【ショートショート】しゃぼん玉とんだ
「実は、他に好きな娘(こ)ができた。だから別れてほしい」
最近、彼の態度がよそよそしい気はしていた。けれど、試験勉強や就職活動、バイトが忙しいのだろうと何も言わなかった。いや、正直なところ、嫌な雰囲気は前々から察していた。ただ、自分の中の悪い予感を的中させたくなくて敢えて聞かなかったのだ。
「本当にごめん」
彼が二人分のコーヒー代を置いて席を立つ。私はその間何も言えずにただ俯いていた。
独りになったテーブルで、私はカップに残るコーヒーを見つめていた。
この二年間は一体何だったのだろう。私と彼はいつからすれ違い始めたのだろう。彼の好きな子って誰なのだろう。私、何が悪かったのだろう。どうしてこんな最後になってしまったのだろう。私は無駄な時間を過ごしてしまったのだろうか。いくつもの答えの見つからない質問を私は頭の中で繰り返していた。
どれくらい時間が経っただろうか。私は声を押し殺して泣いていたようだった。ハンカチで眼に溜まった涙とテーブルの上の小さな水たまりを拭い、会計を済ませて外に出る。さっきまで雨が降っていたが今は止んでいる。私は歩き始めた。特に当てもない。彼との予定も真っ白になってしまった。ただ歩きたかった。今日はどこでもいい。歩けるところまで行こう。
しばらく歩いていると、路地裏で二人の女の子がしゃぼん玉を吹いて遊んでいた。女の子たちは互いに吹き合っこしているようだ。
「じゃあ次は、今年行った海の思い出ね」
ポニーテールをした女の子がそう言うと、ふっーとしゃぼん玉を吹いた。ストローから出てきたしゃぼん玉はまるで中に水が入っているかのようなつるんとした水色だった。よく見ると、海辺で家族が楽しそうに遊んでいるのが見えた。私は思わず立ち止まる。
あれっ? 今、しゃぼん玉の中に景色が見えた?
ショートカットの女の子が同じようにストローを吹いた。それは爽やかな緑色をしていた。中を覗くと女の子と兄らしき男の子が山でキャンプをしている風景が見えた。これは目の錯覚ではない。私は内心はかなり驚きながらも平静を装い、女の子たちに尋ねた。
「きれいなしゃぼん玉ね。色んな風景が見られるの?」
女の子たちは互いに顔を見合わせてから、笑顔で答えた。
「このしゃぼん玉ね、思い出が見られるの」
「思い出?」
「うん、楽しかった思い出とかを頭で考えながらストローを吹くと、その景色がしゃぼん玉の中に入って出てくるの」
私の頭の中ははてなマークでいっぱいだった。どうも私の知っている、世間一般的なしゃぼん玉ではないらしい。
「ほら、見てて」
そう言うと、ポニーテールの女の子がふっーとストローを吹く。その先から出てきたしゃぼん玉の中には、笑顔でハンバーグを頬張る女の子の様子が見えた。
「へへっ、昨日の晩ご飯。お母さんがね、私の大好きなハンバーグを作ってくれたんだ。すっごくおいしかったの」
私はうまく言葉が見つからず、ただただ女の子たちの持っているしゃぼん玉液の入った小瓶を見つめた。
「お姉ちゃんもやってみる?」
ショートカットの女の子が自分の持っていた小瓶とストローを差し出すと、私はそれを恐る恐る両手で受け取った。
「何か楽しいことを思い浮かべながら吹くんだよ」
女の子たちは好奇心いっぱいの目で私を見る。私は、肺に溜まっていた空気をストローに吹き込んだ。しかし、そのストローから出てきたのは、彼女たちの期待からは程遠い、黒と青が混じった、決してきれいとは言えない、ベトベトしたしゃぼん玉だった。中はぼやけてはっきりと見えないが、楽しい思い出ではないことは誰の目から見ても明らかだった。それは重たかったのか、すぐに地面に落ちてパチンと弾けた。
「いつも見るしゃぼん玉と違うね」
「なんか寂しそうなしゃぼん玉だったね」
女の子は口々に言う。私にはそのしゃぼん玉の景色が、さっき彼と別れた時の場面だったと直感で分かった。私の中ではあんなに寂しい思い出になってるんだ。哀しい色だったな。私は涙が込み上げてくるのをぐっと我慢する。
「もう少しやってもいい?」
私の雰囲気を感じ取ったのか、女の子二人はうんうんと頷く。
私はすうっと息を吸うと、再びストローを吹いた。目の前の円の中には、彼とデートをしている私がいた。けれども、何となくぎこちない様子だ。それは別れる数ヶ月前の私たちだった。デートはしていたが、彼の心はここにあらずでギクシャクしていたのを覚えている。二回目のしゃぼん玉は、最初のものよりは少しだけ軽くなっていたが、それでもすぐに落ちて消えてしまった。私の中には悲しい思い出しかないのかな。彼と付き合った二年間、本当に無駄だったのかもしれない。私は自分の心がキュッと締め付けられるのを感じた。
次に出てきたしゃぼん玉の中では、彼がご飯を食べている姿が見えた。女の子たちが言う。
「この男の人、なんか嬉しそうだよ」
私が初めて彼に手料理を振舞った時だ。料理本を見ながら、彼の好物をいっぱい作ったのだ。不器用な私が作っただけあって、見た目も味もイマイチな料理だったにも関わらず、彼はおいしい、おいしいと言って全部食べてくれた。私、彼のために料理をするのが本当に好きだったな。しゃぼん玉はフワフワと漂った後、消えた。
「お姉ちゃん、さっきよりも楽しい景色が見えるようになってきてるよ」
女の子たちはキャッキャウフフと騒いでいる。確かにそうかもしれない。悲しい思い出だけじゃなく、楽しい思い出もあったんだ。
もう一度吹く。
「うわぁ、きれいな星空!」
その瞬間、女の子たちから歓声が上がる。プラネタリウム、私の大好きな場所だ。
「お姉ちゃんとさっきの男の人がいるよ!お姉ちゃん、すごく嬉しそうだよ」
ポニーテールの女の子が楽しそうに言う。夜空を映したしゃぼん玉は少しずつ上へ上っていく。あのプラネタリウムで彼に告白されたのだ。彼は最初、上映が終わってから告白しようと考えていたらしい。けれども我慢ができず、上映の最中に私に言った。
「好きです。僕と付き合ってもらえますか」
暗がりでも彼の顔が赤くなっているのが分かった。私は彼の手を取り、言った。
「私も好きです。よろしくお願いします」
その瞬間、彼が「やったー!」と立ち上がり、周りの人たちに迷惑をかけたことを思い出し、私はくすりと笑った。しゃぼん玉は近くの家の屋根まで行ったところでパチンと弾けた。
「お姉ちゃん、やっと笑った」
ショートカットの女の子が私を見つめてほほ笑んだ。本当だ、私、笑えた。さっきまで泣いていたのに。
「これで最後ね」
私は女の子たちの顔を見た。彼女たちは笑顔で頷く。
ゆっくりとしゃぼん玉がストローから出てくる。それはまるで朝日が海の水面に反射してキラキラしているような眩しい色だった。その中には私がいた。彼のことを毎日少しずつ好きになっていく私だった。
初めて大学のキャンパスで彼に出会った日のこと。
偶然、講義で彼と隣同士になったこと。
彼を含めたグループで遊園地に行ったこと。
課題ができずに彼と一緒に徹夜して頑張ったこと。
カラオケで彼の歌声を初めて聞いたこと。
他にもたくさんの思い出をしゃぼん玉の中に見ることができた。
ああ、私、彼のことが本当に好きだったんだ。
あの頃は彼の姿を見るだけで、会えるだけで嬉しかった。彼のしぐさや話す様子が好きだった。彼が私を呼ぶ声が好きだった。彼の笑った顔が好きだった。彼のことをもっと知りたくて、必死で彼の愛読書を読んだり、好きな音楽を聴いたり、料理を勉強したりと色々なことをした。そのおかげでそれまで知らなかったことを知ったり、これまでやらなかったことをやったりもできて、自分の世界が少しずつ広がっていったのは事実だ。彼のおかげで自分がほんの少し大人になれたような気がした。
「本当に、本当に大好きだったよ。ありがとう」
私はぽつりと呟いた。
彼とは別れてしまったけれど、彼と過ごした時間は確かにあった。嬉しいことも辛いことも、悲しいことも楽しいことも、彼と一緒にいたあの時の私が今の私をつくってくれている。私、精一杯頑張った。充実した時間を過ごせていたんだ。そう感じた時、私の頬を一粒の涙が伝った。
しゃぼん玉はどんどん上に上がっていく。私と女の子たちは空を見上げた。そこには、私たちを見守るように大きくきれいな虹がかかっていた。
おわり