大東京万博
どうも。
木曜担当の、そーかいです。すみません。
オリンピックが終わり、
パラリンピックが始まろうとしている中、
ぼく個人の「五輪」への考えを書き連ねます。
めっちゃ泣いた。
スポーツ科学部に入り、
見下されている「体育」の価値を
ちゃんと知らしめてやろうと息巻き、
体育教師を目指し、
スポーツ教育・倫理学を学んだ大学生の頃から
何一つ変わっていない
スポーツへのリスペクト、愛が
燃えに燃え続けた日々でした。
スポーツには、
基本的に生産性がありません。
大の大人が、思いっきり
球を投げたり、蹴ったり、打ったり、
籠や網の中に入れたり、
全力で走ったりする時間であり、
社会のために役立つ、
誰かのために役立つモノをつくる時間ではない。
では、なぜ
スポーツは無くならないのか。
それは、楽しいからでしょう。
観るスポーツも、
やるスポーツも、
身体性を伴った娯楽であり、
娯楽の中では珍しい
健全性を孕んでいるからこそ
スポーツは、万人に存在を認められています。
(スポーツ賭博はダメよダメダメ)
そして、スポーツがビジネスとして機能する、
お金が生まれるのは、なぜでしょうか。
ぼくは、
シンプルに人口が多いから、
だと思います。
それ以上でも以下でもない。
オリンピックが、
お金儲けのツールになったのは、
いつからでしょうか。
オリンピックの歴史を紐解くと、
1984年のLAが
「商業五輪の原点」と言われています。
76年モントリオールは大赤字、
80年モスクワは西側諸国のボイコットに遭い、
大きな危機に直面していた五輪に、
実業家でもある
ピーター・ユベロス大会組織委員長が
次々と改革を打ち出した。
協賛企業に五輪マークの使用を独占的に認め、
テレビ局からは高い放映権料を獲得した。
終わってみれば大会は2億ドル超の黒字となり、
ビジネスモデルはサッカーのワールドカップなど
他の国際大会にも拡大した。
五輪で得られる収益は各競技団体や選手に
還元される一方、大口スポンサーである
米テレビ局の意向が
競技運営にも強く影響を及ぼすようになった。
東京大会で競泳決勝が午前中に行われるのも、
米国のゴールデンタイムに合わせた
調整の結果と考えられている。
ぼくは、
商業化を完全悪とは思いません。
コンテンツを成長させていくためには、
時代によって目まぐるしく変化するニーズを
超えていくコンテンツを産むためには、
資本が必要だから。
ただ、
商業が至上となってはいけなかった。
そこがうまくなかった。
東京五輪をTVで観ながら、
一番驚いたのは、競技時間。
なぜこんな遅い時間に試合やってんだ…。
露骨に、競技者 < 商業(主催者)の図を
見せてくれたオリンピックは、
素直に、とても哀しかった。
ただ、
やはり、
アスリートは美しかった。ほんまに。
涙が出たシーンを1つ1つ説明すると
キリがないほどに。
ニッポンの選手たちは、国を背負い、
歴代のアスリートたちとは全く違う
新しい苦しみに喉を絞めつけられながら
東京五輪という日を迎えた、
という背景に思いを馳せると
身体の中に血が駆け巡り、
涙腺に水が溢れ、
「あぁ、やっぱりスポーツは最高や」と
何度も何度も思った。
大の大人が、思いっきり
球を投げたり、蹴ったり、打ったり、
籠や網の中に入れたり、
全力で走る。
それが、それこそが、美しかった。
パラリンピックを含め、
東京五輪が終わりを迎えたときでも
開催に対する賛否の解は誰にも出せないだろう。
10年後でも、まだ議論中な気がする。
でも、そんな中で
東京五輪が教えてくれた、与えてくれた
紛れもない真実が1つある。
今の日本の政治は、おかしい。ということだ。
ぼくが、日本国民であることに
唯一誇りを持つことができるもの
「国歌」で、このnoteの幕を閉じたいと思う。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで
文:そーかい
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