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小説「ワインディング・ロード」

 焼きそばを食べたのが、失敗だった。
 久しぶりの旅行である。空いた時間に足を伸ばして、思い出の場所をめぐって旅愁に浸ろうと考えたまでは、よかった。でもそのあとは、まるでだめだった。電車の時間を調べるアプリを使って、待ち合わせの時間までにぎりぎり間に合うような電車を見つけてしまった。更地になった海岸線は、思い出というにはあまりにも生々しいが、それでも僕の人生を変えた場所だ。時間があるなら、行くしかなかった。
 海岸線を歩いていたら、腹が減った。夜も遅かったし、適当にコンビニでお腹を満たそうとしたら、ちょうどのぼりをしまっている最中の焼きそば屋を見つけた。半分居酒屋のようになっていて、それゆえに夜遅くまでやっていたのだろう。僕は、店の外に設けられた窓口で焼きそばを買い、道路の縁石に座って食べた。
 太麺のそばに、濃厚なソースがよく絡んでいて、においもよかったし、当然味も美味しかった。店のおばちゃんは、バックパッカーの格好をした僕を(あるいは浮浪者のように見えたかもしれない)、それでも暖かい笑顔で迎えてくれて、しかも、焼きそばを大盛りにしてくれた。僕は感動で涙目になりながら、旅愁の熱いシャワーを浴びるように、その焼きそばを味わった。
 最後の紅しょうがを口に入れ、割り箸をさらにy軸に折り、あの焼きそばが入っている名称不明のプラスチック容器に丁寧にしまい込み、おばちゃんにありがとうを伝え、容器を渡すと──遠くで電車の音を耳にした。
 あ、まずい、と思った。僕の計画では、この駅から出る最終電車に乗れば、待ち合わせにはじゅうぶん間に合うことになっていた。そして、いまホームに滑り込んできたのは、その最終電車だ。わかっているはずなのに、時計を見た。出発時刻まで、あと2分。
 僕は踵を返そうとした。なんならすでに一歩を踏み出していた。そんな僕の右耳から、僕の心を激しく揺らしたのは、おばちゃんの声だった。
「観光で来たの?」
 終わった、と僕は思った。僕はおばちゃんの声を無視できなかった。太麺の焼きそばは僕の両足にぬるぬると絡みつき、ついにその歩みを止めてしまった。
「そうです、昔、来たことがあって」
「そうなんだ。ありがとね」
 おばちゃんの話は、ここで終わった。終わったのだ。おばちゃんは窓口から顔を引っ込め、店の奥に入っていった。
 僕はそれが信じられなかった。僕は僕の良心のためにその歩みを止め(正確には走り出した直後だ)、待ち合わせには間に合わないために謝罪文の草案を作成し、誠心誠意おばちゃんの世間話に耳を傾けようとしたのだ。
 それが、20秒に満たずに、終わった。
 僕は走り出した。もはや僕の両足からは濃厚なソースの香りは少しも漂って来てはいなかった。
 ロータリーを走る。そのなかに止まっているバスも、たぶん最終なのだろう。駅の改札が見えた。あと少しだった。
 ぷしゅーっ、と音が聞こえた。僕はこの音を何度も聞いたことがある。それは僕にたくさんの絶望を運んでくる悪魔の音色だ。その音は、いつも僕を「はいはい、お疲れ。次はあと5分早く起きろよ」とあざ笑う。いや今回は、「焼きそば、うまかったか?」と腹を抱えながら、がたんごとんと規則的な笑い声で去っていったのだ。
 加速する電車を、僕はロータリーの端っこで見送った。間に合わなかった。遠ざかる電車のライトが、僕が進むべきだった夜の道を、僕が進むべきだった時間通りに切り開き、閉じていく。ぼくはしばらく、夜の向こうにある線路を眺めていた。この線路の果てに、仙台駅はある。
 ぼくはゆっくりと脱力して、そして頭の後ろをかいた。汗で湿っていて、ちょっとだけ頭が重い。夜は静かだった。バスもいなくなり、タクシー乗り場はがらんとしている。頼りない街灯は、等間隔に冷たかった。
 ケータイを取り出す。登録してある番号に電話をかけると、12コールのあとに声が聞こえた。
 ぼくはずるい人間だった。適当に理由をでっち上げて、ぼく自身の過失をなかったことにした。「焼きそばがおいしかったので電車に乗り遅れた」というのは、おとなとして恥ずかしすぎる。だからぼくは、曖昧な理由をつけて、「明日の朝には着く」という根拠が全く不明な結論を伝えた。タクシーも、バスもない。歩ける距離ではない。でもぼくは、なんとかしてこの一夜を乗り越えて、朝には仙台駅へたどり着くという決意(というには少し、いやかなり大仰かもしれないが)をした。
 とりあえず、ぼくは歩き出した。止まっている気分になれなかったから。とりあえず、来た道を戻ってみようと思った。
 そのとき──反対側の路肩に、水色の車が停止したのを、ぼくは見た。

文・わっせ

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