なんだか強いお酒を飲んだみたいについて【劇場版レヴュースタァライト考察】
12月22日、劇場版スタァライトのブルーレイディスクが発売された。公開から半年、何度も劇場に通って鑑賞した作品だけに、それを何度でも家で見れるというのは非常に嬉しく、一方で足りねぇ…音圧が足りねぇよぉ~~ッッッ!!という、劇場で最大火力を発揮する作品だからこその渇きを味わったりと、半年たってもいまだにスタァライトのキラめきに囚われて次の舞台に進めていない。お前一回作品テーマ見直せ。
そうしてスタァライトのキラめきに魅せられ、2021年下半期が完全に吹っ飛ばされたわけだが、その中でも特に印象に残ったシーンであり、そして自分の中で強引ながらも一定の解釈が出来たシーンについての考察を、ブルーレイが発売された記念代わりに書いていきたい。
そのシーンとは、タイトルにある通り「なんだか強いお酒を飲んだみたい」の問答についてだ。
1.皆殺しのレヴューの意味とは
さて、このシーンについては、既に多くの識者によって「大場なながエチュード(即興劇)を仕掛け、それに対して純那が演技を返せなかった(素で応じた)ことで舞台少女として失格扱いとなった」という考察がなされている。実際、このレヴューでは似たような形で大場ななから唐突な問いかけを受けた天堂真矢は演技で返しており、またその問答の内容も「舞台と観客が求めるなら、私はもう舞台の上」という、常に演じ続ける覚悟を見せるものとなっている。そうして舞台に立つ覚悟を見せた天堂真矢が掛けを落とされなかったことや、このシーンの直前の「みんな、喋り過ぎだよね」という大場ななの独白から見ても、このシーンでは天堂真矢の行動、すなわち「常に演じ続ける覚悟を見せる」が正解だったと言えるだろう。
しかしながら、このシーンに関してはさらに深掘りする余地があるのではないか?と個人的に気になった部分がある。そもそも、このシーンに関してはエチュードを仕掛けるというのがメインであるなら、「なんだか強いお酒を飲んだみたい」というセリフについては特に意味がないものとなるはずだが、その前の天堂真矢との問答は
「列車は必ず次の駅へ。では舞台は、私たちは?」
「舞台と観客が望むなら、私はもう舞台の上」
という、作品の根幹テーマとも言えるやり取りになっている。ならば、ここでの「なんだか強いお酒を飲んだみたい」と、それに対応する「正解の演技」も、作品テーマに付随した要素があるのではないか?と思ったのだ。
そこで考えたのが、このシーンで重要なのは「なんだか強いお酒を飲んだみたい」という問いかけそれ単体よりも、星見純那の「私たち、まだ未成年じゃない」という解答が首から血を吹き出すほどの圧倒的な不正解になったことにこそ、意味があるのではないだろうか、ということだ。
2.強いお酒を飲めるのは?
さて、そもそも強い酒を飲むことができるのは大人である。ならば、それを飲んだという演技をしていたこのシーンの本来なら酒を飲めない年齢であるはずの大場ななは、「大人を演じていた」と受け取れる。それに対して純那はまだ未成年、すなわち「子供である」と応答してしまった、という対比関係が見て取れる。ならば、ここでは3度もチャンスを与えられながら純那が舞台に立って演じることができなかったことに加えて、3度目の回答にて、自身を子供であると答えてしまったがゆえに、強い失望をもって大場ななに首を掻き切られてしまった――それが、このシーンの意味だというのが自分の解釈だ。
ではなぜ子供であることが問題なのだろうか?それは、シンプルに彼女たちが卒業を控え、モラトリアムを終えねばならない時間を迎えているからだろう。次の駅を向かって走る列車が、人生の次のスパンへと移り変わっていく時間の流れを示すように、彼女たち自身の在りようとは別に、時間はどうしようもなく流れていき、学校という閉じた世界から出ていく彼女たちは大人として舞台に立つ覚悟を持たなければならない。これはそのまま「舞台に立つ覚悟」という天堂真矢との問答、あるいは作品に頻出する「私たちははもう舞台の上」の「もう」という言葉にも繋がるだろう。そうした子供から大人へ、という変化は、競演のレヴューにおける露崎まひるへの神楽ひかりの評価を借りるなら、舞台少女ではなく、「舞台女優」となる、といったところだろうか。
この大人と子供、という軸を、強い酒と同様に食べものに例えたと取れるシーンは他にもある。決起集会のシーンにおいて、第101回聖翔祭のために用意された星摘みの塔を裏方として立ち上げた大場ななが語るシーンにおける「おやつの時間はもうおしまい」というセリフだ。おやつ、というワードから連想されるのは子供であり、ここではその時間が終わる、すなわち子供時代が終わり、大人として振舞わなければならない時間が来る、ということを示しているのではないだろうか。なお、このワードでも「もう」というワードが使われていることからも、これが時間経過という避けられない変化に対する、少女たちの心構えを説いているセリフであることが分かる。
3.大場ななとおやつの時間
そもそも。時間経過や、モラトリアムの終わりという要素は、大場ななというキャラクターとは密接に絡み合っている要素だ。なにせ、その時間経過を否定し、永久に終わらないモラトリアム、永遠の「おやつの時間」の中に周囲を閉じ込め、守り続けていたものこそ、アニメ版における大場ななの「再演」である。
しかし、その再演は神楽ひかりと愛城華恋によって破壊され、ロンドを描いていた時間の流れは再び未来に向けて動き始める。そして、その動き出した時間、再演の果てに垣間見えた「舞台少女の死」があったからこそ、大場ななは再演から去っていく彼女たちを笑顔で見送るのではなく、ここから去る場所こそが険しい殺し合いの野生の世界であり、そこで生きていくことができるかを問うたのだろう。
愛城華恋を列車で送り出すシーンにおいて、大場ななは「バナナマフィン、バナナプリン、バナナンシェ。沢山食べてもらったなぁ…」という言葉を漏らしていたが、これは再演の中で彼女が舞台少女達に食べさせたおやつであり、彼女達と過ごした甘くて栄養満点な「おやつの時間」を懐かしんでいるのだろう。
しかし、舞台少女たちはその本能に従って甘かった自分に別れを告げ、飢えて、渇き、次の舞台へと歩いていく。再生賛美曲において、舞台少女は「夜明け前のひととき」という形で形容されたが、第101回スタァライトの第一稿にあるように、上りゆく太陽とともに夜が明ければ、夜の時間は終わり、星のあかり、スタァライトは終わりを迎える。
4.大人の理屈とガキのわがまま
さて、こうして見ると劇場版の大場ななは一貫して大人としての演技を振舞っており、それはある種、保護者としての責任のようなものを感じられる。しかし、ここからが重要なのだが…本作劇場版スタァライトにおいて、次の舞台を目指すための大人としての覚悟は必須事項ではあるものの、それを持っているだけで十分というわけではないのだ。
例を挙げるなら、怨みのレヴューにおいては石動双葉は「大人の理屈」をもって花柳香子に挑んだが、それはあっさりと一蹴され、香子を貫くことができたのは「ガキのわがまま」だった。また、競演のレヴューでも神楽ひかりの華恋に対する大人の理屈は否定され、その中に潜む子供じみた理由を吐き出したことでレヴューは幕を閉じた。魂のレヴューにおいても、舞台に立ち演じ続けるという覚悟を示したはずの天堂真矢の心にあったのはがらんどうの鳥であり、そこから西條クロディーヌが暴いた天堂真矢の素顔は負けず嫌いの子供じみた態度と、私はいつだって可愛いという自負であり、そこには自身を神の器とうそぶく達観した姿はない。そして最後のセリフにおいては、華恋が舞台に立つ理由、神楽ひかりの「今の私が一番わがまま」という口上などからは、大人の冷静な達観ではなく、子供の持つプリミティブな欲求が色濃く見える。
動き出した時間によって大人にならなければならない舞台彼女たちは、舞台少女ではなく舞台女優として「舞台に立つ覚悟」を持たねばならず、これは大人としての自覚、「自分たちがもう一緒には居られない」という別れを受け入れ、次の舞台を目指すことを前提にしている。そうして彼女たちは貪欲に獰猛に、次の舞台へと飛び込んでいく。しかし、そのためのロジックとして自身を納得させるそれっぽい理屈をこね、自身の内にある「舞台に立つ理由」を忘れてしまったものもまた、その旅の途中で熱を失い倒れる。西條クロディーヌの言葉を借りるなら、それは大人になるのではなく、満足して「老いて死んでいく」のだろう。
つまり、本作において、舞台少女は大人としての「舞台に立ち、そこで生きていく覚悟」と、大人になるまでの今に至るまで自分を突き動かしてきた「どうして自分が舞台に立っているかの理由」、この二つを自覚せねばならないのだ。
5.大場ななの涙の意味
では、その観点から見て狩りのレヴューはどうだろうか。星見純那に関しては、かなり分かりやすい。レヴューの序盤において、星見純那は「私は私の道を進むだけよ」と、それっぽいことを言って自分を納得させようとしている。映画序盤における進路相談や、電車内での「今は今は」という言葉はモラトリアムを体現し、狩りのレヴューが始まった後にも大人の理屈で武装する彼女からは自身の舞台に立つ理由、「自分こそが主役である」という燃え上がる想いが消えてしまっている。
しかし、レヴューの中で星見純那はその仮面を剥がされ、泣きだし、そして再生産された。自身の内にある世界を灰にするほどの炎、どんな訳があったのかは分からないが、彼女をとても長い間包んで捉えていた炎、理解者など誰一人としていない向かい風に煽られ心を燃やしていた熱い炎を思い出し、そして大場ななに押し着せられた白い死に装束ではなく、自身のレヴュー服をまとって大場ななの星を弾く。
そうして、星見純那は次の舞台へ進む覚悟と、自分が抱いていた情熱を取り戻し、胸を張って歩いていくわけだが。問題は大場ななだ。
再生産され去っていく星見純那を背に、大場ななは「終わったのかもしれない、私の再演が、今…」と独白する。そもそも再演は迫りくる未来から舞台少女たちを守るために行っていたものであり、その一人、あるいはもっとも彼女が守りたかった相手である星見純那が未来へ向けて歩いていけると証明したならば、大場ななが彼女を守る必要はなくなる。そういう意味で、星見純那が他ならぬ大場ななを倒して見せ、自分の道を歩ていけることを示したこのタイミングこそ、本当の意味での再演の終わりということだったのだろう。
では、心残りが消え去った大場ななは綺麗さっぱり気分よく歩いて行けたか?と言えば、そうではない。星見純那に落とされた上掛けを拾い、「私も、私だけの次の舞台に…」と呟く彼女の姿は、非常に後ろ髪を引かれているように見える。
しかし、その直後「でもいつか、また新しい舞台で…一緒に」という星見純那の言葉を受けて、ようやく大場ななは歩き出し、そしてその道の中で「やっぱり…眩しい」「…泣いちゃった」というやり取りがかわされるわけ、だが。
この「泣いちゃった」というシーンこそが、序盤の「なんだか強いお酒を飲んだみたい」という、大場ななの「大人としての演技」をはぎ取り、「ガキのわがまま」、言い換えれば舞台に立つ理由を最後の最後に引き出したシーンだと、自分は捉えている。
というのも、この「泣いちゃった」というシーン、狩りのレヴュー単体で見れば星見純那の逆転の演出と取れるが、「大場ななが涙を流す」というのは、アニメ版を踏まえると極めて大きな「大人と子供」という文脈があるのだ。
アニメ版において大場ななが涙を流すシーンは二つある。まず一つは第7話「大場なな」の冒頭にて、第99回聖翔祭の打ち上げで共に舞台を作る仲間たちと過ごす時間のキラめきに感極まった、いわば大場ななの原点だ。
「私、この学園に来て良かった。みんなで作る舞台がこんなに楽しくて、幸せで、キラめているなんて。この舞台を、第99回聖翔祭のスタァライトを忘れない。」
私が見つけた、永遠の仲間と運命の舞台。
この日、生れたのです。舞台少女、大場ななが――
そして、もう一度彼女が涙を流すシーンは第9話「星祭りの夜に」にて、再演が途切れ消沈する大場ななを星見純那が勇気づけるシーン。
知らなかった。
ななってこんな大きいのに、怖がりで、泣き虫で……子供みたい。
大場ななは迫りくる未来から舞台少女たちを保護するために再演を続けた。しかし、それは誰よりも未来を見据えた、達観した大人だったが故の保護者としての視点ではなく、むしろ大人になりたくない、ずっと子供のままで同じ舞台にいたい、大切なみんなと離れ離れになりたくない、という誰よりも「子供らしい」動機が、大場ななの舞台少女としてのスタート地点だったのだ。
そして、劇場版における狩りのレヴューで星見純那が旅立っていくことは、保護者としての大場ななにとっては心残りが消えるが、その「みんなと一緒に居たい」という、彼女が「舞台に立っていた理由」から見れば、問題は解消されていない。なにせ、再生産されようがされまいが、結局は卒業を迎えた大切な仲間達がそれそれの道を行くために離れ離れになってしまうなら、大場ななにとっては舞台に立つ理由が消えてしまうのは同じだからだ。
故に、星見純那が自身が舞台に立つ理由を取り戻し、前へと進める状態だったのに対して、大場ななは「時間が動き出した以上は未来に行かなければならない」という義務感のみ、大人としての理屈だけを依り代に、子供としての欲求を失った状態、老いた「大人の理屈」だけで進もうとしていたと思われる。そうして未来に進んだとしても、大場ななに待つのは再演の果てに彼女が見た未来…舞台少女としての死だけだっただろう。
しかし。別れの間際、星見純那が放った一言が、世界観を拡張し、彼女の「ガキのわがまま」を肯定し、映画序盤からずっと纏っていたその大人の演技をはぎ取り、子供としての素顔をむき出しにする。あの夜、彼女が涙を流した、聖翔音楽学園の中庭の噴水を模した舞台セットの前で。
「でもいつか、また新しい舞台で…一緒に」
幕を下ろそう いつか舞台で会える
かつて大場ななが見つけた運命の舞台から舞台少女たちは旅立っていく。しかし、彼女たちが舞台に立つ限り、同じ舞台という世界で共に生きる彼女たちは、決して離れ離れではない。たとえ歩む道は違えど、彼女たちが歩むのは同じポジション・ゼロの上であり、そしてこの世界で演じ続ける限り、新しい舞台で会うこともできるのだ。
この、最後の星見純那の言葉と、まるで幼子をあやすような優しい歌声によって、大場ななの「子供してのわがまま」、つまり「みんなと離れたくない」という、誰よりも背が大きいのに、誰よりも幼い大場ななの舞台に立つ理由は、再び燃え上がった。
そうして舞台に立つ覚悟を決めた大場ななは、強い酩酊状態を示す「虎になる」という慣用句のごとく、強い酒の酔いで未来への恐怖を忘れるのではなく、みんなで共に歩むこの舞台の上を、まっすぐに歩いて行った。子供のように、嬉し涙を流しながら。
やっぱり…眩しい。
つまり。狩りのレヴューとは大場ななが星見純那に切腹を迫り、結果として彼女を再生産させたレビューであったと同時に、最後の最後の瀬戸際で、星見純那の言葉がまたも大場ななを再生産させたレヴューでもあったのだ。
そして、最後に彼女が涙を流すというアニメ版を踏まえた子供としての文脈につながる形で、皆殺しのレヴューの際の大場ななは大人を演じていたからこそ、強い酒、未成年というワードが問答に登場した…というのが、本作における大場ななに関する自分の解釈だ。
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