鯛の免許合宿 第一話 〜事の始まり〜
あれは、6年前の冬だった。
当時大学1年生だった俺は、最高に気が緩んでいたと記憶している。
何故なら、大学最後の試験が終わり部活動も休みで、特にやるべきことはなにもなかったからだ。
ソファに寝そべり、携帯ゲーム機が映し出す世界の冒険に浸る。あの気楽で特に悩みもない日々は幸せだった。
そんなだらしない人間の極みである息子に、母が声をかけてきた。何やら話があるという。
母の言葉は絶対だ。逆らえば晩飯を抜かれてしまう。それだけは避けなくては。
俺がリビングにあるテーブルを挟んで向かい合うようにすわると、母も対面の席に座った。
さて、どんな話だろうか。俺は心で身構える。こうやって俺を呼びつける時は、ロクな話だった試しがない。
学費の件か。はたまた定期券の件か。
もしかして、家の共用パソコンでアダルトサイトを見てたのがバレたのか?思い当たるのはそれくらいしかない。まずいな。非常にまずい。どうやって言い逃れしたらいいんだ……。
勝手に自分を追い込んでいく俺に対し、母はこう言った。
「春休みを使って、自動車免許の合宿に行かない?」
「え、なんで?」
「暇そうだから。彼女もいないし」
そう言いながら、母はパンフレットを俺の目の前に置いた。
そこには、自動車学校で二週間の免許合宿をするという内容が書かれていた。
朝から夜までガッツリ免許取得のために勉強し、キッチリと仮免を取って帰ってくる。そして、地元の免許取得試験をパスすれば、立派な自動車免許保持者になれる。
内容をかいつまむと、大体そんな感じだ。
ハッキリ言って良いことづくめだ。何かを得るには短期集中で一気にやった方がいい。自動車免許は通いだと勉強が進まなかったり、時間が取れず、長引いてしまうことも多いと聞く。
だから、衣食住に困らず、集中できる環境に身をおける合宿以上の好条件はないだろう。
「やだ。めんどくさい」
だが、当時の俺は悲しいほどにナマケモノだった。
車に興味もなく、また自動車学校に行くだけの金もなかった。というか、金がないし、金がなかった。働いてまで免許取る気力もなかったし、なにより金がなかった。つまり、金がないので金が悪いのだ。金なのだ。
「合宿のお金なら出すよ」
「じゃあいく」
6年前の俺は、単純な男だった。
それから三日もしないうちに、俺と母は連れ立って銀行で振り込みを行い、一ヶ月ほどだらだら過ごしたのち、俺は荷物を1時間でまとめて、自動車学校へと旅立っていった。その先が地獄であるとも知らずに……。
まだまだ寒さの残る春休み。
新幹線に乗り込んだ俺は、2時間揺られて目的地へと到着した。
「ここが静岡か」
あたりを見わたすが、何もない。バス停と百貨店らしき建物はあったが、どこもシャッターは閉まっている。朝の8時だしこんなものだろうが。
自動車学校側から送られてきた手引書によると、9時にバスが迎えに来るらしい。ひとまず今は待つことだ。
俺は、旅行鞄を尻に敷いて待った。駅で新幹線が止まるたびに、周りに旅行鞄を持った学生らしい男女が増えていく。どうやら他の自動車学校の生徒もいるようで駅前の広場は次第に人で溢れかえっていった。
そうして、さらに待つこと数十分。拡声器を当てたおっさんがお世話になる予定の自動車学校の名前を叫んでいるのが聞こえた。
「やっとか」
俺は立ち上がり、潰れた旅行鞄の形を整えると、声のする方へ向かった。実際は30分そこら待っていたはずなのに、体感的には2時間待った気分だった。多分、相対性理論って奴なんだろう。
いかにもスクールバスといった風情の白いバスに近づき、その前に立っている男に声をかける。
「お名前をどうぞ」
「鯛です」
「あー、鯛さんですね。はい。お名前を確認しました。好きな座席にどうぞ」
職員に促され、俺はバスの座席に座った。それからバスは十分もしないうちに出発した。
これでもう戻ることはできない。
「この先に、何が待っているんだろうか」
心臓の鼓動が少し早まるのを感じながら、俺はこれからの生活に思いを馳せた。