないですむようにしたかった。
 旅行先の宿泊ホテルには、宴会用のステージがあり、ドラムセットも常設されていることを同僚がサイトで見つけた。
「オレはドラム叩けるから、バンドやらないか?」
そう提案をした。するとやはり学生時代にバンド経験をしていた男性社員というのはいるもので、次々とボーカル、ベース、キーボードなど挙手がされて決まっていった。だがバンドの花形ともいえるギターだけはやったものがいなかった。
 いや、実際はいたのかもしれないが気後れして名乗り出さなかったのかもしれない。バンドをやるとなると、それなりに練習する労力も必要だし、ある程度の腕に自信もいるだろう。
 実はヤスオはギター経験者だ。それも本気でプロをめざしていたほどの腕前を持っていた。だからこそ、こんな会社の余興で披露することも変なプライドがあり手をあげるのはごめんだった。
 だがヤスオに向かって上司がポロッと言ったことで流れが急に変わった。
「あれ?山本ってギターやってたって履歴書に書いてなかったっけ?」
 22年前の入社試験のときのことをなんでおぼえているんだ。ヤスオは心の中で舌打ちをした。たしかに入社したい一心で趣味の欄にギターをやってバンド活動をしていたことを書いた。そのときの試験官が、今の上司だった。
ヤスオは渋々答えた。
「はい。少しだけかじってたことがあります」
「よし!これでメンバーはそろったぞ!!」
部署内が歓喜にわいた。もうヤスオの意見など通る雰囲気ではなかった。この余興大会では一番ウケのよかったところには賞金として金一封も出ることになっていた。
 社会人になってバンドをまたやれる喜びと金をゲットする野心にみんな前のめりになっている。こうしてヤスオの憂うつは始まった。
 いくらプロをめざしていたとはいえ、それこそ22年前の大学生時代の話だ。卒業後はほとんどギターに触ることすらしていない。
 ヤスオはもう一度開かずのギターケースに向かいながらため息をついた。とにかく楽器を持たないことには何も始まらない。
 ケースのフックをはずして久しぶりに開ける。木のやわらかい香りと若干のカビとサビのニオイが混じったようなにおいが部屋の中に充満する。
 中にはGibsonのレスポールギターが収まっていた。ヤスオの愛器と22年ぶりのご対面だ。弦はまったく交換していなかったのでサビがかっている。でも張りかえれば特に問題ないだろう。
 ヤスオは久しぶりにそのギターをケースから取り出す。ずっしりと腕にかかる重量が懐かしい。弾かないではいても処分することはできず、学生時代からずっとケースに入れて部屋の片隅に置いてあった。
 結婚して新しい家に引っ越すときも、使ってないなら処分したらと妻には言われながら、やはり手放すことができないままでいた。
 状態もいい。弦を張りかえて一度スタジオに入って試し弾きでもしてみるか、そんなことを考えながらヤスオはケースの中にある小さな収納ボックスに目がいった。たしかそこにはピックケースや弦チューナーなどの小物をいれてあったはずだ。
 ヤスオはフタを開けた。案の定、それらのものがキレイに収まっている。ふとケースの一番下に折りたたまれた紙があることに気づいた。
 それはノートの1ページをやぶいたものでキレイに4つにたたまれていた。紙を開くと、そこにはヤスオのものではない他の人の筆跡で文字が書かれていた。
 それは歌詞カードだった。タイトルは「夢の出口」。コード譜も一緒に書き込まれている。このタイトルと文字を見て、記憶の奥のほうに追いやられていた1人の男の名を一瞬で思い出した。
 阪下トオル。かつて『Little Birth』というバンドを組み、プロをめざしていたボーカリストだ。他にベース、ドラムもいて4名で編成されたロックバンドだった。
 大学在籍時に結成され、地元静岡と、ときに東京にも出向き精力的にライブ活動をしていた。高いレベルの実力から地元の民放番組が作る音楽番組のワンコーナーではレギュラー的な扱いで出演もしたり、インディーズ系ロックマガジンでもたびたび特集も組まれたりした。
 とあるプロダクションからも声がかかっており、大学卒業とともに専属契約の話がほぼほぼ内定していた。そんな中でありながらヤスオは大学を終える頃、プロへ進むことをせず、現在も勤める会社に就職することを選択した。
 プロでやっていく自信がなかったわけではない。ただ音楽で食べていくということがヤスオの中であまりにリアルではなかった。若いうちには勢いで乗り切れるかもしれない。だがミュージシャンという夢心地な職業は、年をとっていくに連れ、人生に迷いや疑問を持つ日がくるのではないだろうか。人気商売ゆえ先行きも見通せない。
 そう考えてを重ねるうちにミュージシャンを職種として考えることがあまりに希薄になっていった。当時、つきあっていた彼女もおり、卒業後は結婚もするだろうなとも考えていた。もっともこの彼女とは卒業後ほどなく別れ、そのあとに仕事を通して出会った別の女性と結婚をし、一男一女を授かった。
 ヤスオはその考えをそのままトオルに伝えて、大学卒業とともにバンドを脱退した。とくに熟慮して悩んだわけでもない。A社とB社があって、自分のメリットを考えてこっちにしました、そんな感覚で罪悪感もなかった。
 トオルもそれに対して怒るわけでもなく、ただ黙って承諾し、ふたりは袂を分けた。それ以降ヤスオはトオルに会ってもいなし、記憶からも忘れていった。
 ヤスオはこの歌詞カードを見て、急にトオルが今何をしているのかが知りたくなった。ネットで阪下トオルで検索をかける。英語表記にしたり、カタカナ表記で調べたりするうちに『Z to Z』というバンドのオフィシャルサイトの中にボーカルとして「TOHRU」の名前を発見した。プロフィールに「本名・阪下トオル 静岡県出身」とあり、そこが検索に引っかかったようだ。バイオグラフィを読むと自身で立ちあげたレーベルの所属アーティスト兼社長として全国でライブ活動をしているらしい。
 気づくとヤスオはトオルのありとあらゆる足跡をネットサーフィンし続けた。そして近々の2週間後の土曜日に地元静岡のライブハウスでライブをやることになっているようだ。ヤスオは衝動的にチケットを予約していた。
 それからあっという間に当日はやってきた。妻と子どもたちにはライブ後、待ち合わせをして外で食事をしようと約束をして出かけた。会場に着くと、たくさんの若い女の子達を中心に集まっていた。
 久しぶりにライブハウスに来たことと、このフレッシュなほどはじけるエネルギーのうずに気後れしていた。急に44歳という自分の年齢を感じた。
 ライブハウスに入り、500円のドリンク代を払う。ヤスオはすぐにカウンターバーでビールに交換した。スタンディングのライブ。密集する人だかりの中で空間のあるスペースを見つけるとそこに収まる。
 開演時間を5分ほど過ぎた頃、会場が暗転。一気に歓声があがる。そして『Z to Z』のメンバーが次々とステージに姿を表すと、その声は狂乱的にボルテージをあげていった。
 楽器隊が全員出そろうと、ついにボーカルの阪下トオルことTHORUが登場。ドラマーがスティックでカウントを打つとバンドは一気に火がついて演奏が始まる。
 強烈な照明がステージを照らす。THORUの顔もハッキリ見てとれた。22年振りの同級生の顔。ライオンのような金色の長髪、自分と同じ年齢なのでそれなりに年輪のシワが刻まれているものの、精悍で端正な表情、肉体がビルドアップされているのが一目瞭然のTシャツ姿。
 そして何よりも22年前も多くの人を魅了した美しくつややかな歌声。かすかに混じるしゃがれ声には長年歌い続けてきたことがそこには現れている。
 それから約2時間。ヤスオはTHORUの圧倒的なパフォーマンスにただただ打ちのめされた。ヤツはブレずに自分がめざす道を歩き続けてきたんだ。感動すら受けとった。
 ライブが終了し、物販コーナーに『Z to Z』のメンバーがグッズ購入者にサインをするということでやってきた。ごった返す売店の中にヤスオはTHORUの姿を見つけた。次々とファンがサインと握手を求めている。
 ヤスオは黙って帰るつもりだったが、売店に近づき人垣をかきわけ、『Z to Z』のアルバムを1枚手に取りTHORUの前にCDを差し出した。
 THORUは顔をあげず、CDのジャケットに手慣れた感じでサインと今日の日付をいれると顔をあげた。
「今日は来てくれてありがとう」
ヤスオと目が合った。THORUは笑顔で手を差し出す。ヤスオも手を握り返した。気づいていないのだろうか。22年振りに合う自分を忘れてしまっているのだろうか。
「どうもありがとうございました」
ヤスオは小さく礼をいって、手を離すときびすを返し、物販を離れていく。
「ヤスオ」
自分を呼ぶ声が聞こえた。振り返るとTHORUがこちらを見ていた。時間にしてほんの数秒だろうが、とても長い間のような感じがした。
THORUは、やがて視線をはずし、またファンの怒濤のサイン攻めに笑顔で対応していた。
 ヤスオはライブハウスを出た。汗ばんでいた体が夜風で冷めていき、少し肌寒く感じる。しばらく呆然と歩き続ける。
いつのまにか、家族と待ち合わせていた場所に時間通りにたどりついていた。
「パパ」
3歳の娘が手を振ってこちらに近づいてくるのに気づく。そのすぐ後ろを7歳の息子と妻が笑顔で続いていた。
 卒業後、大手企業に勤務し、課長まで役職を昇りつめた。あたたかい家庭も手に入れた。ここまでほとんどトラブルらしいことは何もない。むしろ自分にとって一番ベストの選択を的確にチョイスしてうまくやってこれた。
 申し分のない人生だ。そのはずなんだ。だけど--。
 はたして俺は夢を一度でもかなえたことがあるのだろうか。ポケットの中に入れてきたトオルの書いた曲「夢の出口」の歌詞カード。俺は夢の出口をくぐり抜けてきたのだろうか。
 やがて娘と息子がヤスオの両手を握った。

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