枡野浩一と重ならない
枡野浩一『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである』よんだ。いまのわたしには重ならなかった。好きと言い切るには、多少なりとも、にんげん的な重なりがひつようなんだ。
生物学的性別って与えられたもの、強制的なものであって、バイもオネエもじぶんで望んでなった訳じゃない。バイって女も男も好きになれてラッキーじゃん、みたいなの、かるいっておもう。バイのは1997、わたしがうまれる以前の短歌だから、時代全体そういう空気があったのかもしれないけど。オネエのは、2006だ。
さっきのバイとオネエの話とおんなし、病という強制的なものを短歌に利用している。それは利用する立場の人であるということ。バイだったりオネエだったりエイズだったりするひとの苦しみに無知なんだとおもった。
エイズが移ることよりきみに触れることのほうが大事なんだという文脈で、詩的には成立している。ひとつのI LOVE YOUだ。けれど、だれかの気持ちを踏んづけて詠まれるI LOVE YOUなんて、わたしはヤ!
これまで挙げたのは、たぶん無意識の踏んづけ。意識的な踏んづけだろうって歌もたくさんあった。
たとえ枡野浩一のそばにいた「あなた」がドメスティックバイオレンスの被害者という立場を利用しても、すべてのドメスティックバイオレンス被害者が女でありその立場を利用しているということと、イコールにならん。「あなた」の話でしかないからだ。もちろん女、ドメスティックバイオレンスという流行、これらのことばは「あなた」を飛び越してしまっているから、行き場がないよ。さまよう憎しみと悲しみ。
その露悪的なところを、人間的すぎるところを、むきだしにできるのが枡野浩一のよいところだとおもう人もいるのだろね。すべて好み、重なるか重ならないか、それ一点。
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