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【アーティスト×VIVA】NULLNULL STUDIO 公開制作日記(諏訪部佐代子 滞在日記①)


VIVAを舞台にしたプランを提案し、見事 VIVA AWARD 2021でフェローアーティストに選ばれたNULLNULL STUDIO。
メンバーの諏訪部佐代子と君島英樹が、6月から7月まで、VIVAで滞在制作をします。作業進捗は今後、滞在日記としてVIVAのnoteに綴られる予定です。

NULLNULL STUDIOはVIVAで何をするのか…?VIVAのスペースで何が起こるのか…?2人のこれからにご注目ください!

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今日はVIVAでの公開制作初日。
顔、
顔、
顔。
人間の顔ばかりをつくっていた。

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ひとつはヌルヌルスタジオメンバー紹介用の立て看板の顔

この顔は二年ほど前、ケルト音楽のバンドを組んでいる仲間たちとお互いのコスプレをしようという機会で作った私諏訪部佐代子のお面の画像を採用させていただいた。

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ひとつはVIVAの3Dプリンターで作成した顔

これは3年前から計画していたオーストラリアへの交換留学がコロナの影響で再々々(!)延長が決まり、自分のゆくさきがどんづまったような失望感から勢いで写真館へ撮りに行った就活写真をプラスチックで出力したもの。このさい撮影した就活写真は本来の用途で使用されたことは未だない。私は自分の顔が大好きなので完成をとても楽しみにしていたが出力は自重に耐えきれず綺麗に失敗した。なんとも不吉。

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ひとつは友人の顔

絵画における顔というのは、どうにも重い。
顔の凹凸を筆でさわっていくだけで絵を描けたような気持ちになってしまう。人間の姿は絵になってしまいやすい。いや、なっていると思いこみやすいのかもしれない。重さをどうにか取り払おうと決め打ってかろくかろく描くように心がけるのだが、思うようにいかないのが私の絵画制作の常のように思う。それがときに心地よくときに苦しい。

現代社会で顔というものは飛び抜けてさまざまな意味を含んでいるようだ。友人と、脳味噌だけで培養液に浸かりながら栄養だけ送られるような身体になったらみんな平等に楽なのにね、と常磐線に乗りながら話したことがある。このときはその絵面のディストピア的な感じへの憧れが少なからずあったように思うが、顔というものが見えない価値づけにさらされるこの感じはきっと令和に生きるみな、味わったことがあるのではないだろうか。就職活動や婚活、SNSなどこんなにも自分の顔を判断される野っ原に晒さなければいけないこの時代というのは何とも生きづらいように感じざるを得ない。おそらく他の時代は他の時代の生きづらさがあったのだろうと思うが、平安時代の顔を知らない御簾越しのコミュニケーションくらい距離があったって面白いと思う。今はそれがある意味アクリルパーテーションかもしれないしマスクかもしれないしインターネットかもしれないけれど。
こんなことを話してはいるが、何度も言うように私は自分の顔が好きなので私の顔に対する他人の価値判断はまあどうでもいい。


ところで、公開制作という形の公開制作をしたのはこれが初めてのように感じる。
そもそも元来私は制作風景を人に見られるのがすごく嫌な人間だった。週に一度、5歳から17歳まで12年ほど通っていた絵の先生のもとで絵を描いたのはおそらく全部で10枚ほどだったし、中学高校の美術部では人に見られないよう外で絵を描いていたし、美術予備校に通いたての高校三年生の頃は特にそれが顕著でよく先生が見回る時間を見計って図書館に逃げていた。絵画を描く"さい”の、途中にある、あのどうしようもない、面映さを見られたくないのだった。
美術大学なんてものに通ってしまったら、より誰かに”過程を見せなくてはならない場面”が増えると想像していたが、存外そんなことはなく慣れぬままこの歳になってしまった。

さて今、我々はVIVAで公開制作をするという行動に出た。まずはこの空間と共存することから始めたい。公衆の面前でものをつくるというのは、こどもの時の反動だろうか、非常にわるいことをしているような気持ちがしてどうにも今は快いことに驚いた。

私は作業をしながらあれを思い出していた。

「あんなもの、幻想だと思ってなぜ悪い。もともと日本にいるわけはないんだからな。」
「でも、象の化石は日本でも発見されていますよ。」
「人間が住むようになる前に亡びてしまったんだ。責任なんかないさ。」
「観念としての象なら、仏教といっしょに上陸しましたよ。」
「じゃ、認めるってのかい、あいつがうろつきまわるのを……。」
「認めはしないけど、黙殺もできないな。とにかく、目ざわりであることをはっきり主張するのが先決じゃないですか。」
「おまけに腐りかけている……。」
「そう、出しゃばらせる必要はないよ。」
「どぶの中だからって、油断したのがまずかったんだ。」
「あそこに象がいることは、誰もが知っていた。いわば公然の秘密でしたね。しかし、いないも同然だと信じていたからこそ、許せもしたんだ。」
「いるはずのないものが、いたって、いないも同然でしょう。」
「しかし、存在しないものは、存在すべきじゃない。」
「腐りきるまで、あの中でじっと待っていてくれりゃよかったのに……。」
ー安部公房「公然の秘密」より

そう、教科書にも載っている安部公房の小説の中でどぶのなかにうごめいていたあの象である。

ここVIVAの環境はどぶなんてものじゃなくとても心地よいが、私たちは腐りかけているかもしれないしいるはずのないものかもしれない。この心地よさが私たちの存在でどう変わるのか、この商業施設で私たちに何ができるのか、どんな問いかけができるのか。私たちがこの場所で問いたい「価値」とは何であるのか、それがこの実験で見えるのか見えないのか。

すでにVIVAの居心地の良さに気づいているみなさまも、いまだ来たことがないというみなさまも。
石を投げるでも良い、マッチを投げるでも。うろつきまわる我々をただ黙殺するのも関わり方の一つだろう。ただ、我々の目撃者となってもらえたら。

みなさまどうぞこれからよろしくお願いいたします。

2021年6月2日 諏訪部佐代子



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