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Who thinks so?

誰かと共に暮らしていると
いや 
生きていると
人と関わらずには生きていけません よね?

我が子が 転んだ 心に痛い思いをした
思わず
可哀想という言葉が浮かびます

可哀想 という言葉
気持ちに寄り添っているように感じます

しかし 
相手が本当に言われたかったことばかどうかは
わからない 
ということを
よく振り返って思う事があるのです

可哀想と思ったのは誰?
可哀想って言ってあげたかったのは誰?


潜在意識の世界では 
脳は主語が判断できないといわれています

可哀想 に感じているのは自分で
可哀想な自分が心にいるということ

そして 可哀想と言われた側の子どもは
そんな大人を見ては思うのです(心理学的には)

「ボク(私)のせいで親が可哀想になっている」と

これを 子どもを
『罪悪感をプレゼントする』というようです

・自分の気持ちを子どもに投影しないこと
・この先 いろんな出来事を子どもたちは抱えて帰ってくる
 その時 子どもをかわいそうな存在だと決めつけないこと

ここを私は気をつけている事です

では なんで言葉をかけてあげたら良いのか
ここには正解はないことだとは思いますが
私は 「痛かった」と泣いているなら
「痛かったね」と
心の傷なら 質問して
出てきた答えを反芻したりしています

これができる時 
それは 心が安定している時
体が安定している時自分に余白を持っている時 できたかなと思います
ということは、、、
私のなかなか成功率は低いです…

ただ これを知っている
意識に上がっているということがポイント
だと思っています

なぜかというと
息子は先天性の奇形で生まれてきました

手術も経験しました
傷跡も残っています
まだ 治療は続きます

私たち家族は 彼を
可哀想な存在にはしたくないのです
彼は 生まれてきてくれて尊い存在なのです
娘と寸分の狂いもなく 同じ
彼らは私たちの宝者です

治療に頑張ってくれている時
「ごめんね」とは言葉をかけません
親がボクを見て悲しんでる という
罪悪感はプレゼントしたくないのです

かわりに
「頑張ってるね」 「おつかれさん」
「ありがとう」と
言葉を送ります

この背景があるからかな
私の心は 可哀想に敏感に反応します
そして 
可哀想 の土俵に自ら乗っていく人に
反応します

それに反応しなくなった時
もしかしたら初めて
可哀想と心から感じることに
この言葉を本当の意味で使えるのかも

心に灯火を
なな


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