座禅のすすめ|内なる探求の学問
こんにちは。大慈坊です。
これまでの数回、坐禅に関して書いたわけでございますが、
坐禅というテーマで少し書き進めてみようかと思いまして、
「座禅のすすめ」ということで、しばらく書いてみようと思います。
私は20年坐禅をしており、
頭は坊主ですが、お坊さんではないですし、
どこかの宗派に属しているわけでもありません。
ですので、イメージとしてはアマチュア坐禅ということで、
誰でもお家でできる座禅のすすめ。
という感じでご理解ください。
はじめに|坐禅と座禅
ちなみに、本来、坐禅という字は
コチラの『坐』を使います。
じゃぁ、なんでわざわざ『座』禅のすすめとしているのかというと、
一般的には『座禅』とい思われているということと、
『坐禅のすすめ』という書籍が既にありましたので、
まったく同じもなんだからということで、あえて『座禅』としていますが、
本音は『坐禅』と書きたいという所でございます。
さて、坐と座で何が違うのかということですが、
坐は『すわる』動作そのものを坐と言い、
座は部首の『まだれ』が家の屋根を意味するそうで、
坐る場所を指し『座』となるということでございます。
そうしますと、私が今回おすすめするのはお家で坐禅ですので、
屋根の下の坐禅ということで、『座禅』でもいいのかな?
と、文字に関してはライトな感じで使用しております。
座禅のすすめ
『マインドフルネス』や『瞑想』『メディテーション』といった言葉を20年前にこれほど聞いたかというとそうではなかったように記憶します。
私が見た書籍も結構、宗教宗教したものが多く『瞑想』というと、スピリチュアルな方々に限られていたように思います。
その頃に比べると、当時のようにスピリチュアルという言葉への抵抗が少なくなったように感じます。
しかし、それでも今更ながら、この座禅について書こうと思ったのは、
座禅の行為の基本である『瞑想』というのは、人それぞれ千差万別で、
Aという人のやり方が合う人もあれば、
Bという人のやり方が合う方もあるわけでございます。
まだまだストレスフルな社会でございます。
私自身、鬱から抜け出し、自ら起業をした際には一筋縄ではいかないことも多く、感情の起伏も大きく、何度も心折れそうになることもありましたが、そのたびに、感情を整え、マインドの雑念をまるで他人に起こっているかのように冷静に見ることができるようになりました。
くどいようですが、瞑想は人それぞれ千差万別でございます。どなたかのお役に立てればと願い、そんな思いから書いてみることにいたしました。
きっかけ|ブラック企業でうつ病
私が坐禅を始めた最初のきっかけはうつ病でした。
私の場合はブラック企業に勤めて、詐欺まがいのテレアポ。
一日500件くらい片っ端から電話をかけ、完全に精神を病みました。
抑うつ病の方でした。
日頃、手足の震えが止まらず、人と目を合わせることもできない。
電車のホームでは、飛び込んでしまいそうで最前列には並べない。
人の多さに飲み込まれると、パニック的な発作になり電車に乗れないこともしばしば。
何度も、人生を終えてしまいたいと考えました。
しかし、私の友人で19歳の時に自ら命を絶った友人がいました。
その友人のお蔭と言っては少々語弊がありますが、
その友人が逝った後、残された家族、私たち友人、
その後を見ていたことで、私自身は何とか踏みとどまりました。
病院で出される薬に日々頼り、完全なる薬漬け。
外出する前、電車に乗る前、会社に入る出勤前、営業の訪問前、
人と会う前にはシナプスを活性化する薬を飲みます。
不眠症にもなっていたので、寝る前には筋弛緩剤の薬。
病院では「ダメだよ」と言われておりましたが、
お酒を飲んで、薬を飲んで、お風呂に入って寝る。
用法容量を無視した飲み方をしておりました。
絶対にマネはしないでください。何もいいことはありません。
そんな中で、どうにかこのうつ状態から抜け出せないかと、
精神世界へ答えを求め、高校生の時に耳にしたことのある坐禅、
禅宗となると臨済宗か曹洞宗、
ということで、とある曹洞宗のお寺へ行き、
お願いをして坐禅を始めたのがきっかけです。
とはいえ、ブラック企業の社宅に住んでおりましたので、
お寺へ一度行ったら、宗教にはまるなと、同僚に引き戻されました。
ということで、たった一回話を聞いただけで、そこからは独学です。
そうです。
すなわち、独学の坐禅をこれからとくとくとお伝えしようと、
アマチュアの話ではございますが、まぁ、それでも20年坐っておりますので、それなりに私なりの見えたところもございますゆえ、ご容赦頂ければ幸いです。
とはいえ、最初の頃は毎日毎日坐るという訳ではなく、
気分が乗ったときに坐る程度から始めました。
地方移住をし、自ら事業を始め、徐々に頻度が増えて、
毎朝の日常的な習慣となったのは、この数年でございます。
ダライ・ラマ14世の言葉
気付けば20年ということですが、既に日課となりましたので、
おそらくこの先数十年も続けていくのであろうと思います。
この続ける原動力となったのが、タイトルにある通り、
ダライ・ラマ14世の言葉でございます。
ゆえに仏教とは、宗教というよりも、学問であり、終わりがない。
という趣旨の説法がありました。
家の中のどれかのDVDに入っているのですが、見つけられずお伝え出来ず、恐縮でございます。
どちらかのDVDだったと思います。
その法話を聞いて、そこから深く理解をしました。
内なる探求
内面を追求する学問
学問というのは、新たな知識を得ることで
自らの外側に知識を蓄えていきます。
知識を加算していくわけでございますが、
仏教は自分の内面をただひたすらに追及する。
たとえば、
怒っているならば、怒っているという判断をしているのは自分であり、
外部からもたらされた何かによって怒ってはいるのだけれども、
怒っているのは自分自身である。
20代の頃はわかっていても、腹の立つことがあれば怒ります。
そして、しばらく後になって、
「あ~、怒ってしまった…」「なぜ怒ったのだろう」
「怒る選択肢しかなかったのか」などなど、内側へ深堀りしていきます。
これをなんだかんだと気づけば20年繰り返しております。
本当に子供の頃はクソガキでした。というかいわゆる不良。
細かくは言いませんが小学生でタバコ、中学生でお酒、
そんな感じで、不良少年でした。
なんせ、短気でした。口も本当に悪かったです。
しかし、
現在私は40代ですが、最近では怒るという行為はほとんどなくなりました。
怒る時は、「怒る」ということを理解して怒ったりすることもあります。
子供を怒る時ですね。ですので、叱る。が正解なのですが
まだ私も精進の途中ということですね。
このように内面を探求する学問は、
我が身が死するまで終わりがないわけでございます。
ゆえに、20年も続いているのだと思います。
20年続いた理由には、もう一つツールの使用がありました。
このnoteの投稿の最初の方に記載しておりますが、
また改めて、後日書きたいと思います。
今日は長くなりましたので、この辺で。
最後までお読みくださりありがとうございます。